第十四話
明夫はリビングのソファーにくつろぎながら、電子書籍で買ったテニスのルールブックを眺めていた。
「テニスの点数の数え方って、角度が由来だって知ってた?」
明夫のつぶやきはリビングの壁に吸い込まれるように消えていった。
しばらくそのまま無言の時間が続いた。家の外を走る車の音が響くだけで、他の音はなにもない。テレビの電源は消えているし、誰もスマホをいじっていないので、リビングはまるで映画館のブザーが鳴った直後のような不気味な静けさに包まれていた。
「テニスの点数の数え方って、角度が由来だって知ってた?」
明夫が全く同じテンションで同じことをつぶやくと、マリ子は持っていたアイスのカップをキッチンカウンターに置いた。
「あのねぇ……聞こえなかったわけじゃないの。無視したのよ。それくらい察しなさいよ」
「また漫画かアニメにハマったな」
たかしはまた面倒くさいことになると思いながらも、その面倒くささが楽しみでもあるので、わざわざ止めるようなことはしなかった。
「僕を理解した気になってるな」
「ペニスを使う予定がないから、その代わりにテニスでも覚えようとしてるんでしょう。明夫なら、きっと飛ばし屋になれるわよ」
マリ子の下品なジョークに明夫は不機嫌に眉をしかめたが、たかしはしまりのない顔で笑っていた。
「それ面白い」
「でしょう。まぁ、でも……どうしてもって言うなら、教えてあげるわよ。中学の時はテニス部だったの」
「部活なんて出る時間あったの? ブローとメイクを覚えるので精一杯じゃなかった?」
たかしは同じノリのままマリ子を茶化したのだが、マリ子は大真面目な顔でうなずいた。
「そうなのよ……中学って覚えること多過ぎなのよね。男と違って、マスターベーションを覚えるだけじゃないんだから」
「それは男をバカにしすぎ。オレ達男だって、覚えることはちゃんと覚える」
「あら……そう? じゃあ初めてのマスターベーションよりも、覚えてよかったことってなぁに」
マリ子がからかい百パーセントの笑顔を浮かべると、たかしは降参だと両手を上げた。
「わかった認めるよ……君が正しい。でも高校は頑張ったんだぞ。ちゃんと学んだんだ」
「マスターベーションはセックスの練習にはならないってことを? ……わかったわ。もう言わない」
いじけるたかしを見て、マリ子は満足そうにアイスの続きを食べ始めた。
「それで、本当にテニス部だったわけ?」
「そうよ、アンスコを穿きたかったの」
「今……なんて?」
「アンスコを穿きたかったのよ。だって、他に穿く機会ってないじゃない。あとは……男子と同じコートで練習だったから」
「それって……明夫が受ける漫画の影響とたいして変わらないと思うけど……」
「変わるわよ。私のアンスコ見たさに、他中の男連中も試合の度、うちの学校に集まってきたんだから」
「で、皆がっかりして帰っていったんだろう? 君は試合に出ないから」
「さすが元恋人ね。そのとおりよ。知ってた? 練習にも出ないと試合には出られないんだって」
「知らなかったよ。テレビじゃプロプレイヤーが練習してるところを映さないから」
「本当そうよね。私を試合に出してれば、今頃トッププレイヤーだったかもしれないのに。そして、モデルもやってコスメとか出しちゃうの。それって凄くない? テレビに出て、そこで知り合ったイケメン俳優と世間を騒がせるの」
マリ子があの俳優もいい、あのアイドルもいいと盛り上がっていると、明夫が半笑いで口を挟んだ。
「ダーティー・ラブ」
「なによ」
「間違った。サーティー・ラブだ。知らない? テニスの点数の数え方。無理もないか……君は別のボールを握ってたんだからね」
「なるほど……どうせアンタはゼロをラブって呼ぶ理由を知らないんでしょう?」
「知ってるよ。君は本を読まないから知らないだろうけど、本ってのは知識が書いてあるんだから」
明夫は検索をかけようとしたのだが、それよりも早くマリ子が口を開いた。
「アンタには愛がないからゼロなのよ!」
マリ子は上手いこと言ってやったと自分の言葉に盛り上がり、たかしにもハイタッチを求めたが、景気の良い音が鳴り響くことはなかった。
「今のはどうだろう……愛がゼロってのはいいけど、明夫にはなんもかかってないから」
「昔は全部私に味方してくれたのに……」
「だって、あの頃は味方するとご褒美があったから」
「なに? じゃあ今は明夫にご褒美でももらってるわけ?」
「あー……君が全部正しい」
たかしはマリ子の肩を叩くと、これ以上は関わらないほうがよさそうだと部屋へと戻っていった。
