17-6 伏見 松平2
京を守っている伊勢六角軍が、守る相手であるはずの下京の人々から米を奪った。
通常時であれば、何かの間違いかもしれないと思う者もいただろう。事情があるのかもしれない。あるいは、伊勢六角軍ではなく、個別の誰かが私腹を肥やしているのかもしれない……と。
だが、ずっと食う物が足りず空腹を抱え、ただでさえ上京のほとんどが焼失してしまうという不安な状況下。目の前で起こっていることを寛容にとらえる事が出来る者は少ない。
懐疑心は積み重なり、不審は敵意を生じさせる。
『守ってくれている』から『監視されている』に。
『町に敵を入れない』から『町に我らを閉じ込めている』に。
これまでの信頼が揺らいだ時、人間の好意は一気に悪意に振りぬく。
そう遠くないうちに、誰かが言うだろう。
「本当に伊勢様は我らの味方なのか?」
一度ぐらついた信頼は、もとの状態には戻らない。
「公方様は伊勢様らにより謀殺されたのではないか」
「恐れ多くも上京に火を放ったのは……」
噂は真偽とりまぜ、尾ひれ背びれをつけてどんどん大きくなるはずだ。
そんな中、松平の軍が下京を強行突破した。
たとえ北条が目をつぶった結果なのだとしても、三十もの大人数が強引に囲いを破ったことは、似た環境にいる者たちにとって大きなきっかけになるだろう。
その気になれば、己らも下京を脱し国元に帰ることができるという希望だ。
下京の人々の伊勢六角軍への忌避感と、今まだ下京に捕らわれている地方の武家たちの利害が一致している。
この双方が手を組むのは必然だ。
さあ、動け。
水草が揺れる川を眺めながら、コップから水があふれる瞬間を待った。
そしてそれは、勝千代の知らないところですでに始まっていた。
後から聞いた話によると、丁度柳の木の下でヤマメを観察している時間帯だったようだ。
片や命を掛けて刀を振り上げ、片や川魚の尻尾をのんびりと目で追う。
徒歩でたった数時間の近距離で、世界はこんなにも違うのだ。
「童」
橋の欄干の上から、聞き覚えのある声が振ってきた。
今この町で、自由に外を出歩いている子供など勝千代ぐらいなものだ。
呼ばれて振り仰ぐと、逆光になってよく見えないが、声だけでもその主を判別できた。
「小賢しい真似はせぬことだ」
ずいぶんと含みがある言い方をするのは、白髪の老人。はっきり顔が見えずとも、そのシルエットだけですぐに誰かわかる。
勝千代は、小橋の上にいる松平の老人に向かって「はて」と小首を傾げた。
「それは忠告でしょうか、それとも……」
忠告であろうが恫喝であろうが構わないのだ。露骨に威圧してくる態度こそに注意が必要だ。
橋の上の老人が、チッと舌打ちした。
「物事には分相応というものがある」
憎々し気というよりも苛立たし気にそう言って、ちらりと京のある方向に目を向ける。
空は雲ひとつない快晴。見えるのは高い位置で滑空する鳥のシルエットだけだ。
「手に負えぬほどの火事になってから、そんなつもりではなかったのだと、子供の言い訳は利かぬ」
「……そうですね」
勝千代は真顔で同意し、ほかならぬ彼らが下京を脱出したことがきっかけになったのだと言いたいのを飲み込んだ。
止めることもできたのに、進んで脱出に力を貸したのは間違いない。
谷ら護衛組が、小柄な勝千代を物々しく取り囲んだ。
ぐっと肩を押されて、橋の下から少し距離をあける。
「火消をなさるつもりはないのですね」
相手がどう答えるのかわかっていて、そう尋ねてみた。
地方の国人領主である松平には、そんな事をする理由も利点もない。自身と配下の者たちの命を優先させるのは、間違った行動ではない。
それを言うなら、福島家も条件は同じだ。
ただ、しがらみを捨て置けない勝千代の気性故にこのような事になっている。
「いつ発たれますか」
先の返答を待たず、問いかける。
逆光になっていても、その身なりが旅装だというのは見て取れていた。
つまり松平家は、早々に伏見からも去るつもりなのだ。
今ならひそかに川を下るのも容易いだろう。
「日が暮れたらすぐにでも」
「そうですか。道中のご無事をお祈り申し上げます」
松平の動きは正しい。
勝千代も、権中納言様がいらっしゃらなければ、何日も前に同じ行動をとっていただろう。
ああそうだ、老人は権中納言様や皇子の事に関心はなく、あの方々がどういう状況にあるか知らないのだ。
田舎住まいの一武将の嫡男が、よもや一条家や帝の第一皇子と関わっているとも思うまい。
むやみに広げる話でもないので、知らないのなら知らぬままでいる方がいい。
勝千代は丁寧に頭を下げてから、踵を返した。
松平家については、数十年先にこの国を平定する男が生まれて来るまで、存続してくれるだけでいいのだ。
むしろここで花と散るようなことになり、家康が存在しない時間線になる事だけは避けたい。
「童」
数歩もいかないうちに、再びそう呼び止められた。
振り返るが、老人の表情はやはり逆光でよく見えない。
「他所の者がつけた火を消して回る必要はない」
首だけ巡らせた姿勢のまま、少し驚いて目を見開いた。
ここでわずかなりともアドバイスじみた言葉を聞くとは思っていなかった。
マジマジと表情の良く見えない老人を見上げて、「そうですね」と小さく頷いた。
伊勢殿が巻き起こそうとしている大火は、本来であれば勝千代程度がどうこうできるものではない。
「ですが、少しでも被害が少なくなればと願っています」
自分で言っておいて、自嘲した。
そういうところが分相応ではないと老人は言いたいのだ。
だがすでに、別の火種を丁寧に起こしたばかりだ。
この結果を最後まで見守る義務はある。
「御忠告、肝に銘じます」
そう応えを返すと、見えないはずの老人の顔が、なお一層渋く顰められるのが分かった。




