第十七話
マリ子が「ただいま」と帰ってくるのと、明夫の「ぎゃー」という悲鳴はほとんど同時に響いた。
「なにがぎゃーよ。私の下着でも使って変なことしてたの?」
バイトで疲れたマリ子の目に入ってきたのは、たかしの膝に乗って抱きついている明夫の姿だった。
「ちょっと言い訳させて!」
たかしは明夫を抱っこしたまま、マリ子が二階へ行かないように必死で引き留めた。
「私の下着で変なことすることは一生なさそうね……。アドバイスがあるなら一つね。男ってその体位をやりたがるけど、全然気持ち良くないわよ」
「だから違うって。これは明夫がホラー映画を見たからこうなってるの」
「うそ!? まじ? ホラー映画が苦手なんて意外……。てっきり、幽霊キャラで罰当たりなことしてると思ってた」
「僕の想像力をなめるなよ……。どれだけ怖い場面が脳裏に浮かんでるか知らないだろう」
明夫は怯え目でマリ子を睨みつけた。
「知ってるわ。今はお面をつけた殺人鬼が、躓いて動けなくなった厚化粧の女にナタを振り下ろしてるところね」
マリ子は一時停止されているテレビ画面を見てため息を落とした。
一時停止された怖い場面ほどマヌケなものはない。それも、物語の前後を見ていないなら尚更だ。
「君はなんともないのか? あのナタは皮膚に亀裂を入れ、骨を砕き、脳をひき肉みたいにするんだぞ。それも画面が血で埋まった後もだ。何度も何度も!」
「おかげさまで、今気持ち悪くなってきたわ……。もう、消せばいいでしょう」
「それはできないんだ」たかしは明夫を膝からどかしながら言った。「これは明夫が想像力を鍛えるために生み出した訓練だからね」
「たかし……あなた……今、自分がどれだけバカなことを言ったかわかってる?」
そんなバカな話は聞いたことがないとマリ子は呆れた。
「オレだってわかってるよ。でも、これに付き合わないとスピーカー使わせてくれないんだ。僕だって、ライブ映像を見るときは高音質で聞きたい」
「ちょっと! そんなの聞いてないわよ!! このあいだ【ファイアフレンズ】のライブ配信があったのに! スマホで見ちゃったじゃん」
「君には使わせるだなんて一言も言ってない」
明夫が睨むと、マリ子は明夫とたかしの間にどしりと腰を下ろした。
「私も見るわよ。これでいいんでしょ?」
明夫は真剣な顔で「無理……」と返した。
「なんでよ」
「もし君が怖がって、汗をかくとする。化粧が溶け出すのを見たら、僕死んじゃう……」
「いつの時代のメイクの話してるのよ。アンタがクレンジグをぶっかけない限り大丈夫よ」
「いやだ。化粧はピエロを想像して怖い……」
「わかったわよ。化粧を落としてくるわよ! アンタらにすっぴんを見られたところでなんとも思わないしね。ちょっと待ってて」
マリ子は自室に荷物を置くと、すぐ化粧を落とし、ゆっくりシャワーに入ってから、部屋着に着替えアイスにコーヒーリキュールをかけると、再び二人の間に割って入りソファーに座った。
「ちょっと待ってって言わなかった?」
たかしは一時間以上待たされたと遠回しに言うが、マリ子に通じなかった。
「言ったわよ」
「だいぶ待たされたんだけど」
「これがラブホテルでも同じこと言うつもり?」
マリ子は細かいこと気にしすぎと、たかしの太ももを軽く叩くと、勝手に再生ボタンを押した。
「何も言い返せない……」
「男がベッドとソファーの上で女に勝つことは永遠にありえない。ほら、見て。殺されるわよ。うわぁ……ばっちりメイクしてるのに血のりで台無し……かわいそう……。絶対出演時間より、メイク時間の方が長いわよ」
「そうなの? そんなにメイクしてないように見えるけど」
「メイクしてないように見せるメイクが一番時間かかるのよ」
「本当に? クレンジングを使えば一発なのに?」
「それ笑える。でも、すっぴんとすっぴん風メイクはかなり違うのよ」
「そんなに違わないよ。君は綺麗だし」
「男がベッドに入る前に、股間をいじって少し大きくするのと一緒ね。それくらい違う」
「……そんなに違わない。ただ、違うところがあるとすれば、そのほうが女の子が喜んでくれるから」
