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絵画鑑定士は謎解きがお好き  作者: 安井優


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11.『庭師』 ジュゼッペ・アルチンボンド

「不思議な絵やな」


 教授がキャンバスに閉じ込められた男を見つめる。松葉も、まさにその感想がふさわしいと思う。


「額縁のない状態で見るのは初めてか?」

「ええ……正直、この絵の価値を見誤っていたかもしれません」

「俺もや。額縁のないほうが絵になるとはな」


 教授は一歩キャンバスから遠ざかって肖像画全体を見渡す。対して、松葉は吸い寄せられるように一歩肖像画へと近づいた。


 深く考えこんでいるような、将来を見据えているような、他人を見下しているような。複雑で繊細な表情がより際立っている。それを覆い隠すように塗りたくられた険しいタッチの服飾や黒の背景も額縁越しに見るより重厚感がある。アンバランスで寂しい構図が奇妙なほどに筆づかいとうまく同居していた。


「針の穴に一本、糸を通された気分や」

「すごいバランス感覚ですよね。綱渡りをしているような、息苦しくなるほどの緊張感があるというか……」


 絵の具の厚みがわかるからか、それとも、額縁に閉じ込められていた当時の空気や画家の想いが解放されたからか。初めてこの絵を見た際に感じた、鑑定するほど価値があるのか、なんて疑問はすっかり払拭されてしまった。


「魔除けの絵画、ねえ」


 教授もまた、松葉同様に考えを改めたらしかった。呟く声には真剣な色だけがこもっている。


 松葉は肖像画に潜む小さな手がかりを見逃さぬようひとつずつ観察を始める。


 観察は分析の初歩。鑑定士の中には、絵画を見ずに再現できるようになるほど観察をする人もいるらしい。


 バロック時代であることを念頭において、その時代にそぐわない技法や素材が使われていないかを見た目から判断していく。絵の具の光沢、厚み、キャンバスの劣化状態。表面はもちろん、裏面からも確認する。キャンバス釘のサビ、フレームの歪み。


 ありとあらゆる情報がキャンバスひとつにつまっている。


 画家がこの絵に込めた思いは、ここからしか解きあかせない。


 キャンバスの右端から左端へ、上から下へとルーペを使いながら、松葉はゆっくりと情報を読み解いていく。


「絵の具の劣化からして、やはりある程度古いものに見えます」


 松葉が振り返れば、教授は「せやろな」とうなずいた。


「ヒビの割れ方も、キャンバスの劣化の仕方も自然です。すべて経年劣化と考えられます」

「保存環境は?」

「この肖像画はずっと室内で保管されてきたものだと聞いています。依頼主のお父さまは絵画好きだそうで、おそらく絵画の扱いは悪くないかと。その環境で、これだけの劣化状態となると……」


 正確なところまではわからないが、やはり絵画そのものに時代を感じる。有名な作家の贋作でよく見るような古さを演出する技法も使われていない。


「……ん?」


 観察を続けていた松葉の手が肖像画の隅で止まる。


「なんや、おもろいもんでもあったか」

「いえ、キャンバスが不自然にゆがんでるなと思って」


 キャンバスの左下、ちょうど角の部分に見つけたわずかなへこみを松葉は指さした。


 裏側をのぞきこめば、キャンバスとフレームを止めている釘が少しずれている。試しにライトで釘の下を照らせば、キャンバスに空いた穴が斜めに広がっていた。


「明らかに釘がずれてますね。左下から右上方向に穴が広がってるから……もしかしたら、落としたのかも」


 ぶつけたというよりも、落とした際に衝撃が加わったと考えたほうが自然な形状だ。わずかであるがゆえに今まで気づかれなかったのだろう。いつからこうなってしまったのかはわからないが、当然、古ければ古いほど不運に見舞われる確率は高くなる。むしろ、額縁に入れてしまえば全く目立たない程度のへこみひとつですんでいるのだから、歌川一族がこの絵画をいかに丁寧に扱ってきたかがよくわかる。


「まあ、古い絵画ならありがちやな。これくらいなら、価値は対して変わらんわ。依頼主に義理があるなら目つぶったってええくらいや」


 へこみを眺めた教授の判断はゴー。松葉としても、小さな傷ひとつでとやかく言うつもりはない。元より値段のつけにくい絵だ。


「私もそこまで金の亡者じゃないですよ。今回は特に、お金が必要だってことで鑑定依頼を受けているので、目をつぶります」

「なんや、金目当てか。そんなやつには逆にふっかけたれ」

「悪魔ですか。そんなことしませんよ。この絵も、きっと気に入ってくれる人がいるはずです。額縁はないほうが売れそうですけどね」


 その分管理は大変だけど、と松葉は肩をすくめて絵画の鑑定に戻る。


 念のために残りの角も再確認しておく。他にぶつけたり、落としたりといった際にできる痕跡はなかった。


 本当に三百年前の絵画だった場合、この保存状態は美術館並みだ。第二次世界大戦の戦火を逃れただけでも奇跡に近いというのに。


「魔除けの力なんて、と思っていましたけど……もしかしたら、これは本当に魔除けの絵画かもしれませんね」


 松葉が冗談半分で呟くと、教授から「それは言い過ぎや」と冷静なツッコミが入る。


「そんなことより、もっと他にないんか? 今のところ、めぼしい手がかりはゼロなんやで」


 教授につつかれ、松葉は「わかってますよ」とルーペ片手にカルド・ワイズマンを眺める。


 絵画の端から中心へ。この絵の心臓部とも呼べそうな、筆の運びが変わる境界に松葉のルーペが差しかかる。


 服から繊細な表情へと手が移動したそのとき――


「……あ」


 松葉から手がかり発見の声が再び漏れた。


「絵の具の厚みが想像以上に違う……」


 松葉はカルド・ワイズマンの首もとと白い襟の境目をルーペで往復する。


 見た目以上だ。それこそ、違う種類の絵の具でも使ったのではと思うほどだった。


「少し、レンブラントに似てますね」


 バロック時代を代表する画家、レンブラント。彼の作品にみられる特徴のひとつ、光と影のコントラストは、色彩の違いだけでなく絵の具の厚みによっても生み出されている。


「白い服飾部が厚塗りにされています。背景の黒も同じように厚く塗られているので完全に同じ技法だとは言えませんが。膨張色を厚塗りにして立体感を出すのは、レンブラントの技法にそっくりです」


