20-5 伏見 宿1
そのあと、問題なく伏見にたどり着けた。危惧するほどルートは外れていなかったようだ。
戻るまでに敵と遭遇する事もなかった。
始末できなかった追っ手は十名ほど。全員が証如を追いかけていたとしても、その程度に手こずるうちの連中じゃない。
もちろん、とてつもない腕利きが中にいるとか、拉致ではなく暗殺が目的だったりしたら危険はあったかもしれない。
だがあとで聞いた話によると、伏見の近くで北条軍に保護されて、比較的早い段階で安全圏に入れたようだ。
勝千代がほうほうの体……つまりは酔っ払いの小荷物状態で宿までたどり着いた時、北条主従は暢気な顔をして逢坂老と向かい合って茶を飲んでいた。
「ご無事でようございました」
そう言ってニッコリ微笑むのは遠山だ。
重傷患者のはずの左馬之助殿は、顔に大げさな当て布をしてはいるが、昨日よりも格段に回復してきたのが分かる仕草で、ふらふらしている勝千代に向かって片手をあげた。
「朝倉が軍を下京に移動させ、阿波の軍勢も淀の宿まで兵を引いた。どうやら雑兵どもが騒ぎを起こしたようだ」
「とんでもない事になっておりますよ」
主従は口々にそう言って、青息吐息で肩を上下させている勝千代の返答を待った。
ちょっと待ってくれ。
ずっと抱きかかえられて運ばれたのだが、速度を重視した分かなりの強行軍だったので酔いが酷い。
まっすぐ立っていられずにふらつき、傍らの土井に支えられる。
数十秒かけて息を整え、改めて北条主従に目を向けた。
どうしてここにいるんだこの野郎……とはもちろん尋ねなかった。
「証如さまとうちの者たちを保護してくださったそうで、ありがとうございます」
「……子供を追いかけるなど、武士の風上にも置けぬ」
多少渋い表情なのは、あの子が本願寺派の嫡流だからだろうか。
「そなたの仕業なのだろう? どちらの軍勢もひどい混乱だ」
報告をうけているわけではないが、こうなるだろうと予想はついていたので曖昧な笑みで返す。
「うまく行きましたか」
「この上もなく。……まこと末恐ろしいものだ」
褒められたのか、呆れられているのか微妙なところだ。
勝千代はポジティブに捉えて「ありがとうございます」と礼を言っておいた。
両軍はいったん引いた。
一触即発の様相で向かいあっていたのだが、その足元で雑兵たちが戦う事を渋り始めたからだ。
両陣営で、馬が暴れ出したり兵糧が水浸しになったり火の粉が飛んでボヤ騒ぎが起こったり、ミスなのか本当にただの不運なのかわからないトラブルが連発した。
雑兵たちはその度重なる悪い出来事を、「御仏がこの戦に御怒りになっているからだ」と騒いでいるのだそうだ。
そんな些事で軍が足止めされるのかと疑問に思うかもしれない。
だが、兵士の九割が雑兵であり、農民であり、つまりどの陣営に属しているかなど関係なく、本願寺派の門徒は非常に多いのだ。
表立って宗派の名前は出て来ていないが、間違いなく興如らによる指示を受けての行動だろう。
もはやどこの誰が元凶なのかわからないほどの混乱ぶりで、雑兵たちは怯え、尻込みし、泣きながら槍を放り投げ念仏を唱える者もいるそうだ。
もちろん、雑兵らのすべてが門徒というわけではない。
だが目に見えないものを信じ畏れるこの時代の人々が、真横にいる仲間が怯えている姿に同調してしまうのはやむを得ない。
とりあえずこの混乱を鎮めるために、兵を下げる決断を下したのだろう。
両陣営ともに、互いの敵が仕組んだ策だと考え、混乱に乗じて攻撃されることを恐れたのだ。
なかなかうまく行ったと思う。
誰を悪人にするわけでもなく、どこかに被害を出すわけでもなく、とりあえずの時間を稼ぐことはできた。
後はそれが、どれぐらいの日数になるかだ。
興如がどの程度まで手を広げたかは定かではないが、数日あれば国元での流行り病や自然災害(それもまた仏罰)の噂は届くだろう。
仏罰かもしれぬ故にお助け下さいと書かれた嘆願書は、地味かもしれないが確実に無意識下に作用して、それを扱った役人らから噂としてまた広がっていくだろう。
時間を置けば置くほど、悪い噂は万里を走り、信憑性を増す。
混乱を抑えようとして、かえって当の大将が不安になってくるパターンだ。
このまま浮足立って全軍が撤退すると楽観しているわけではもちろんない。
噂の真実を調べ、いずれは意図的な流言だと知られてしまうだろう。
だが少なくともしばらくの時間は稼げる。
北条軍にとっても、下京で身を隠している皇子にとっても、この時間は貴重だ。
「お勝殿」
この先どうするかについて思いを巡らせていた勝千代は、左馬之助殿に名前を呼ばれてはっと我に返った。
妙に真剣な表情で、居住まいを正してこちらを見ている。
顔に当て布をしていても、表情がよく読み取れる男だ。わかりやすいともいう。そんな左馬之助殿のやけに深刻な表情に、勝千代もまた居住まいを正して向き直る。
「はい」
何か深刻な案件でもあるのだろうか。
北条軍が気を配るべきなのは、国元からの指示書が確実に届くか否かのはず。彼らにとっては時間だけが必要なもののはずだ。
「伊勢殿から……いや、新公方様からこのような親書が届いた」
「新しい公方様ですか? いつ将軍宣下を?」
聞くまでもない。そんな時間的な余裕はなかったはずだ。
つまりは自称? 正気で勝手にそう名乗っているのか?
勝千代は左馬之助殿が懐から取り出した書簡を見つめ、顔を顰めた。




