13.『ダンスのレッスン』 エドガー・ドガ
「はあ~、昼から飲むハイボールは最高やなあ」
研究室へと戻った教授は気持ちよさげにドカリと椅子へ体重を預けた。道中、構内の自販機で松葉に買わせたペットボトルを開けて、水を一口。酔っているわけではないようだが、一応彼なりに仕事中の自覚があるのだろう。
「昨日から他人のお金で飲みすぎです」
「他人の金でこそ飲まなもったいないやろ」
「もったいないってなんですか。教授、稼いでるんでしょう。私がお金に困ってることも知ってるんですから、自重してください」
松葉のストレートな主張に耳を傾けることなく、教授はポケットからタバコを取り出す。直後、何を思い出したか、教授は「あ」と呟いて松葉に向かって何かを放り投げた。
「わっ⁉」
放物線を描いたそれが、チャリ、と松葉の手中で音を立てる。絵画分析室の鍵だ。
「午後からは丸々空いとるらしいわ。誰も使わへんから、自由に使ってええらしい」
――教授のアメとムチに踊らされているような。
松葉の頭に一瞬そんな考えがよぎるが、口に出せばまたネチネチと言われるに決まっている。松葉は礼を言うにとどめて、早速絵画を額縁にしまう。
「なんや、もう昼休みはええの」
教授は絵画が額縁におさまったと見て窓を開ける。タバコに火をつけると、中庭に向かってゆっくりと煙をはき出した。そんな彼の様子を見ていると、松葉は自分自身が生き急いでいる気分になる。
依頼主から鑑定を急かされているわけではない。ただ、松葉が無意識にこの絵画の謎を早く解きあかしたいと急いているのだ。
「謎の多い絵画を鑑定するときほど焦りは禁物。焦っても人間はミスしか生まへんで」
貴重な絵画や美術史に革命が起きるほどの新発見がある。そんな予感のするときほど、鑑定は丁寧に、慎重に進めなければならない。松葉もそれは理解していたはずなのに。
「……おっしゃるとおりですね」
突っ走っていた。松葉は肖像画をイーゼルに立てかけなおして、自らは近くの椅子へ腰かける。
タバコの苦みが混ざった薫風が妙に心地よい。
「その絵、依頼主は売却希望なんやろ。なんで査定やなくて鑑定なん」
教授は窓枠から肖像画へ視線をチラと投げた。世間話以上の思惑はないらしく、彼の目はすぐに中庭へと戻される。目を細めてタバコの煙をはき出す教授は、松葉の答えをただ待っている。
「最初は私も査定のつもりでしたよ。でも、依頼者が、少しでも絵画の価値があがるならそれに賭けたいって。お金が必要なんだそうです」
「ふうん……金、ねえ」
絵画は時々信じられないほどの金になる。有名な画家の未発表作品なんてものが見つかろうものなら、簡単に数千万、いや、数億円の値がつくのだ。もちろん、それは数多とある絵画のうち、ほんのひと握りにすぎないが。
「絵画が絵画なら、持ってきた依頼主も依頼主ってことやな」
松葉が依頼を受けた際に感じた違和感を、教授は「変な話や」と表現する。
「この絵画は先祖代々受け継がれてきたものだと聞いていますし、依頼主のお父さまも大事にされていたようです。それを売るくらいですから、よっぽどのことがあったんじゃないですか」
「君みたいに、その依頼主もお父さまとケンカ中なんか?」
「いえ、仲はいいみたいですよ。ケンカはしたくないから、絵画を売るのは内緒にしておきたいとおっしゃっていました」
「まさかと思うけど、やばい橋でも渡ってるんとちゃうやろな」
「やばいかはわかりませんけど、気になる噂は少し」
「噂?」
「依頼主のお父さまが借金をされてるかもって」
教授は「ほおん」とタバコの煙をはき出して、遠くを見つめる。
「……つまり、父の借金を知った息子が、金になりそうなもんを売って父の肩代わりでもしたろってか」
教授がたどりついた結論は松葉と同じもの。悔しいような、間違っていないと認められてうれしいような。松葉の気持ちは複雑だ。
教授は「行こか」とタバコの火を消した。松葉が分析をする間、てっきり部屋で休んでいるのかと思っていたが、教授も手伝う気はあったらしい。
「ま、ええわ。この絵に価値がついたあとの話には興味もないし」
鑑定は絵画に価値をつける行為だ。画家の想いを読み解き、歴史をたどり、絵に込められた意味を見出す。それこそが、鑑定をする者にとって最も重要なこと。それ以外の余計なことに傾倒すれば、絵画本来の価値を捻じ曲げてしまう可能性だってある。
教授の言葉は、謎に興味をひかれるあまり依頼主へと深入りしそうになっている松葉を引き止めるものだった。
依頼主を見て絵画の価値を変えることは、絵画を侮辱しているのと同じことだ。
松葉は「わかってます」と自らの頬を軽くたたく。
依頼主の事情はどうしたって気になってしまうし、この絵画のことも知れば知るほど変な情がわいてしまいそうになる。
だが、それでは鑑定士として失格だ。
「まずは、教授がくださったヒントも含めて、この絵画の制作年を特定します。もしかしたら、他にもいろいろとわかるかもしれないし」
松葉は気を取り直して立ちあがる。「よいしょ」と松葉が額縁を持ちあげると、「貸し」と後ろから声がかかった。松葉が返事をするのも待たず、教授がひょいと額縁を取りあげる。
「ほら、行くで」
教授のまれに見る優しさに松葉が呆然と立ち尽くしていると、彼は「なんやねん」と怪訝そうに振り返った。
「雨でも降りそうですね」
「あほ、俺はいつでもジェントルマンや」
軽口をたたき合う。
廊下に出れば構内に差し込む光はあたたかく、どこまでも青く澄み渡る空が窓の外に見えた。




