19-6 山科 本願寺5
その地底湖の周りには大小さまざまな石が積まれていた。さながら、賽の河原のように。
ざあざあという水の音は、階段の真横あたりから滝のような水流が湖に注ぎ込んでいる音だ。
暗くて全貌はよくわからないが、それほど広い湖ではない。
これだけの水量が流れ込んでいて、水が溢れそうにないところを見ると、もちろん水の出口がどこかにあるのだろう。
川につながっているのだろうか。
「あちらに阿弥陀如来像がございます」
石川父が指し示す方向に、なるほど、石の地蔵などが並び、その奥にぽつねんと一体の木造の像があった。きれいな白い布の上に置かれ、その前にロウソクが灯っている。
急ぐ道行きだったが、目で見てわかるほどに安堵の表情を浮かべた証如のために、四半刻ほどの時間を取った。
勝千代は、彼が仏像の前で必死の面持ちで読経する背中を見守りつつ、側付きたちが周囲をざっと索敵して回る許可を出した。
索敵と言っても、暗い湖の端から端までを確認し、次に進む先を少し調査し、当面の危険はないか調べる程度の事だが。
じっとしていると、冷たい岩肌にどんどん体温を奪われ、身体が冷える。
証如が三十分で切り上げてくれたことに感謝しながら、一行は再び先へと進んだ。
下りがあれば、上りもある。
覚悟していた通り、今度は上りの階段だ。
危惧した通り、勝千代はおおいに足を引っ張った。不本意ながら証如よりも体力がない。
逆に腕を引かれ、ハアハア肩で息をする勝千代に、証如は文句ひとつ言わなかった。
初対面では気に食わないクソガキだと思ったが、なかなか辛抱強い子だ。
証如が自分の足で歩いているのに、勝千代が運んでもらうわけにはいかない。
もはや身体も足も疲れ切り、注意していないと段差を跨げず躓いてしまいそうだったが、必死で前を行く者の背中を追った。
かなりペースダウンして、皆の迷惑になっていたと思う。
それでも最後まで自力で上り切ったことを、褒めてやりたい。
「つきましたよ」
わき道はいくつか見かけたが、石川が案内したのはほぼ一本道だ。東山の西斜面、京方面に抜ける通路は距離もあるし経路が複雑なので、今回は南東に抜ける道を使ったそうだ。
出た所は洞窟の奥だった。古びたお堂のような設備があり、その脇には小さく水が湧いていた。
旅人が休息しているのだろうか、焚火のあとがいくつかあり、まだ真新しい握り飯のお供え物もあった。
勝千代は肩で息をしながら周囲を見回し、少し先から明るい光が漏れているのを見て取った。
夜が明けたのか。
誰も一言も発しないままに歩を進めた。
「……っ」
声にならない悲鳴を上げたのは、証如だ。
燃えている。
木々が、何もかもが、燃えている。
昨晩見下ろした時には本願寺の門前町だけだったのが、いまではその周囲の森も、どこもかしこも火がついている。
そう……六角軍の陣中にも。
「……やりすぎでは」
呆然とそう呟いたのは三浦だ。そうだよな、誰でもそう思うよな? 激しく同意しながら首を上下に振っていると、「はは」と乾いた声が上がった。
「仏罰だ」
証如だった。
勝千代だけではなく、石川親子までもが息を飲んでその顔を見つめてしまう程、燃えあがる六角軍を見下ろす眼差しは冷ややかで、怨嗟に満ちていた。
「御仏が我らに御味方くだされたのだ」
先程まで、黙々と勝千代の手を引いてくれていた少年が、今ではまるで別人のように恐ろしい表情をしている。
幼くとも彼は、狂信的な信仰を集める本願寺の嫡流なのだ。
「いや、あの火をつけて回ったのは門徒……」
そう言いかけたのは土井だが、隣の南に脛を蹴飛ばされて黙った。
次第に日が昇り、朝日が背後の山を越え眩く盆地に差し込んでいる。
さわやかな朝のはずなのに、漂ってくるのは生木が燃えるくすぶった臭いだ。
幸いにも、人馬の悲鳴が届く距離ではなかった。
その燃える臭いが届くこともなかった。
朝日に照らされたその炎は、いっそ美しいほどだったが、そこで実際にどういう事が起こっているのか、この位置からでは伺い知ることはできない。
燃えている。
朝日に照らされ、なお一層炎の勢いは増し、六角軍の陣幕も旗も、なにもかもに火がついているのが見て取れる。
今は、必死で消火にあたっているだろう。
そして事が落ち着いた後、誰が火をつけたのかが問題になるはずだ。
おそらく実行犯は雑兵の門徒たちで、しかもこの規模の火付けをしたとなればかなりの人数がいたとわかる。
そのことに六角殿は気づくだろうか。……気づかないわけがない。
つまりは、本願寺門徒への迫害が起こる。
勝千代は、ブルリと身震いして両腕をこすった。
一向一揆が最も盛んに起こるのは、家康信長の時代。つまりはまだ何十年も先のはずなのだ。
勝千代の介入により、早い段階でそれが起こってしまうのかもしれない。
それがどういう意味をもつのかなど、わかるわけはない。
歴史とは過去に起こったことの結果であり、リアルタイムで今現場にいる勝千代にとっては参考程度にしかなりはしないのだ。
……いや、まだだ。
勝千代はぎゅっと奥歯を噛みしめた。
六角軍は門前町に火をつけて回っている。風が強い夜だったので、飛び火したのだと言い張ることは可能だ。
「御仏は我らをお守り下されている」
証如がつぶやき、「はい」と石川親子が同意している。
もういっそ、六角家を仏敵だと名指しで責め立てるのが得策なのかもしれない。
勝千代は魅入られたように炎を見据える彼らを横目に、弥太郎を探した。
一行の最後尾にいた彼が、勝千代の視線を受けてその場で片膝をつく。
勝千代は六角軍の方へ目を戻し、再び弥太郎を見て軽く頷いた。
被害のほどはどれほどだったか、それにより内部にいる本願寺派がどういう扱いを受けているか知りたい。
もちろん、火がついただけで戦いが起こったわけではないので、見た目ほど被害は出ていない可能性はある。
それでも、状況が状況だけに門徒は疑われるだろうし、もし火をつけた現場を押さえられていたなら処罰は重いはずだ。……証如の耳には入れたくない話だな。
燃え広がる炎は、ますます勢力を強め風下の方へとその腕を広げていく。
青々とした木々が見るも無残に焼かれていく情景は、凄まじいほどの美しさだ。
それは無慈悲なまでの勢いで、もはや人の手を離れ、神か仏か、人知を超えた力によって六角軍を嘗め尽くさんとしているように見える。
仏罰か。
その言葉を繰り返す証如に言ってやりたい。
あの燃える最中にもおそらく門徒はいる。
何も知らずに焼かれている者の中にも、本願寺派の者はいるはずだ。
これは仏罰ではない。
人の手による、ただの残虐な行為だ。
そこに正当性などありはしない。




