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絵画鑑定士は謎解きがお好き  作者: 安井優


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21.『The Deep』 ジャクソン・ポロック

「帰ってきちゃった……」


 サラリーマンや学生に混じって、松葉は鎌倉駅の改札を抜ける。


 謎解きに夢中で気づけば新横浜、そして鎌倉だ。


 物理的な疲労と精神的な徒労がどっと松葉の体に押し寄せる。大きなため息が口をついて出た。


 結局、カルド・ワイズマンの謎については進展なし。それどころか、悔しい思いを振り切ってまで芳樹に電話をかけたものの繋がらず、返却の相談もできなかった。


「ほんと、何やってるんだろ……」


 もう夜も遅いというのに煌々と輝く居酒屋の明かり。光の連なる道を恨めしく見やって、松葉は自らの帰る場所――アトリエを目指してとぼとぼと歩く。


 骨董屋もさすがにこの時間は閉まっているだろう。教授からもらった京都土産のひとつをお詫びに珠子へ渡そうかとも思ったが、明日にしたほうがよさそうだ。


 今日はまっすぐ帰ろう。京都へ行く前に冷蔵庫は空にしてしまったし、本当ならば晩ご飯でも食べて帰りたいところだが、あいにくとそんな気分にもなれない。


 メインの通りから海の方へ。次第に店が減っていく。街路灯と他人の家の軒先につけられた電灯だけが照らす夜道が果てしなく続いているように見えた。


 終わることのない闇。それが現状と重なって松葉の心をざわつかせる。


 松葉だけの責任ではないが、依頼主とその父親が、自らと同じように絵画一枚で関係を悪化させてしまうかもしれない。今はどうとでもごまかせるが、いずれは絵画を売却したこともばれてしまうだろう。そのとき、依頼主はどうするつもりなのだろうか。いや、あの親子は、どうなってしまうのだろうか。


 知ったことではないと開き直ったつもりだったが、やはり負い目を感じてしまう。考えても仕方のないことばかりが次から次へと浮かんでくる。


 一度くずれてしまったものを元に戻すことは難しい。絵画も、親子の関係も。修復するには技術と根気が必要なのだ。


「絵画の修復ならできるのになあ」


 大学で散々教わったことを思い出す。大学時代、松葉は鑑定よりも修復に自信があったくらいだ。残念なことに修復した絵画がきっかけで父とはケンカ別れをすることになったうえ、その関係性はいまだ修復できていないのだが。


 依頼主には同じ道を歩んでほしくない。


「……やっぱり、このままじゃダメだよね」


 先祖代々受け継いできた大切な絵だ。どんな事情があろうと、父親から譲り受けたものを売却してしまうなんて。本当に大切なものは失ってから気づくというけれど、売却してから後悔しても遅いのだ。


 松葉は覚悟を決めると、もう一度ポケットからスマートフォンを取り出す。先ほどは繋がらなかったが、あれから一時間は経っている。発信履歴から芳樹の番号を呼び出して、コール音を聞く。


 だが、何度呼び出しても繋がらない。


 忙しいのだろうか。昼前に電話をかけたとき、芳樹は市役所に来ていると言っていた。バイトや友人との予定を入れていれば、この時間に電話が繋がらないのもうなずける。


 松葉が焦ってもことが好転するわけではない。はやる気持ちを抑えて、松葉は荷物を抱えなおした。


 明日以降、改めて話せばいい。カルド・ワイズマンのことは気になるが、こういうときこそ冷静に。焦らず、丁寧に、慎重に。教授から言われたことを思い出す。


 常に考えていても答えが出るわけではないとこの二日間で実感した。ふとした瞬間に、存外さらりと答えが出ることもある。


「うん、今日は終わり! また明日頑張ろう!」


 長旅で疲れもある。明日から通常どおりアトリエの営業もあるし、珠子のところへ土産を持って行ったり、芳樹のところへ肖像画を届けたりする必要もあるだろう。鑑定の間、まったく手をつけていなかったアトリエの営業活動や広報活動など、他にやらねばならないことも山積みだ。


 鑑定依頼がどれほど中途半端でも、納得のいかないことがあろうとも仕事は続く。松葉が今できることは体をいたわり、明日以降に備えることだ。


 松葉は自分をなだめるための言いわけをこれでもかと積み重ねて、自らに言い聞かせる。


 そうでもしなければ、これからのことに押しつぶされてしまいそうで落ち着かなかった。


 潮風が松葉の頬をなでる。


 アトリエへと続く海岸線沿いの道路まで来ていたことに、松葉は匂いで気づいた。


 夜の海岸沿いは人通りも車通りも決して多くはない。夏ならばともかく、この時期の海は特に人気も少ない。海に面しているせいか開放感もあり、昔から慣れ親しんできた匂いや音が松葉の心を自然と落ち着かせる。


 安らぎを求めるように、海の方向へ足が吸い込まれていく。いつもなら海岸線に並行して走る高架線を歩くが、今日は高架線を潜り抜けて砂浜を歩きたい気分だった。


 ギュ、と足が埋もれるような、体ごと包み込んでくれるような、優しい感触。


 暗くてよくは見えないが、それでも海を独り占めしているようで気持ちがいい。


 浜辺に打ち付ける波の音を聞きながら、松葉は遠くに視線を投げた。


「……ん?」


 暗闇の中、浜辺と車道をつなぐ堤防の階段に腰かけている人影。


 松葉が近づいていくと、足音に気づいたのか、海を眺めていたその人も振り返った。


「あ」


 同時、互いを認識する。


「……こんばんは」


 つい数時間前、一方的に電話を切り、そのあと電話に応じなかったことを気にしているのかもしれない。少しだけ気まずそうに笑ったのは、依頼主の青年、芳樹であった。


「もう、こっちに戻ってきてたんですね」


 笑っているはずの彼の顔は泣いているように見えた。


 松葉は、彼と初めて会った日のことを思い出す。あのときも、芳樹は何かに追いつめられているかのような切迫した表情をしていた。


 ――どうしてこんな時間に、こんな場所に。


 挨拶もそこそこに松葉がそう尋ねるよりも先、芳樹が力なく笑う。


「わがままを言ってもいいですか?」

「はあ……」

「絵画のことなんですけど、鑑定とか売却とか、やっぱりもうどうでもいいんで、捨てちゃってください」


 今までのことをあっけなくぶち壊した青年に、松葉はただ呆然と立ち尽くした。


 わがまま。そんな四文字で片付けられることではない。


 ふたりの前には、どこまでも暗い海が広がっていた。

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