「それも一緒よ。でも、女は小さいとは言わない。だから、苦労したメイクをすっぴんと変わらないなんて言ったら、拳でぶっ飛ばすわよ」
「肝に銘じておくよ……」
「それは無理かも。肝は取られてるし」
マリ子はテレビ画面を指した。
そこでは殺人鬼に滅多刺しにされている場面が映し出されていた。
結局マリ子は、最後までホラー映画を茶化し続けたままだった。
「うー、猟奇的殺人ものね。なんて言うか……使い古された設定よね。血と美女の裸って感じ」
「おかげさまで、ホラー映画の醍醐味は消えたみたいだ。一人を除いてね」
たかしはクッションを抱えて小刻みに震える明夫を見ながら言った。
「なに怖がってるのよ。ただ男がムカつく女を殺したって話じゃない。よくある話。報道ニュースを見ても、そうやって震えてるつもり?」
「君達には危機管理能力がないからだ。ヘラヘラしてられるのも、バカだからだ」
明夫に睨みつけられたマリ子は「あっそ」と返事すると、突然たかしの腕に抱きついて立ち上らせた。「コンビニへ買い物に行きましょう」
「え? 今から?」
「そうよ、今食べた分のアイスを補充しに行くの。ねぇ、いいでしょう?」
マリ子が甘えるように誘うと、たかしはすぐに玄関へ向かった。
「ちょっと待って! 僕も行く!」
慌てて玄関へ向かおうとする明夫だったが、マリ子の伸ばした脚に遮られてしまった。
「危機管理能力があるなら、外には出ない方がいいんじゃないの? それとも、おうちのお人形さんが動き出しそうで怖いのかなぁ?」
マリ子がからかいに、明夫は周囲を見渡してから息を呑んだ。そしてすぐに「ふふふ」と楽しそうに笑った。
「怖がらせようとしてるんだから、笑わないでくれる?」
「だって僕のフィギュア達が襲ってくるんだろう? 最高だよ。でも、これとそれと話は別」
明夫はマリ子の脚をまたぐと、置いていかれないようにたかしの元へと急いだ。
マリ子は玄関に向かう前に、飾られているフィギュアを見てため息をついた。
「日本の怪談文化は廃れていきそうね……」
「ほら、見ろ。この影が四人分に増えたらどうするんだよ」
明夫は外に出たのは間違いだったと身を震わせながら歩いていた。
「簡単よ。私は走って逃げるから、すぐに三人分の影に戻るわ」
マリ子は早く歩けと、明夫の背中を押した。
「最近の街灯って暗くなったと思わない? 変な人が出てきたらどうしよう」
「それは私がする心配よ」
「自惚れるな。君はすっぴんだぞ。すっぴんの女性とオタクなら、オタクの方が狙われやすいんだ。奴らはオタクが金を持ってるのを知ってるからね」
「誰よ……奴らって。まったく……コンビニに行くなんて言い出さなければよかったわ」
近所のコンビニに行くだけなのに、すでに三十分は経過していた。それもこれも、明夫が影や音に怯えていちいち足を止めるからだ。
「でも、流行ったよね。口さけ女の噂話とか」
「流行ったわねー。のっぺらぼうとかもあったわ。正直今はなんとも思わないけど、子供頃は怖かったわ」
「だよね。そこの物陰から……わつ! って出てきそう」
たかしは大声を出して驚かそうとしたのだが、マリ子は平気な顔で口元に笑みを浮かべていた。
「やると思ったわ」
「もう少しびっくりすると思ってたよ」
「してあげてもいいけど。夜中に大声で悲鳴を上げてもいいの?」
「遠慮しておくよ。通報されたら、誤解を解くの面倒臭いからね」
「賢明ね。でも、前住んでた場所には変な噂があったのよ。赤いコートの首無し女の噂」
「首がないのに女だってわかるわけ?」
「じゃあ、赤いコートの首無し女装おじさんにする?」
「それは……また……別の意味で変な噂になりそう」
「とにかく、その赤いコートの首無し女に正気を吸い取られるって噂があったのよ。実際に私の友達も、しばらく様子がおかしかったの。いつの間にか噂は消えちゃったけど。高校生の頃の話だけどね」
「僕の学校にもあったよ。夜九時を過ぎると、学校中に足音が響き渡るとか、理科事件室で人魂を見たとかね。でも、ほとんどが愉快犯が作った噂。僕の高校生活は学校の噂と一緒。至って普通だったよ」
