第96話 ママがいない
鷹也はいつものように、仕事を早めに切り上げ家に帰ると、母親に抱かれた鈴がいた。
鈴は鷹也の顔を見るなり青くなり泣き出してしまったのだ。
鷹也はその理由が分からなかった。
母親も仕方なさそうな顔をしながら話を切り出した。
「今日、買い物とか用足しをしようと思ってスズを保育園に預けたんだけどね、仲の良いお友達とケンカしちゃったらしいんだよ。爪で顔を引っ掻いちゃってね。先方の親が怒っちゃっててね。あたしも謝ったんだけど、どうもねぇ」
「ほ、本当?」
鷹也は鈴に近づき、彼女の手を取った。
「スズ、どうして? ケンカなんか」
「だって、だってね。マロンたんが、スズたんにはママがいないっていうんだもん。ママはごりょこうに行ってるって言ってもいないんだ、いないんだっていうんだもん!」
鈴はそういうと、母親の胸に倒れ込んで大泣きしてしまった。
鷹也とてどうにもならない思いだった。
ましてや彩からも離婚届を提出するよう求められた。
こんな小さい鈴にその現実が受け止められるはずもない。
自分だってこんなに辛い。
それがもう別の男と暮らしているなどと考えたくなかった。
鷹也は鈴を母親に託し、一人車に乗り込んだ。
まだ開いている菓子店を探して菓子折りを買い、マロンちゃん宅へ謝罪をしにいった。
マロンちゃんの両親は玄関先で鷹也を迎え、家の中に上げようとはしなかった。
鷹也はそこで深々と頭を下げ、謝った。
「本日は、ウチのスズが大変申し訳ございませんでした」
「いえ、子ども同士のケンカですから」
そうは言うものの、それは言葉だけ。
決して許さないような雰囲気を感じられた。
「奥様と離婚なされたのでしょう? やはりお父様だけだとなかなかしつけも難しいかもしれませんね」
「あの……。言って聞かせますので」
「お願いしますよ。もう奥様帰ってこないのでしょう? それを旅行に行ってるなんて譲らないだなんて」
「…………」
「もうご近所さん、みんな知ってますからね?」
「……はい」
鷹也はマロンちゃん宅を出た。
苦しい胸の内。
彩に浮気されたときから始まったが、彼女は本当に寂しかったのであろう。
理解してやるべきだった。
今は新しい男と別な土地で暮らしている。
胸が引き裂かれる思いだ。彼女はそれでいいのかもしれない。
だが、自分の中に空いたこの穴は塞がりようもない。
辛く、哀しい。
鈴にも嘘をついている。
鈴はその嘘を真実だと思っているだけだ。
それで人を傷つけてしまった。
彼女も自分の被害者なのだ。
だが、本当の事を伝えることは彼女にとって辛い辛いことであろう。
母親はもう帰ってこないということは。
家に帰ると、鈴は起きて鷹也のことを待っていた。
鷹也はそれを抱きかかえた。
「なー。鈴。二人でこの家からでて遠くで暮らさないか?」
「え? どこで?」
「遠い田舎町さ。きっとローラー滑り台もたくさんあるぞぉ〜!」
「ホント!? スズたんいきたい!」
驚いたのは鷹也の母親だ。なぜ急にそのような話になってしまったのか?
「アンタ……どうして?」
「母ちゃん。今までありがとう。実は会社から他県にある支社の支社長を命ぜられたんだ。その土地で鈴の幼稚園を見つけて通わせようと思う。二人で生きて行くんだ」
「ちょっと!」
「ああ。深い話は鈴が寝てからする」
鈴は鷹也と風呂に入り、布団の中で腕に抱かれているとその内に眠ってしまった。
それをそのまま寝かせ、母と子は向き合って話しだした。
「……そうかい。アヤから連絡して来たかい」
「そうなんだ。離婚届も来週の月曜には提出する約束をしたよ」
「……ま。仕方ないやね。あちらにも人生があるんだ。ずっとアンタに詫びながら生きて行くなんて出来ようはずもないし、それを強制する事もできやしない」
「だろ?」
「信じられないけど信じるしかないよねぇ。本人が言ってるんだから」
「まーな……」
「あんたはどうするんだい?」
「ん?」
「アヤのことは忘れられんのかい?」
「……忘れるしか……ねーだろ」
「……時間が押し流してくれるかねぇ……」
「まーな……。その頃……鈴は何歳になってるかなぁ……」
「さぁてねぇ……」
鷹也の気持ちも重かった。
いろんなことがあり過ぎた一日だった。
だが明日のために眠らなくてはならない。
鈴に寄り添って、目をとじ深い眠りへと落ちていった。




