20-7 伏見 宿3
薄闇でカチリと瀬戸物が触れ合うような音がした。
弥太郎がそんな音をたてるときはわざとだ。
一瞬止まった手を動かして、湯呑みの薬湯を飲み切ると同時に、天井からコツンと一度小さなノックの音がした。
「段蔵か」
その名を呼ぶと、すっと視界の端で天井板がずれる。
ぽっかりと小さな闇が四角く口を開いた直後、するりとヒト型の影が室内に降り立った。
「失礼いたします」
遠江で顔を合わせてから半月と経っていないが、随分前のように感じる。
暗がりなのでその表情まではっきりわかりはしないが、渋い顔をしているというのは伝わってくる。
この混乱は勝千代のせいではない。断じて違う。
そう言い訳したくなったが、ギリギリで堪えた。
「土方に変わりはないか」
段蔵がここにいるという事は、国元で何か異変があったのだ。
例えば出兵を命じられたとか、急ぎ勝千代に知らせたい緊急事態が起こったとか。
内心、京の状況を父に知られたくないと思っていたこともあって、思考回路は隠蔽方面に傾いているが、言い訳や誤魔化しをするより先に、段蔵が何故ここにいるのかを聞かなければならない。
弥太郎から、段蔵が用事を済ませてから顔を出すそうだと聞いて、ドキリと心臓が跳ねた。
北条軍のように、父が伊勢殿のはかりごとに乗せられ、京まで来ようとしているのではと危惧したからだ。
実際には、軍勢を率いているのは父ではなかった。
ホッとしたことは事実だが、状況はさほどいいとは言えない。
「朝比奈殿はどこまでいらしている?」
「近江に入られました」
予想していたよりもずいぶん早い。
今川軍が上洛しようとしているのは事実で、大将は御屋形さまではなく朝比奈殿だった。
朝比奈殿と聞いて思い出すのが、四年前のあの狂気的な、破滅に向かうような眼差しだ。
あれから一度も会う機会はなかったのだが、いくらかでも回復しているのだろうか。
軍勢の数は五千。総大将は朝比奈殿。副将は井伊殿だそうだ。
嫌な予感を覚えても仕方がないだろう?
今川軍とはいっても、そのほとんどが遠江の者たちで、駿河勢は含まれていない。
福島家がそこに混じっていない事もあわせて、陰謀臭がプンプン漂っている。
あまりにも臭いので、顔を顰めたくなってしまった。
「そのほうの用事とやらは済んだのか?」
「はい。急ぎ堺で離脱用の船を確保することでしたので」
離脱用?
「すぐにも遠江に帰還するようにと、殿が」
国元にいる父が、京のこの状況を察知できるはずもないのだが、朝比奈殿が大軍を率いて上洛すると聞いてトラブルが起こると察したのだろう。
だがすでにもう手遅れだ。
今さら勝千代だけが手を引くことはできない。
「こちらの状況は聞いたか?」
「……はい」
薄暗くても、相変わらずの段蔵の姿勢の良さはよくわかる。そんな彼が、一度として弥太郎の方へ視線を向けないのも。
そんなに怒ってやるなよ。弥太郎に責任がないのはわかっているだろう? 人員不足だから遠江にまで知らせを送ることが出来なかったのだ。
知られたくなかったからと言って、隠そうとした訳ではない。……ないったらない。
「それで、表立っての用件は何なのだ? 御屋形様の名代としての上洛だろう?」
「龍王丸君の元服のご報告です。幕府から結構なお祝いの品を頂いたそうで、その返礼にと」
「元服の報告とお祝いの返礼に、五千の軍を率いて行くのか?」
「御台様がどうしてもとおっしゃったそうです」
我が子の祝い事を盛大にしたいからだと見えなくもない。
だがその人員が遠江勢ばかりだという事に作為を感じる。もちろん、ぴったりいまの時期に合わせたという事も。
段蔵の常と変わらぬ無表情を見返して、勝千代は長く息を吐き出した。
「父は何と?」
「いやな予感がするから即時帰還せよと」
その予感は正しい。
だが、朝比奈殿が今川軍を率いて京まで来てしまった以上、一抜けたと逃げ出すなど問題外だ。
「本心からそれに従いたいところだが、今川軍を置き去りにしてここを去れば、後々もっと面倒なことになりそうだ」
応仁の乱リターンズ。この国に再び未曽有の大乱が巻き起こり、否応もなく今川家もそれに参戦する未来が見える。
もちろんその際の陣営は伊勢派なのだろう。
御屋形様の御判断を待たずして、半強制的にそうなってしまうよう仕組まれている。
気に入らない。
国を守るためでも、たいして利があるわけでもない戦に巻き込まれ、今川家の大勢の命が危機にさらされることになる。
それが御屋形様が決断しての事ならまだしも、なし崩し的に、どうしてこうなったのだと首を傾げたくなる理由での参戦だ。
「朝比奈殿は、どこまで御存じなのだろう」
口にするまでもない。何も知らないと思う。左馬之助殿同様、建前の理由を信じて京への道を進んでいるはずだ。
六角や朝倉はどうなのだろう。知っていて伊勢殿に協力しているのだろうか。知らずにこの状況にがっつりのみこまれてしまったのだろうか。
彼らの様に、もはや引き返せないところまで行ってしまう前に、朝比奈殿と話をしなければならない。
「いつここへ到着する?」
勝千代がそう問いかけると、段蔵は渋い表情のまま「二日後には」と返答した。
「東海道ということは、山科を通るな」
ふと、いい機会なのかもしれないと思った。
今川軍の五千で下京へ向かい、こっそりとその軍勢の中に引き込んでしまえば、皇子を無事に連れ出せるのではないか。
山科を経由し、下京を通り過ぎ、伏見に布陣する。
大量の兵が京の町中に滞在することはできないので、郊外に陣を敷くのはおかしなことではない。
ああ、いいかもしれない。
協力すれば、北条も他陣営に潰される心配なく引くことができる。
伏見に布陣し、再び山科から東海道沿いに帰還する。
六千もの軍勢ならば、おいそれと手出しは出来まい。
指示された通り幕府に元服の報告とお祝いのお礼をして、深入りせずスピーディーに帰還すればいいのだ。
命じられたことをきちんとしたのだから、御台様も文句は言えまい。
懸念点があるとするなら、北条軍における副将のように、朝比奈殿に叛意を持つ何者かがいるかもしれない、ということだ。
朝比奈殿より先に井伊殿に会うべきか?
とにかくこれから先は、スピードが命だ。




