15.『ヴィーナスの誕生』 サンドロ・ボッティチェッリ
いまいちやる気の出ないまま、松葉は図書館へと向かう。
これでもかと芸術関係の書籍が詰め込まれた本棚にはロマンを感じるのに、どうして美術史にはロマンを感じられないのだろう。
わがまま半分に図書館の隅で美術史の教科書をパラパラとめくり始めた松葉は、しばらくして教授に体よく追い払われただけだと気づいた。
「……スマホで良かったじゃん」
今どき、調べものに本なんて使わない。松葉はがっくりとうなだれる。
だが、ここまで来て今更スマートフォンで調べものをするのも変だ。本には本のよさがある。気を取り直して教科書を読み進めていく。
「教授は、私が見つけた手がかりから肖像画が描かれた場所がわかるって言ってたよね」
松葉が見つけた手がかりは、カルド・ワイズマンの肖像を描いた画家が少なくとも三人の画家から影響を受けている、ということだ。
レンブラント、ヤン・ファン・エイク、フェルメール。みな、時代を代表する有名な画家である。
「場所がわかるってことは、三人に共通の場所があるってこと?」
三人が生まれた地、住んでいた場所、働いていた国、そして亡くなったところ。松葉は美術史の教科書をめくりながら、三人の歴史をたどる。
世代で言えば、ヤン・ファン・エイクからだろう。彼の生涯が書かれたページを開く。
「フランドル人画家、主にブルッヘで活動……ええっと、フランドルとブルッヘは……」
つまりどこだと松葉は顔をしかめた。
美術史はこれだから苦手だ。美術史を語るとき、歴史や地理が必ずセットになる。美術とは直接関係のない当時の地名が大量に現れ、画家とセットで覚えろと指示される。脳の容量には限度があるのに。
結局スマートフォンを駆使して、松葉は、フランドルが現在のオランダ南部からベルギー西部、フランス北部にまたがっていた地域であること、ブルッヘがベルギー北西部の地名だと特定する。
生誕地、活動拠点、亡くなった場所。それらすべてを総括した結果、松葉はスマートフォンにメモを残した。
『ヤン・ファン・エイク:ベルギー(北西部?)』
たったこれだけ。このひと言を残すためだけに、一体どれほどの時間を使うのか。閉館時間も迫ってきている。絵画と向き合っているだけで鑑定ができたらいいのに。そう思わずにはいられない。
だが、自らの愚痴を慰めるために手を止めている余裕はない。
焦っているときこそ丁寧に。松葉は自らに言い聞かせ、レンブラントとフェルメール、それぞれの出身や関わりのある場所を特定していく。
『レンブラント・ファン・ライン:オランダ』
『ヨハネス・フェルメール:オランダ』
「あっ」
書き出して、松葉は思わず声をあげる。ヤン・ファン・エイクは違うが、レンブラントとフェルメールの生まれは同じだ。
……いや、違う。
「これ、みんな同じ場所だ」
美術史の教科書にたびたび描かれていたネーデルラントの地図が頭によぎった。
ネーデルラント連邦共和国――十六世紀から十八世紀にかけてオランダとベルギー北部に存在した国家である。
今はなき連邦共和国ならば、三人の活動拠点は完全に一致する。だとすれば。
「あの肖像画はネーデルラントで描かれた可能性が高い!」
松葉は弾かれるように立ちあがる。ガタン、と椅子が大きな音を立て、多くの視線が松葉に集まった。
「すみません」と誰に言うでもなく謝り、すぐさま松葉は着席する。
とにかくこれで、肖像画の制作された場所がわかった。分析室へ戻ろうと教科書を閉じかけて、松葉は手を止める。
「オランダ黄金時代……」
たまたま目についた教科書の見出しを読みあげ、松葉は「これだ」と再びページを開く。
バロック時代と同じ時期でありながら、絵画に見られる特徴の違いやネーデルラントから特に多くの素晴らしい画家が輩出されたことから、あえて区別された特別な時代。
カルド・ワイズマンの肖像が本当にネーデルラントで描かれたのだとしたら、オランダ黄金時代の特徴にも当てはまるものがあるかもしれない。
何ページにもわたる長い前置きを読み解き、松葉はお目当ての文章に指を走らせる。
「オランダ黄金時代の絵画は初期フランドル派の伝統を……って、初期フランドル派!?」
まさにヤン・ファン・エイクだ。彼は初期フランドル派の画家代表だろう。
続く「写実主義」の文言にも松葉の手が止まる。何かがパチンとはまった瞬間だった。
カルド・ワイズマンの肖像には、バロック時代の特徴だけでは説明できない妙な違和感があった。画家本人の技術不足かと思っていたが、そもそも、オランダ黄金時代の写実主義がベースになっているのだとしたら……。
「あの人物の描き方には説明がいく」
確信に変わる――あの肖像画は、オランダ黄金時代の絵画だ。
学生時代、もっとしっかり美術史を勉強しておけばよかった。歴史や地理についても。
少なくとも、教授は松葉の手がかりからこの結論を導きだしたのだ。松葉だって、三人の出身地がわかってさえいれば、肖像画の制作場所をあの瞬間に特定することができたはず。
それができなかったのは、松葉の鑑定士としての知識不足だ。
「……悔しい」
松葉は小さく呟いて教科書を閉じる。分析室に戻ったら、悪魔のように笑う教授が待っているのだろう。ほれ見たことかと言わんばかりに。
「他には⁉」
苦手な美術史、今からでも学びなおすには遅くない。松葉の反骨精神に火がついた。
「カルヴァン教理主義により、宗教画が禁じられた。それにより、歴史画や肖像画だけでなく、多くの風俗画や風景画といった多くのジャンルが確立された……」
松葉は必死にオランダ黄金時代の特徴をスマートフォンへメモし、頭に叩き込んだ。




