第七話
「ねえ、どっちが似合う?」
ユリは二つの水着を左右の手に持つと、交互に自分の前へ持ってきた。
その踊るような楽しげ仕草は、たかしの口元を緩ませ自然な笑みを浮かべさせた。
「右手の黒いのはどう? 君の肌に合うと思うんだけど」
「本当?」ユリはニッコリ笑うと「左手の白の水着が、どうして似合わないと思ったか教えてもらっていい?」と真面目な顔になった。
たかしは慌てて「違う違う!」と、すぐに説明した。「そういう意味じゃないよ。もちろん両方ユリさんには似合うけど、オレが黒が好きなだけ。黒に特別興奮する性的趣向を持ってるんだ。これ本当。でも、君だから興奮するのを忘れないで」
「少し脅かしただけなのに……」
聞いてもいない恥ずかしいことを述べながら釈明するたかしを、ユリは生暖かい瞳で見ていた。
「じゃあ、覚えておいて。男は女性の不意の一言で、心臓が止まることがあるって……」
「覚えておくわね。それじゃあ水着は白にするわ」
ユリは二つとも水着を戻すと、改めてデザインを考慮して水着を探し始めた。
「黒にしないの?」
自分の提案と違うので、たかしは気分を害してしまったと心配したが、ユリは心配ないと笑みを浮かべると、そのままの表情でたかしの耳に唇を近付けた。
「そんなに好きなら、水着よりも下着が黒のほうがいいでしょう」
「心臓が止まったよ……」
たかしはおどけて自分の胸に手を置いた。
「これから選ぶ水着を見たら、もっと心臓が止まるかも」
「ちょっと待った。あくまでオレに見せるための水着ってわかってる?」
たかしは周りにも男がいるんだと、熱を込めて説明した。
「大丈夫よ。どんな水着を想像したか知らないけど、痴女じゃないんだから……。公序良俗に反する服装はしないわよ。それに、女の水着は女に見せるためにでもあるのよ。社交のツールなの」
「安心したよ……」
たかしがほっと胸をなでおろす隣では、似たような会話が繰り広げられていた。
「どっちが似合うと思う?」
明夫が右手に持っているのは、ピンクの水玉のパレオ付きビキニ。左手に持っているのは、太陽に映えそうなオレンジ色のワンピースの水着だ。
赤沼はスマホの画面を真剣に眺めながら考えるが、答えは出なかった。
「わからないよ……どれを想像しても似合いすぎる。だってどの服を着ても美しいんだぞ。それが水着だなんて、どこまで僕を狂わせるつもりなのか……」
たかしは「ちょっと……」と口を挟んだ。「恋人と買い物に来てるのはオレだぞ。隣で色男みたいなセリフを言うのはやめてくれ……」
「君だけだと思うな。恋人と買い物に来てるのは」
明夫がスマホを取り出して、待ち受け画面にしている推しのキャラを見せると、赤沼も同じように自分のスマホの待ち受け画面を見せたが、ユリが戻ってくるとすぐにポケットへしまい直した。
ユリはたかしの友達なら、相手がどんな趣味を持っていても気にしのはわかっているのだが、まだ世間体というものをちゃんと気にしている赤沼は、アニメキャラクターを堂々と見せるのもどうかと思っていたのだ。
「男だけでなんの悪巧みしてたの?」
「ピンクの水玉ビキニと、オレンジのワンピース。どっちがいいか聞いてたの」
明夫はまったく気にせずに、スマホの待ち受け画面を見せて言った。
ユリは顔を近づけると顔をしかめた。
「水着のサイズが違う……。ビキニとワンピじゃ、押し込める範囲が違うのよ。ビキニサイズなら、ワンピを着たときに胸が押し込まれすぎ。ワンピサイズなら、そのビキニなんて着たらポロリしちゃうわよ。でも、彼女は可愛い」
「たかし……」と明夫に呼ばれたので、文句を言われると思ったたかしだったが、その逆で明夫は称賛の言葉を口にしていた。「彼女は最高の恋人だ。絶対に手放すなよ」
「言われなくても」
たかしが食い気味に言うが、明夫は構わずに続けた。
「僕が何度君の恋人を見てきたと思ってる? その中でも一番だって言ってるんだぞ」
「余計なことを言うなってことだ」