マリ子も部屋に戻ろうと階段まで歩いたのだが、明夫がテニスにハマった理由が気になるとリビングへ戻っていった。
冷凍庫から新しいアイスを取り出すと、それを食べながら、明夫が横になるソファまで大股で歩いていった。
「なんでテニスなのよ」
「君には関係ないだろう」
「わかった……好きな女の子でも出来たんでしょう」マリ子は小学生男子のような笑みを浮かべると、明夫の体をつついてからかった。「ようやくまともな人間への第一歩ね。モニターから現実世界へようこそ」
「そんなんじゃないよ」
「嘘ね。流れる汗に張り付くシャツ。汗だけじゃ説明できない香り立つ女の匂い……。たまんないわね。私でも生えてきそうだもん」
「君は先にヒゲのほうが生えてきそうだよ……。下品な三次元妄想に僕を巻き込まないで」
「確かに今はからかってるけど、アンタがまともな恋愛に対峙するっていうなら――それはちゃんと協力するわよ」
「オタクを見くびるな。スポーツ少女ブームはとっくに過ぎてる。今季のアニメでスポーツものが一つでも配信されてるかい? されてないだろう。今はファンタジーものと、両片思いのイチャイチャを眺めるだけの箱庭恋愛ものが流行りなの。そもそもオタクにとってスポーツはスパイスなわけ。スポーツ漫画の同人誌に、本気でスポーツを描いた作品があるかい? ないだろう。カレーにカルダモンを入れるみたいなもの。あくまで主役はカレーだ。でも、カルダモンが香ると嬉しいだろう。それがスポーツ。ユニフォームがあればいいんだよ。だから、スポーツはスパイスなんだ」
「……言ってることは何一つわからないけど、アンタがまともな恋愛できないのだけはわかった」
「わかってもらえて満足。なら、僕が恋愛などという愚かな感情に振り回されていないことはわかっただろう」
「でも、謎は余計に深まったわよ……。他にアンタみたいなオタクがテニスのルールを覚える理由ってなによ」
「オタクは理解するものじゃないよ。ある日突然わかるものなんだ」
明夫はリビングにいたんじゃテニスのルールを覚えられないと、自分の部屋へ戻っていった。
会話は終わり、マリ子も自室へと戻ったのだが、なぜ明夫がテニスを始めたのかという疑問は翌日も続いていた。
「ね? 絶対おかしいと思うでしょう」
マリ子はいつもの喫茶店に京を呼び出し、昨夜のことを話していた。
「オタクがアニメにも漫画にもゲームにも影響されないで、いかにしてテニスに興味を持ったか……。うん、面白い」
「面白い面白くないの話はしてないでしょう。気になるかならないか。さぁ、どっち」
マリ子は食べかけのサラダのフォークを、突きつけるように京へ向けて聞いた。
「気になるわ」
「それでいいのよ」
マリ子はご満悦の笑顔になると、サラダの続きを食べ始めた。
「それで、オタク君はどこでテニスをしてるの?」
マリ子は「さあ」と肩をすくめた。「ロリコンだったら小学校か中学校の校庭じゃない? でも、オタクだからパソコンの前ね」
「明夫君がテニスを始めた理由が気になるんじゃないの?」
「なるわよ。でも、本当に小学校に行ってたら関わりは持ちたくないし、パソコンの前にいても同じ。京こそ、そんなに気になるわけ?」
「当然。モニターの中にしか興味のなかった男が、急に現実に興味を向けたわけでしょう? 社会的欲求の段階で思ったことなのか、それとも承認欲求の段階なのかしら。どちらにせよ、彼は変わろうとしているのよ。人が変わっていくところを見るのって、凄く面白いことだと思わない?」
「全然。男を自分好みに変えたかったら、変え方知ってるもん。だからよく見てる」
「今度観察させて」
「なんなら首輪も付けて連れてきちゃう。絶対にもう少しで落ちると思うんだよね……。ちょっとでもどこかに引っかかれば――ゴロン。景品ゲット」
マリ子はクレーンゲームでもするかのような仕草を交えながら言った。
「こんなにのんびりしてると単位も落とすよ。私は平気だけど、マリ子は出席日数ギリギリなんじゃない?」
「大丈夫よ。今日の講義は午後一なんだから」
「今マリ子が食べてるのは?」
「お昼のサラダ。さっき話したでしょう。昨日アイスを食べ過ぎたから、お昼減らしてカロリー計算してるの」
「時間も計算してみたらどう? お昼を食べに来て、おしゃべりを加えたら何時になったでしょう」
マリ子はスマホの時間表示を見て「やば……」と呟いた。
慌てて伝票を持って立ち上がると、会計を済ませて、早足で歩道を歩き始めた。
「なんで言ってくれないのよ!」
「そうね……気になったから? テニスの話が」
