第六話
「うん。旨かった」
ふたりでたらふくそうめんを堪能して。
食事を終えて、私は食器を洗い始めた。
徹がちゃぶ台を台ふきで拭いてくれているのを横目で見て、なんとなく新婚さんみたいだな、と思う。
昨日の今日で、バカじゃないかと、自分でも思うけど、幸せな気分だ。
「この後どうする?」
私は、徹に声をかける。
「ど、どうするって?」
なぜか、徹の声が裏返った。
「このまま帰る? それとも、どこか出かける?」
「あ、ああ」
曖昧な感じの返答だ。
「千夏……どこか出かける用事があったんじゃないのか?」
急に思い出したように徹が言った。
私は苦笑する。急に現実が返ってきちゃったなあと思う。
できるだけ平静な声を作りながら、私は徹に背を向け、食器を洗う。
「それは……急がないから平気。写真撮りに行くだけだったから」
「写真?」
「うん……お見合い用のやつ」
不意に、背中から大きな腕がのびて引き寄せられた。
背中の大きくて硬い感触で、自分が抱きしめられていることに気付く。
水道の水がざあざあと流れ、皿を持った手がふるえた。
「そんな写真、撮りに行くな」
「と……おる?」
私を片手で抱いたまま、徹は水道の蛇口をひねり、わたしの手から皿を受け取ってそっと流し台の中に置く。
「……どうして?」
心臓の音が跳ね上がっていて、苦しい。
「好きだからに決まっているだろう」
「え?」
信じられないその言葉に、振り返れば、徹の瞳に私が映っていた。
「結婚したいなら、俺としよう。見合いなんかするな」
言いながら、徹の手が私のアゴに当てられて、唇に徹の唇が重なった。
「俺では、ダメか?」
私は首を振り、徹の胸に顔を埋めた。広くて硬い、徹の胸が大きく脈打っているのがわかる。
「……好き」
声が震えた。心臓が激しく高鳴り、身体中が熱くなってきた。
「嫌なら、抵抗しろよ」
耳元で囁いて、徹の手がやさしく私の身体を這い始める。
「あっ」
自分のものでないような、甘い吐息がこらえきれずに唇からこぼれ出た。
「悪い。我慢できない」
徹はそう言って、私の頭の後ろに手を当てて、再び唇を合わせた。
むさぼるように唇を吸われ、そして口内に舌が入ってくる。
息が出来なくて、頭がくらくらする。私の身体から力が抜け始めて。
「秋人が留守だってのに、簡単に俺を家にあげたお前が悪い」
いつになく艶やかないろを瞳に宿した徹に、私はそのまま押し倒された。
その日の夜に、『婚約者』として、谷崎家に連れていかれた。
驚くことに、谷崎家の人も、秋人も、誰も『驚かなかった』。
「気づいてなかったの、姉さんだけだって」
と、秋人は言う。
「銭湯の客、みんな、徹が千夏ちゃんを好きなの、わかっていたと思うよ」
と、剛兄さんが笑う。
いつ、どこで? と、疑問が浮かんだけれど、どうやら私は徹の求愛に気が付いてなかったらしい。
それから。美容院のお休みの日に、二人で沢田さんに婚約の報告とお見合いのお断りに行くと、「やっと決まったのねー」と、にこやかに微笑された。
なんでも、谷崎夫人、つまり徹の母親が、いっこうに進まない私と徹の様子にあきれ果て、沢田さんに相談したそうだ。
どうりで、谷崎家の人間はだれ一人婚約に驚かなかったはずである。
「え? じゃあ、お見合いの相手は、徹だったのですか?」
「ふふふ。そうねえ、でも、千夏ちゃんがそのままお見合いする気になって、徹ちゃんが何にも言わないのだったら、いくつかお相手の候補は別にいたけどね」
沢田さんはソファに座った私たちに氷の入った麦茶を差し出しながら、楽しそうに笑い、居間の奥の書棚に置かれている紙束の方に目をやってみせた。
「徹ちゃんは、本当、千夏ちゃん一筋だから、そんなことはないと思っていたけど」
「俺の気持ち、知っていたんですか? 沢田さんも人が悪い」
「何言っているの。徹ちゃんと千夏ちゃんが両想いだなんて、月の湯に通う人間で、知らない人間は『もぐり』なくらい、有名よ」
「え?」
どうやらお互いの気持ちを知らなかったのは、本人たちだけのようであった。
「仲人は、私にさせてね。新婚旅行は、熱海? それともハワイ?」
「……まだ、そこまでは」
戸惑う私たちに、沢田さんは笑う。
「早く決めちゃいなさいよ。赤ちゃん、早そうだから」
「え?」
「うなじにキスマーク、見えているわよ」
沢田さんは、意地悪く、声を潜めて、囁く。
恥ずかしさに震えて、徹を見あげると、顔を赤らめて目をそらしている。
カランと、手にした麦茶の氷が小さな音を立てた。
了
次回はおまけの徹視点となります。
20時更新です。