 よく見れば、塗りたくった絵の具をそぎ落としたような部分もある。筆触でしわを表現しようとしたのかもしれない。丁寧さよりも大胆さ。躍動感はバロック時代の代名詞だ。


「それを言うなら、顔のところはファン・エイクやろ」


 いつの間にか松葉の横に並んでいた教授が呟く。


 ヤン・ファン・エイク。バロック時代よりも前、ルネサンス美術が発展していた時代の画家だ。油絵の技術を確立させた人物でもある。透明感のある色使いと繊細で緻密な描写、まさにカルド・ワイズマンの表情はその技法と重なる部分が多い。


「言われてみれば、表情の部分に使っている絵の具は、わざと水で薄く溶いたように見えますね」

「おもろいな。時代も人もちゃうもんが一枚につまってるとは」

「思っていたよりもいろんな技術が使われているみたいです」


 この肖像画は、表情、服飾、構図とそれぞれに特徴がある。それこそ、違う人物が描いたかのように。


「構図だって、なんとなくフェルメールと似てませんか?」

「それは褒めすぎや」

「そうかもしれませんけど……。でも、ほら、構図だけじゃなくて、この服の部分に使われている青色なんかも、かなり目を引く青色ですし」


 背景を塗りつぶしたような空虚な構図は、フェルメールお得意の「引き算」を意識しているようにも感じられる。人物を際立たせるためにあえて描かない部分を作る。フェルメールほど完成されてはいないが、この画家なりに考えたのかもしれない。


 ウルトラマリン――希少鉱石ラピスラズリからとれる青色顔料――とは考えにくいが、それに近い青色が使用されていることもこの肖像画の特徴だろう。


「ひとまず、誰かの贋作ではなさそうです。無名画家のオリジナルだと思います」


 松葉が結論づけると、


「なんでそう思う?」


 教授は試すように松葉へと問いかけた。


 学生時代、何度も教授がしてきた質問だ。何もかもを見透かすようなキツネ目が丸メガネの奥から松葉を射抜く。


 学生時代は苦手だったこの視線も、いつからか慣れてしまった。


 直感やフィーリングなんて曖昧なものではなく、技法や画風から推測される理論によって鑑定結果は下されている。


 鑑定を続けていくうち、そんな当たり前のことに気づけたからかもしれない。


「有名な画家の贋作だとすれば、もっと特定の画家や画風によせて描きます。でも、この肖像画からはそんな意図は感じられません。いろんな画家の影響を受けつつも、画家自身が意欲的に描いた作品に見えますから」


 松葉の答えに、教授はアゴをさすってにたりと嫌味な笑みを浮かべる。


「オーケー、それについては百点やな。他にわかったことは?」

「他?」

「わからんなら、鑑定としては二十点やで」

「二十点……」


 ――何か見落としただろうか。


 このままでは落第だ。松葉はもう一度肖像画に向き直り、情報を整理する。依頼から今までのことも振り返って、仕事として次にどうすべきかと思考を巡らせた。


「あ、そうか!」


 すっかり制作年のことを失念していた。


「バロック時代の画家を模倣しているのなら、この肖像画が描かれたのは早くてバロック時代、もしくはそれ以降ってことですね⁉」


 ヤン・ファン・エイクはルネサンス期の画家、レンブラントとフェルメールはバロック時代真っ盛りの画家である。その画家たちから影響を受けているのだから、この肖像画が描かれたのは早くともバロック時代後期だ。


「正解。他には?」

「まだあるんですか……」


 松葉はいよいよ首をかしげた。今わかっている情報から推測できる、この肖像画に足りないもの。おそらく教授のことだ、かなり事実に近い確実な何か――この肖像画に関する明確なヒントを得たのだろう。


「三分間待ってやる」


 教授は言うや否や、本日何本目かのタバコを取り出した。三分きっちり喫煙し、松葉をからかいに戻ってくるに違いない。


「ゆっくり吸ってきていいですよ」


 松葉が「できるだけ長く」と付け加えれば、教授はヒラヒラと手を振って部屋の扉を開ける。今度はちゃんと喫煙所へ向かうらしい。絵画のためか、教授なりに松葉へ慈悲をかけたのか。


 教授の背を見送って、松葉は扉を閉める。


「他にわかってないことは……」


 目の前にあるカルド・ワイズマンの肖像画を見つめ、松葉は残された謎をひとつひとつ頭の中に並べていく。


 肖像画を描いた画家の名前、描かれた場所、カルド・ワイズマンの正体、絵画の来歴、魔除けの力に関する伝承……。


 おそらく、ヒントは影響を受けたであろう三人の画家たちにある。


 一体、三人の何がこの絵の謎を解きあかしてくれるのか。


 松葉が頭を抱えてうなり声をあげると、呼応するようにどこからか卒業制作に追われた学生の悲痛な叫びが聞こえた。

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