17-1 伏見 宿1
疲れた。もの凄く疲れた。
ようやく宿に帰りついたのはすっかり周囲が暗くなった頃。あの後なんだかんだと引き留められて、危うく夕餉まで振舞われそうになった。
途中、田所からの連絡が来なければ、押しに負けてそのまま北条本陣に泊まる羽目になっていたかもしれない。
北条本陣で飲食寝泊まりするだなんて、そんな恐ろしい事は御免だ。
ずっと父に毒を盛ろうとしていたこと、知ってるんだからな!
なんとか固辞することができて、心底ほっとしている。
それにしても、とんでもない事に巻き込まれてしまった。
左馬之助殿は重傷ではあるが、動けないほどではないのだ。「任せた」などと湯浅の前で言わないで欲しかった。
いや、湯浅だけではない。北条軍のその他の者たちにも、勝千代のちょっとよくわからない立ち位置を知らしめる破目になっている。
各々がどういう受け取り方をしたのかわからないが、隣室にいた護衛の兵士たちまでもがめっきり警戒しなくなったのが腑に落ちない。
ずっと長い間勝千代を殺そうとしてきた奴らなのだ。忘れてはならない。絆されてはならない。
……そう自身に言い聞かせている時点ですでに微妙だな。
勝千代はあえて難しい顔を作り、黙って夜道を歩いていた。
そうしていないと、やけに不機嫌そうな逢坂やそのほかの者たちに叱られそうな空気なのだ。
気が緩んでいる自覚はある。
これでは、付け込んでくれと言っているようなものだ。
宿の自室に戻り、思わずこぼれたのが安堵の息だ。
床に手をついて頭を下げている弥太郎に向かって、「やっと戻れた」とこぼす。
危うく帰れなくなりそうだったと、口にはしないが察してくれたのだろう、顔を上げたその表情はやはり険しい。
「よくぞご無事で」
そうだよな、武運を祈られる程度には敵地だと思っていたし、実際にかなり恐ろしい場所だった。
ため息交じりに頷きを返し、今後できるだけ近づかないでおこうと心に誓う。
「田所からは何と?」
「猶予はないそうです」
勝千代はまじまじと弥太郎を見返し、それは置かれている状況の事なのか、皇子の御容体の事なのかと尋ねようとして止めた。
左馬之助殿のように、伝わっているほどの重傷ではない可能性はもちろんあるが、皇子は愛姫よりもさらに幼い子供だ。体力面を考えても、急変してしまうリスクは高いだろう。
怪我そのものよりも、それによる感染症を乗り切れるかのほうが不安だ。
「急いだほうが良いという事か」
「難しい仕事になりそうです」
珍しくそんな事をいう弥太郎に、「それ程か」とつぶやき返す。
何も言わず淡々と仕事をこなすこの男が、そんな弱音とも取れる事を言うのは初めて聞いた。
「お逃がしする際には、他所に目を向けさせる必要がありそうだな」
「川伝いに伏見に、という御計画自体が厳しいかもしれません」
「見張りの目が多いか」
確かに、今一番注目されている町のひとつかもしれない。
早急に策を練り直さねば。
頭の中で、過去知識から片引っ張り出してきた京都の地図を広げる。
南は駄目。東も駄目。北はもっと駄目。
ということは西か?
京から西に向かうルートがあっただろうか。播磨の方に抜ける西国街道?
そういえば、火が出た時にそちら方面に散開した連中がいたな。すでに無事に合流しているが、何か情報をもっているだろうか。
いやそもそも西は山地が続く。大人が担いでいくとしても、腰の骨を折っている子供を運ぶには厳しい道だ。
「山道を長い距離お運びできる御容態ではないかと思います」
勝千代の思考に沿うようにそう言った弥太郎は、そちらもまた厳しいという風に首を横に振った。
そもそも、移動させること自体がよろしくない。左馬之助殿と同様、安静にしておく必要がある時期だと思う。
無理に動かすと命にかかわる。
だとすれば、逃したと見せかけて下京の別の場所に身をひそめる?
あるいは、治安が悪いそうだが右京に向かうべきか?
取れる手段はいくつかあるが、おそらくはどのルートにも見張りはいる。皇子が伊勢殿の掌の上から逃れようとすれば、連中もそれなりの手立てを講じてくるはずだ。
「伊勢殿は皇子をどのように扱うつもりだろう」
むろん、大事な駒だろう。例えば今比叡山を焼き討ちにして、皇族が軒並みお亡くなりになってしまったとする。
残る第一皇子は間違いなく次の帝になり、伊勢殿に大義名分を与えるのだろう。
「よくないな」
どんな陰謀遠謀を企てるのだとしても、幼子をそのネタにしてほしくはない。
「よくない」
状況もよくないし、伊勢殿の進みそうな方向もよくない。
ついでに言えば、勝千代の気分も下降の一途をたどっている。
逢坂らが一礼して部屋に入ってきた。
北条本陣に向かわなかった者たちも、何を聞いたのか険しい表情をしていて、考え込んでいる勝千代の顔をじっと伺いながら近づいて来る。
「早い時刻に、佐吉が挨拶に参りました。明日早朝に下京の店に様子を見に向かうそうです」
三浦兄の報告に、勝千代はふっと顔を上げる。
佐吉。佐吉か。
「監視は入るでしょうが、下京を一通り見て回るそうで」
あくまでも一介の商人として、日向屋の店の無事を確かめに行く。おかしな話ではない。
……いい事を思いついた。
皆さま、沢山の感想ありがとうございます。毎回楽しみに読ませていただいています。
すべてに返信することはできそうにありませんが、体調が戻り次第ぼちぼち返していきますので、ご容赦ください。