「そう! 全部アイツのせい! 明夫がテニスなんかに興味を持つからよ。オタクはオタクらしく、テニスゲームに興味を持ちなさいっての!! そうだ! 公園抜けよ! 信号渡らなくていいから、時間の短縮になる」
「そうね。公園の西口から出たほうが大学に近い」
マリ子と京は公園を突き抜ける途中で、ラケットがボールを弾くを音を聞き思わず足を止めていた。
「なんだ……おばさんテニスね……。そりゃそうよね。平時の昼間にテニスコートを借りるなんて、暇を持て余したおばさんくらいよね。一瞬オタクがテニスやってるのかと思った」
「同感。ほらほら。足を止めてたら遅刻になるよ」
京がマリ子を走らせている頃。たかしは遅い昼食のために学食に来ていた。
まさに一口目のうどんをすすろうとした時。
芳樹がものすごい勢いで走ってきて「凄い話聞きたくない?」と、息も整わないうちに言った。
「聞きたくないよ。凄い話って最初に言っちゃってるんだもん。自分でハードルを上げるなよ……反応に気を使うんだから」
「マジで凄い話なんだって! 女の声って豹変するって知ってたか!?」
「知ってる。うちの母親が電話出る時は毎回違ってる。四通りくらい使い分けてるぞ」
「違うって! マジな話! さっきコンビニに行くのに公園を突っ切って帰ってきたんだ。そしたらめっちゃエッチな声が聞こえてくるのわけだ。男としては、こう計算するよな。公園プラス女の喘ぎ声は据え膳チャンスだ。こんなシチュエーションって、ありきたり過ぎて妄想フリーパスだろう? でも、オレは妄想から現実世界へ降りられるチケットを手に入れたんだ。当然探したね――公園中を。だけど、どこを歩いてもドリームエクスプレスのドアは開いてくれないんだ。……白昼夢だった。女の喘ぎ声が昼間の公園に響くことはない。オレは諦めてさ、女子大生がはしゃくテニスコートでアンスコの一つでも拝んでやろうと、大学戻ろうとしたんだ。そしたら驚き! 声はそこからしていたんだ。オレの胸は高鳴った。だって、一歩踏み出す度に喘ぎ声が大きくなるんだぞ。オレの気分は昔のBボーイだったね。オレはステレオマンだ。高鳴る胸の鼓動と喘ぎ声というスケベビートを垂れながすステレオマン! ――だけどな……時代は流れたんだ。今はあんなカーステを担ぐBボーイはいないんだ。そう思った瞬間だ。音は消え……時間は現実へ早送りされてしまったんだ。つまり現代だ……わかるか?」
芳樹は膝を床につけて崩れ落ちると、すんでのところでたかしの膝を掴んでいた。
「それでわかったら、オレは変人の仲間入りだよ。それで結論は?」
「おばさんテニスの集団が、年甲斐もなくはしゃいでいただけだった……」
「は?」
「そうだよな! は? だよな! うちのかーちゃんより年取ってるくせに可愛い声出してんじゃねぇぞ!! 馬鹿野郎! 可愛いじゃねぇか! 期待しちゃったじゃねぇか! 三十年前くらいに逢いたかったぜ!」
「三十年前だと、オレ達は生まれてないだろう」
「だからBボーイに例えたんだよ。生まれる前の文化だぞ。なにを聞いてたんだ」
「なにも聞いてなかったんだ」
「いや……でもマジな話だぜ? 女って何歳まで、あんな若い声出せるんだろう」
「さぁ、声優は何歳になっても高校生役をやったりするしな。声だけなら、何歳でもいけるんじゃない?」
「そうだった……この間声優が変わった日曜アニメも、ヒロインの声優がおばあちゃんだったもんな。あれは驚いた」
「オレ達が子供頃からやってるアニメだからね」
たかしと芳樹がそんな話をしている頃。
公園のテニスコートでは試合が行われていた。
「デュース!」
「ほら、追いついたでしょう」
「追いつかせてあげたのよ」
「行くわよ。ハイ!」
「あッ!」
「うんっ……あっ!」
「イン!」
「うそ? 入ったの」
「審判がインって言ったら入ったってことよ。タダで審判してくれてるんだから文句言わないの。怒って帰っちゃうわよ」
コート右の女性が大きく膨らんだお腹を揺らしながら笑うと、コート左の同じく膨らんだお腹の女性が笑った。
「そうだったね。こんなおばさんのテニスの審判して楽しいの」
「そりゃもう」
審判をしていた明夫は目を合わさずに言った。
「そう……。目も合わせられないほど人見知りなのに変な子ね……」
女性は若い子の考えることはわからないと肩をすくめた。
そして、息も整わないうちにテニスを再開した。
明夫はボールだけを目で追うと、耳を澄ませた。
目に映るのはボールとテニスコート。聞こえるのは公園のBGMに声優のような可愛らしい女性の声。
明夫が一つ深呼吸すると、目に見える光景はまるでアニメの世界になっていた。
そして「オタクって最高……」と呟いたのだった。