「あら、私は聞きたいわよ。でも、今度にしておいてあげる。まだ隠してることありそうだし」
ユリは冗談のつもりで言ったのだが、身に覚えがありすぎるたかしは引きつった笑顔で固まってしまった。
幸い、ユリは持ってきた水着を見ていたので、それに気付くことはなかった。
話題が戻る前に、たかしはその水着に触れた。
「それが候補?」
「そう。どっちがいいと思う? パッと見て選んだだけだから、決めるわけじゃないんだけど……たかしの意見がほしいなと思って」
たかしは「うーん」と声に出して悩んだ。
正直どちらも似合うと思っているので、適切な言葉が浮かんでこないのだ。『どっちも似合うよ』の言葉で乗り切れると思うほど、恋愛経験が薄いわけではない。
だが、ちょうどいい褒め言葉が浮かんでこず、相槌でごまかしていたのだ。
「よく見て。カットアウトのデザインが全然違うでしょう。今ならやっぱりワンショルダーかな……。セパレートタイプとどっちがいいと思う?」
「セパレート」と答えたのは赤沼だ。
「あら、どうして」
「だって、ビキニほど露出を激しくないから僕も緊張しないでいられる。それにセクシーだ。デザインカットを現実に着こなせる人間なんていたんだ。そんな水着を着るだなんて、アニメキャラクターだけだと思ってたよ……。現実に売ってるんだ! 凄いよ」
赤沼が興奮気味に話す理由は、好きなアニメの公式一枚画で描かれている推しの水着が、ユリの持ってきた水着ととても似ていたからだ。
前半一文以外は、ユリではなく推しキャラに向けたものだったのだが、ユリがそんなことに気付くはずなく、自分が褒められたと思ったまま上機嫌で水着を選定しに言った。
ユリの影が見えなくなると、たかしは「赤沼……」と低い声で名前を呼んだ。
「なに? 僕もたかしとユリさんはぴったりの恋人だと思ってるよ。公式カプ認定だね」
「アクリルキーホルダーを作るべきだ」と明夫もうなずいた。
「違う。ユリさんはオレの恋人だぞ。わかってる?」
まさか口説くつもりじゃないだろうなと、たかしは赤沼に詰め寄った。
「わかってるよ。その証拠に全然タイプじゃない。たかしの恋人だから、こうして気を使って買い物に付き合ってるんだぞ。大した興味もない女性の買い物だぞ。むしろ感謝してほしいくらいだよ」
赤沼はまだ心のどこかでマリ子を思っているので、ユリが優しくても気を使ってくれても好意が愛に変わることはなかった。
「赤沼が選ぶ側か? どう考えても彼女が選ぶ側だろう」
「たかし……」と間に入ったのは明夫だ。「僕らは常に選ぶ側だぞ」
「どこがだよ……」
「今だって選択肢が出てる。『買い物を続ける』または『お昼に誘う』。僕はお昼に誘う。知ってた? このショッピングモール。【シメ猫カフェ】が入ってるんだ!」
「それって子供向けゲームのだろう?」
「猫はね。でも猫にシメられてるキャラクターが僕達みたいな洗練された大人に人気なの」
明夫が見せてきた画像は、デフォルメされた猫に人間がしめられている絵だった。
水着を置いて戻ってきたユリは「あら可愛い」と反応した。
「だろう。僕の推しは【みすりん】だ」
明夫が指したのは、長いポニーテールを縄代わりにして後ろ手に縛られているキャラクターだった。
「いいじゃない」とユリが言ったのは、猫そのものだったのだが、理解してもらったと勘違いした明夫はこのチャンスを逃す手はないと早口で語り始めたので、ランチを取ってゆっくりすることとなった。
明夫と赤沼がメニューを決めるのに三十分かかっている間。
たかしは今日のことをユリに謝っていた。
「本当にごめん。結局水着は決まらなかっったね」
たかしはユリが手ぶらで戻ってきたことに気付いていた。
「いいのよ。どうせ今日は買うつもりじゃなかったから。後で同じようなのをネットで買うの。そのほうが安いから」
「なるほど……」
それなら今日の買い物はなんだったのかと思ったたかし。それは言葉に出なくとも、表情に出てしまっていた。
しかし、ユリがそれを責めるようなことはなかった。
