気高くも高潔でもなく 3
カメーリエから叱責される直前にかけられた水。
目上の相手からの怒りを受けて呆然とする繋の髪や制服の肩は、冷たさを与えると同時にシミをつくっていた。
「先ほどは失礼しました。手が滑りましたの。着替えないといけませんわね、さあ着いてきなさい結相さん」
「・・・はい」
「ああ、アルゲントゥムさ・・・んは来なくていいですわ。此度のあらましはそちらで傍観しているスファレイトさんにお聞きなさいませ」
敬愛する一族を様付けできないことで詰まりながら、最後にプリムローザをひと睨みして告げる。
「本来なら、現状最も近くにいた彼女が諌めなければならなかったのだから」
当然、理解していますわよね。と言外に言い、プリムローザの態度が気に食わないと全身で主張しつつ繋を引き連れて去っていった。
「席外す?」
「いいえ、ワタクシ達が場所を変えますわ。お気遣いありがとう」
只ならぬ空気を察し、努めて気配を消していた絢草は心得ているとばかりに尋ねる。
友人の優しさを嬉しく思ったが、さすがにそこまでさせるほどプリムローザは傲慢ではない。目線で詫びをし、リーリウムを促して食堂を後にした。
当然の結果として、騒動の中心人物達が消えた食堂は様々な憶測を生み出し、賑わいが戻ってもやや緊張感の残る昼食時間となってしまった。
プリムローザに連れてこられた場所は、簡素なテーブルとソファが用意された一室。
学生証で開錠される電子ロックのかかったその部屋は、いかにもヴァンパイアに合わせて作られた部屋らしく、空調のきいた薄暗く窓すらない部屋だ。
「ここは“月下”に所属する生徒だけが使用を許可された専用ルームですわ。学生証のIDと、ヴァンパイアの身分証を提示しなければ開錠されない特殊なつくりをしていますの」
説明され、興味深く室内を見回していたリーリウムは納得する。
(扉に学生証を認証させていたのは分かったけど、手の甲をかざしてたのはそういうことか)
ここまで徹底的にヴァンパイアのための空間を学園に作ったのは、やはり多方面に配慮するためだろう。
「学園内には同じ専用ルームがいくつかあって、ワタクシ達にはとても助かるんですのよ。同胞だけで人目をはばかることなく話したい時や、適度に息抜きをしたい時に」
「ローズ様、無垢なリリィ様に無駄な部分を強調して遊ばないの」
食堂では手を出せなかった浅黄が、ここぞとばかりに口を出した。
専属騎士達も主の移動には必然ついて来るので、専用ルームには浅黄もリンデも同室している。
「息抜きに何かあるの?」
「リリィ様、お耳が腐ります。あんな戯言は無視してください」
射殺さんばかりの目つきで黄金の主従を睨んでから、リンデはリーリウムを守るように前に出る。
「あーあ、ほら警戒されちゃったでしょぉ」
「別にワタクシもリンデも間違ったことは言っていないし、してないわ。事実でしょう?」
「あ、開き直っちゃう?まあ確かに、たまーにマナーのなってない生徒もいるけどねー」
「リンデさんは警戒しすぎるくらいが丁度いいわ。それによってリリィが守られるならワタクシの信用が落ちるくらいどうってことないもの」
「っ!」
よくわからないけど、ローズが自分のために言ってくれたのは分かった。
リーリウムは無言でリンデを制し、プリムローザへ歩み寄る。
「ローズがいろいろ気遣ってくれて、いつも嬉しいし、感謝してる。ありがとう」
ほわりと温かい雰囲気で手を握ってくるリーリウムの言葉に、プリムローザはその手を握り返しつつ、妙な居心地の悪さを覚えた。
(なにかしら、なんというか、ちょっと困るわ)
嬉しいのか呆れているのか分からない、奇妙な感覚で落ち着かない心境。自分の感情が分析できないなど、プリムローザにとって初めての事態だった。
ゆえに、「ウィスタリア様に頼まれているのだから、目をかけるのは当然ですわ」と、間違ってはいないが本心の全てではない返事をする。
そんな初々しい二人の少女達のやりとりは、しかし、長くは続かない。
