17-3 伏見 宿3
二日間寝込み、三日目の朝に床上げをした。
幸いにもひどい高熱にまでは至らず、乗り切ることができた。
布団が欲しい。ずっと寝ていたから腰が痛い。
いつもより苦い薬湯を、眉間にしわを寄せながら飲み込み、辛抱して冷め気味の白粥を口に運ぶ。
腹が満たされると気分も落ち着いてきた。
「……それで、客人とは?」
食べている最中、客が来ていると告げられた。
いつ来たのだと尋ねると言葉を濁されたが、それほど長時間待たせてはいないと思いたい。
「おお、若君!」
相変わらずの大きな声。客とはこいつか。
遠山は全開の笑顔でそう言って、いそいそと部屋に入ってきた。
この男であれば待たせていいと思ったわけではないが、本陣も近いので日をまたいでの待機はないだろう。
勝千代の顔をみてほっとしたような表情になって、色々と話しかけてきたが、当初考えていたようなご機嫌伺いではなく、見舞いではあるがそれだけでもなく、北条軍の布陣に関してのアドバイスを請われたのには参った。
とにかく声が大きいのだ。もっと普通の音量で話してほしい。
それから、自軍のことは自軍で判断してくれ。
え? 「任せた」と言われたからだって? 左馬之助殿の意識はしっかりしているのだから、本人に直接聞けばいいじゃないか。
しばらくして三浦兄が、「もうひと方お待ちなのですが」と、遠山に対しまったく遠慮していない口ぶりで言ってきた。
前の客がいるうちにそんな事を言えば、ストレートに「帰ってくれ」という意味にとられるぞ。
遠山にも間違いなくそう伝わったはずだが、当の本人は気分を害した風もない。
それどころか「お気になさらずお連れ下さい」などと、よくわからない返答を寄こしてくる。
まだ居座るつもりか、この男。……追い出してもいいかな。
「失礼いたします」
遠山がまだ帰ってくれないうちに、もの凄くくっきりとよく通る声が廊下から響いた。
通す前に誰が来たのか聞きたかったのだが、遠山がいるのでうまく事が運ばない。
土井の案内で部屋に入ってきたのは、三十歳ほどのやけに眉毛が濃い武士だった。
身なりも所作も、小奇麗にはしているが特に身分が高そうではない。
最上座に座っている勝千代を見ても、不審な表情もしなかった。
こちらの事情を知っているか、動じない気質なのか。
「ご挨拶申し上げます。三河松平家家臣、酒井左衛門と申します」
三河。松平。
遠山の存在に気が緩んでいたのかもしれない。
名乗りを聞いて、鋭い衝撃が背筋を走った。
思い出すのは、四年前の三河からの侵攻と、奥平の陣代を務めた榊原の件だ。今となっては確かめるすべはないが、松平家からの埋伏の毒だったのではと疑っている。
あの後も三河の事は調べさせている。
のちの家康が生まれてくる家だという理由もあるが、四年前の動きがやけに印象深かった為だ。
実の親子間で揉めていたのは、やらせでもなく事実で、実際に当時の当主はその座を追われた。今は勝千代よりいくらか年上の、若い当主に代替わりしている。
とはいえ実権はその祖父が握ったままで、若い当主の方はまだ表には出て来ていない。
どうしてここ京の地に松平家が?
そう問いかけようとしたが、勝千代とて人の事はいえない。
勝千代は本当にただの遊学のためだが、松平家の何者かも用事があってたまたまこの地にいたのだろう。
「三河の方が、このような場所で偶然ですね」
人の縁とは面白いものである。
松平と聞いてすぐに四年前を思い出したが、実際に松平家はあの戦に参戦はしていない。
画策する何かがあり、関わっていたのは事実だろうが、表面的には福島家との間に確執のようなものは存在しないのだ。
ただ気になって、ずっと注目はしていた。
おそらく向こうも同様だろう。
「はい。代替わりが無事に整い、そのお礼とご挨拶のために京へ滞在しておりました」
「それではよもや、ご当主が?」
おそらくは家康の父か祖父に当たる人物だと予想している。
もし今回の争乱が勝千代の知る歴史では起こらなかったものなら、ここでその若き当主殿が死ぬのは困る。
「はい。是非とも無事に三河に戻りたいのですが、下京を出る事すら叶わず、街道も封鎖されております。どうしたものかと相談しておりましたところ、伏見から日向屋が援助の米を運び入れ……」
続く酒井の話を要約すると、なんとしてでも京を脱出したい者たちが、下京には大勢いるのだそうだ。
その者たちは、外部から米を持ち込んだ日向屋になんとか外に連れ出してはくれないかと頼み込み、そのうちの幾らかが川路を使って脱出してきている。
ちなみに松平家で伏見に脱出できたのは二名。こちらの状況を把握するための先鋒だそうで、若いご当主もその祖父も含まれていない。
おおむね、思惑通りに事は進んでいる。
佐吉に頼み込んで京を出ようとする者が出てくるだろうと予想していた。
そうなった場合、伊勢殿方に気づかれない程度に受け入れるようにと言ってあった。
まさか松平家がその中に含まれるとは想像の範疇外だが。
今後も米俵を定期的に送る予定でいる。日向屋の様子を見て、同じように行動する商人も増えてくるだろう。
伊勢殿は早期にこの脱出手段を悟るだろうから、船を用いるこの手立てを使えるのはそう長くはないと思う。
そのうち物資を運び込むことそのものを禁じるだろう。
脱出するなら、そうなる前。今すぐだ。