「その反応わかるわ。でも、こう考えたらどう? 私達が旅行に行くまでの間。私はあなたに妄想の許可を与えたのよ」
「それって……どの水着のこと?」
「さぁ、どうかしらね。下着のことかもしれないわよ。黒いセクシーな」
「実は……黒より紫のほうが好きなんだけど」
「それは現実の話? それとも……妄想の話?」
「目の前にいるランプの精にお願いしてるんだ。そういうお話だ」
『それってどういう話?』
『ビキニにシースルーの布を貼り付けただけの衣装を、踊り子の服だって言い張って広めた天才原画師話だよ』
「私は三つの願いを叶えないといけないってわけね」
『あの絵は良かった。最高だよ。あれを3D化した同人作品には国で支援するべきだよ。海外のアニメータが無機物に命を与えたように、布にエロスを与えたんだ』
「もう叶えてもらった。まず僕と出会ってもらった。そして、今も一緒にいる。最後に、これからも一緒にいてくれる」
「それなら、あなたも私のランプの精ね」
『エロスといえば、最近は露骨過ぎるよ。一般人だってやってるのに、肌色成分が多いのはオタクのせいだって納得いかないよ。僕らはずっと二次元に真摯に接してきたっていうのにさ』
「待った……どこから会話に交ざってた?」
せっかく恋人と中身のない会話で盛り上がっていたのに、横から聞きたくない話題が入ってくることにたかしは苛立っていた。
「僕ら四人で買い物に来てるんだぞ。最初からに決まってるだろう」
明夫は何を言っているんだと、たかしの目を見た。
「私は楽しいわよ」
「オレは楽しくない……」
ふてくされるように眉を下げるたかしに向かって、明夫は「僕も楽しい」とユリに乗っかった。
「僕もだ」と赤沼もうなずく。
「願い事は三つだけ。あなたの願い事だけ叶わなかったみたいね」
「誰かランプの精の分の願い事を取っておこうとか思わないわけ」
「思わないよ。僕なら、アニメの世界に自由に出入り出来るって一つの願いに、三つ分の想いを乗せるね」
明夫と赤沼は料理が届くと、それっきり二人の世界に入ってしまった。
うんざりとため息を落とすたかしの耳元で、ユリは「安心して。たかしがランプを見つけるまで、まだまだ時間があるわ」と囁いた。
「せめてヒントを……」
「それを探し合うのが恋人でしょう」
その夜。たかしののろけ話を聞かされたマリ子は、過去最高のしかめっ面になっていた。
「うわぁ……幸せそうで羨ましいわ」というマリ子皮肉にも、デートの余韻が残っているたかしは気付いていない。
「だろう」
最高のデートだったと上機嫌のたかしに、マリ子は呆れ気味で苦笑いを浮かべていた。
「後十年後くらいならね。その時は私も頼むわ。子供連れの買い物大変そうだから」
「どういう意味?」
「今日のデートの終わりに、セックスがあったかどうかって意味よ。今何時かしらねぇ?」
マリ子がからかって時計を指すので、時刻を見るとまだ夜の六時半だった。
恋人とのデート帰りと言うには、ちょっと早すぎる時間だった。
「オレは約束を守って帰ってきただけ」
「私はもう痩せたのよ。もうパーフェクトボディ。律儀に最後まで守るつもり? まぁ、恋人より私の体を見たいっては理解できるから、責めないでいてあげるわ。子連れデートは大変だものね」
「そんな――」と反論しようとしたたかしだったが、マリ子と付き合っていた時も、明夫が乱入して同じようなことになったのは何度もあると反論を諦めた。
「なんで元カノと元カレが一緒になったら、元カノのほうが立場が上になるわけ?」
「それはあなたがちゃんとした男だからよ。別れた女が何も言えなくなるような男は最低よ。いいパパになれるんじゃない?」
マリ子は最後にからかってたかしの頬をあやすようにつねると、部屋へと戻っていった。
「パパね……」
たかしがつぶやくと、話を立ち聞きしていた明夫がしゃがみながらリビングに入ってきた。
「パパ。新作のゲームが出るんだ。買ってよ」
「絶対に避妊はしっかりしよう……。あと、教育も……」




