1.『賢者の石を探す錬金術師』 ジョセフ・ライト
「絵に魔除けの力ってあると思いますか」
額縁におさめられた一枚のキャンバスを前に、上村松葉はまばたきを繰り返した。
テーブルをはさんで向かいに座る青年は、はやりの黒いセットアップに身を包んでいる。短く切りそろえられた黒髪、センター分けの前髪がアイドル風で垢ぬけていた。左腕にはスマートウォッチ。どこからどう見ても、今どきの普通の男子大学生だ。魔除けどころか占いすら本気で信じるタイプには思えない。
対して松葉は、赤く染めたセミロングヘアを肩口でゆるく巻いただけ。色素の薄い茶色の瞳は今どきに見えるかもしれないが、適当に選んだニットと着古したオーバーオールからはどうあがいてもレトロな雰囲気が漂ってしまっている。
――三才しか変わらないはずなのに。これが年をとったってこと?
頭によぎった嫌な考えを振り払って
「この絵と何か関係が?」
松葉はテーブルに置かれた絵画へ視線を移した。
男の肖像画だ。大きな黒いハットをかぶったその男は、考えごとをしているかのように遠くを見つめている。左手に掲げている棒は杖か葉巻だろうか。男の服は奇抜で、肩についたフリルに嫌でも目がひきつけられる。白と青、黄色でまとめられた服飾の色彩と黒く塗られた背景。その強烈なコントラストもまた印象的である。
全体的に荒いタッチで描かれているのに、表情だけは繊細な筆づかいなのも妙だと松葉は肖像画を見つめる。人物を等身大で描くにはちょうどいい大きさのキャンバスを驚くほどもて余したその構図も。
松葉の簡単な見立てでは、残念ながら名画とは言い難かった。
「僕、もうすぐ引っ越すんです。荷物をまとめていたら、突然、父がこの絵だけは持っていけって。先祖代々受け継いできたらしくて、魔除けの力があると」
松葉たちが住む鎌倉市は多くの歴史遺産を持つ古都。観光地としても、過去に文学者が多く住んでいた土地としても、やけに芸術やサブカルチャーに敏感なところがある。つまりここは、芸術に傾倒する少々変わった人がいくらか住んでいてもなんら不思議ではない街なのだ。
「正直、僕は芸術に関してはまったく興味がなくて」
依頼主の青年はため息を苦笑でごまかした。
芸術に対する価値観の合わない者ほど、骨の折れる相手もいない――松葉も大学時代に嫌というほど痛感しているだけに、彼の苦笑に込められた意味には同情してしまう。
「それでは、本日は絵画の処分方法をご相談に来られたということですね」
「売却できるってネットで見たんですけど」
「売却希望ですね、可能ですよ」
引っ越しを前に何かと入り用なのだろう。先祖代々受け継いできた絵を売るなんてもったいないと思う一方で、金がない気持ちもよくわかる。働いているはずなのに、仕事柄か松葉は常に金欠だ。
「あの……」
青年の瞳に興味と照れを混ぜた色が宿った。
「鑑定ってお願いできるんですか?」
なるほど。絵画といえば鑑定。芸術に興味はなくとも、テレビで得たであろう知識に好奇心がわいたのだろうと松葉は笑みを浮かべた。
わかります、一度くらいやってみたいですよね。そんな共感を心の中に仕舞い込む。
「もちろんです。売却前にはきちんと査定いたします」
「ちなみになんですけど……もし本当に魔除けの力があったら、絵の価値ってあがりますかね?」
青年に抱いていた共感が見事な音を立てて崩れた。この親にしてこの子あり、とはよく言ったものだ。松葉は彼の親を知らないが。結局は目の前の青年も、絵画に魔除けの力があると信じる父の子なのである。
「……この絵画の価値ではなく、この絵画に魔除けの力があるか鑑定してほしい、と?」
夢と信じて再確認してみる。青年は「ありえないと思うんですけどね」と言いつつも、小さく首を縦に振った。
――うちは魔道具屋じゃない。
のど元まで出かかった言葉を飲み込んで、松葉はとっさに営業スマイルを顔へ貼り付ける。
「本格的に調べるとなると、鑑定料をいただくことになります。時間もかかりますし……」
松葉は遠回しにお断りの言葉を並べる。だが、青年は諦めなかった。
「いいんです。とにかく少しでも絵の価値があがるなら賭けてみたくて」
「本格的な鑑定をしたからといって売却価格があがる保証はありませんし、オススメはできません。一度、お父さまとよくお話になられたほうが……」
「このことは父には内緒にしておきたいんです。仮にも父から譲り受けた絵だし、売却するってばれたら、きっとケンカになりますよ。こんな絵一枚で引っ越し前にケンカ別れだなんて悲しいじゃないですか」
「でしたら、なおのこと売却なんて」
「でも、僕には金が必要なんです」
これほどまでに自分本位な言葉があるだろうか。それとも、今どきの子ってみんなこう?
しかし、青年の顔を見た瞬間、松葉の心にできたささくれはあっという間に消えてしまった。
わがままを帳消しにしてしまうほど切迫した――表面張力だけで持ちこたえているような青年の表情に、松葉は目を見開く。
「どうか、お願いします」
青年は静かに頭をさげた。
松葉にとって鑑定はれっきとした仕事だ。鑑定をしなければ金は稼げない。だが、この絵画は鑑定するための情報が少なすぎる。鑑定料以上の労力がかかるに違いなかった。
何よりも、『魔除けの力がある絵画』だなんて。
松葉の脳内で天秤が揺れる。依頼を受ければ地獄が見える。だが、受けなければ別の地獄が待っているのも事実。金欠の松葉ができることは、どちらの地獄を選ぶか、それだけだ。
松葉の言葉を待っている間も、彼は頭をあげなかった。依頼とは裏腹な、真摯な態度が松葉を追いつめる。
「と、とりあえず! 頭をあげてください」
耐えかねた松葉が彼を促したとき、アトリエの入り口がカランコロンと音を立てた。
「おや、お客さんかな? いらっしゃい」
品のいい帽子とコートを脱いだ白髪の男性が会釈する。
「店長!」
アトリエ店主であり、松葉にとって唯一の上司。しかも、こうした事態をうまくおさめることに長けている。そんな老紳士の帰還に松葉は胸を撫でおろした。
青年も店主の登場に顔をあげる。軽く挨拶を交わすと、彼は松葉では話が通じないと踏んだのか、店主へと依頼の矛先を変えた。
――さすがに店長が断ってくれるはず。
松葉がそう考えたのも束の間。
「松葉ちゃん、この依頼を引き受けようか」
店主は、彼女に向かっていつもどおりの穏やかな笑みを浮かべたのだった。