「想像出来るわ。部活もまちまちに、週に二、三回のバイト。彼女とのイベントの前はちょっと多めにシフトを入れる。勉強もほどほどにね。で、色んな友達からこう言われてるの。ちょうど良いから、たかしも呼ぼうぜ。って。それで、皆に顔を覚えられてる」
「もしかして同じ高校だった?」
「違うわ。今とあまり変わらなそうだから。初体験の場所も容易に想像出来るわ。深夜の動物園って言ったら驚きだけど、どうせ彼女の家でしょ。女の部屋の匂いに興奮して、抑えられなくなった衝動を彼女が受け止めた。でも、実のところそれは女の策略。男が逃げ道を見つけないよう雰囲気を作るのも、女の武器の一つよ」
マリ子はたかしの行動パターンなんてお見通しと笑うと、見えてきたコンビニの看板に向かって足を早めた。
「深夜のコンビニってサンクチュアリだよ。RPGで実際に宿屋を見つけた時って、こんな気分なんだろうね。モンスターが襲ってこないってだけで安心するよ」
明夫はコンビニ到着するなり恐怖心が消え、一番くじの商品を確かめたり、コラボ商品を見て回ったりしていた。
「そういえば、人形を持った女の子の噂って知ってる?」
たかしはアイスを一緒に選びながら、マリ子に聞いた。
「知らない。フィギュアを持った男の話なら知ってるけど」
「その女の子は裸の赤ちゃんの人形を持ってるんだ。でも、絶対にどこかが欠けてる。その女の子に出会うと、足りない体の一部を持っていかれちゃうって話」
「へーそれは怖いわね。おまじないは?」
「おまじないね……あなたは頼りになるって三回言いながら、胸で指を遊ばせるとか?」
「それは怖い話? 卑猥な話?」
「ホラー映画と一緒だよ。怖さの中にあるスパイスの一つってだけ」
「そうね。もうちょっと細部まで考えたら、怖がってあげる」
「それじゃあね。その女の子が現れる前ぶれはこうだ。影が増えている」
「それ、さっきオタクが勝手に妄想してたことじゃない。パクるの早過ぎ」
「可愛い女の子声だから、絶対に振り向いちゃうんだ」
「あなたが言うと変態に聞こえないから好きよ。あいつが言うと犯罪臭がするから……」
マリ子は一等の少女フィギュアのために、ATMでお金をおろす明夫を見ながら言った。
明夫はためらうことなく大金を使うと、一等に限定フィギュアを手にし、ニコニコ顔でコンビニを出て行った。
もう来る時の怖さなど一つも残っていなかった。
「本当に……あれじゃあ大きな子供ね」
買い物を済ませたマリ子は、たかしと一緒に夜道を歩いていた。
しかし、ふと会話が止まった。この時間には聞かないような歩幅の狭い、それでいて元気に鳴る。子供の足音が響いたからだ。
「後ろ……」
たかしが小声で言うと、マリ子も小声で反応した。
「気付いてるわ……。振り向くべき?」
「かもね。君のしたいようにどうぞ」
「あんな怖い話をしておいて、女に選択を委ねるつもり?」
「怖くないって言っただろう」
「あれは無駄に明るくて暖かいコンビニだから。こんな薄暗くて肌寒いところで想像させないでよ……バカ」
「ちなみに、どんな想像してる? 僕は漏らしそうな想像しちゃった……」
「言ったら引かれるから言わない」
なんとか平常心を保とうとする二人に、女の子が「ねえ」と声をかけてきた。
二人は悲鳴をあげると、正体を確認することなく手を繋いで走り出した。
「あれー……マルちゃん行っちったよ……」
京は急に走り出した公子に追いつくと、「ハムどうしたの?」声をかけた。
「マリ子がいたから声をかけたのに、逃げられちった」
「男とデートだったんでしょう」
「確かにいた。男とね。邪魔しちった」
「私から離れると、職質されるよ。こんな時間に子供一人でって」
「この割れた腹筋を見せたら警察も黙る」
「痴女扱いでしょっ引かれるよ」
「慣れっこ。チビで変な声でロリフェイスの私は、偏見の中で生きてるからね。今も偏見だよ。私が声をかけたら逃げるなんて最低。せっかく、夜のフィーバータイムに誘うおうと思ったのに。行こ、みゃーこ」
「後が怖いね……マリ子にバレたら、色々言われそう」
京はため息を一つ夜道に残して、公子とカラオケへと向かったのだった。