食堂での一件のために専用ルームを使用しているのに、なんとも気の抜けるような光景を繰り広げられたのは、彼女達が多くのことを忘れていたからに他ならない。
「えーと・・・え、なんかめっちゃいい雰囲気になったんだけど。ウチ等はどうすればいいワケ?・・・ってあー待て待て待って!待ってください!リンデさんや、ちょっとウチの主がボケてるけどあれは素だから待って!」
「離せ小夜風、ボクはあの色ボケ狸女を一刻も早くリリィ様の視界から消し去りたいんだ。リリィ様が感謝したのに、目もあわせないわ素っ気無い返事だわしかも未だに手を握ってるし許すまじ・・・!」
主が見せるらしくない姿に目を見開き驚く浅黄は、横で猛獣が飛び掛る寸前であるのに間一髪で気づき、全力で抑えた。
食堂にいたときからフラストレーションを溜めていたリンデは、限界であった。
なぜ専属騎士である自分が主の傍に侍っていられないのか。学園内の誰よりもリーリウムに近しくその心の在りようを知っているのに、なぜ手を出してはならないのか。
リンデにとって学園での生活は、何よりも至上とする愛してやまない主をただ見ているしかできない、一種の拷問に等しい。
だがまだこの時点では、リンデの中の理性の楔は役割が果たされていた。
他者にどれだけ押さえられようと、衝動を我慢できた。
この楔が暴れ狂いあふれ出すものを押さえ込めなくなったのは、次の瞬間だった。
「それは本当に面目ないけど、お願いだからもうちょっと待ってあげてっ。ローズ様もあんな素の感情が透けて見える態度出すのちっさい頃以来で、専属騎士のウチとしては温かく見守りたいんだってっ!ね、お互い主を思う気持ちは一緒なんだからさ」
雲行きが怪しくなったことに気づいたリーリウムとプリムローザも、浅黄達を見つめる。
浅黄の言葉はきっかけに過ぎなかったであろう。
ただ浅黄という存在が、その態度や言葉が、きっかけを後押しした。
「――っ嫌だ!なんでボクが、お前なんかの意思を酌まなければならないんだっ。ボクは、ボクだって本当は―――」
それは怒りで、悲哀で、リンデが生まれて初めて見せた、否、見せてしまうほど溢れさせてしまった思い。
物心ついた瞬間から我慢してきた傷。その傷口からにじみ出る血を幾重にも巻いた包帯で隠し、癒そうとし、癒えず、じわじわと広がり、呻き、耐えながらも懸命に、頑なに包帯を巻いてきた。
そこにあるのに誰にも知らせず、誰も理解しようとしてくれず、密かに血を流し続け、目に見えるほど包帯が真っ赤に染まり傷口が開く。
「ボクの意思を認めてもらえたこともほとんどない!それなのに、お前の!他人の、ましてや恵まれた立場の、全てを選ばせてもらえた者が!最初から、選択肢すら与えられなかったボクと同じ思いだって!?ふざけるなよ!」
流れ出した感情の本流が爆発する。
「知る権利すら奪われた何も知らないボクがっ、誰にも見られない、受け入れられないボクが!やっとみつけた光を思う心が同じ訳ないだろ・・・!!」
魂が震える絶叫とは、こういうことを言うのか。
浅黄は、プリムローザは、そして、自らの騎士が吐き出した血に触れたリーリウムは、奇しくも同じことを思った。
同胞が同胞になれぬ傷口のありか。
リンデ・フルウム。彼女はヴァンパイアとして皆が授かる王の加護、“知識”を継承できていない。させてもらえなかった無知者。
何故なら、周囲が、他でもないヴァンパイア達が禁じたためだ。人間が成した所業によって。
リンデ・フルウムは、この世に生まれ堕ちたその瞬間から同胞達の手でつまはじきにされた異端児である。
よって、始祖から受け継がれてきたあらゆる記憶。経験という名の血に宿りし"真実の史実"を、発現できない。
これはヴァンパイアにとって、致命的な欠陥となってしまった。
皆が当たり前に知り得ることを知らない、理解できない、共感できない。それも、自分だけが。
故に、成長と共に価値観は、精神の有り様は、離れ、外れ、隔たりが肥大していく。
ヴァンパイアと人間の溝が生み出した傷は、ここにもまた毒素を吐く膿をもたらしていた。




