15.名案に至った夫
その後も、奏一郎は茉央がここ数年の間にハマったとい諸々の作品を、何とか時間を作って片っ端から視聴し続けていた。
更にはそのスピンオフや関連作品にも手を出し、今では茉央以上にそれらの作品について詳しくなってきたという自負すらある。
(せやけど、まさか30過ぎてこんなにBLとかブロマンスばっかり見ることになるたぁなぁ……)
自分でも驚きながら、それでも何だかんだといいつつ結構熱心に見てしまった奏一郎。
茉央も大体隣で一緒に見ていることが多いが、夜遅くに差し掛かってくると、彼女の方が先に眠気に負けて寝室へ消えることがほとんどだった。
これは或る意味、奏一郎の計算でもあった。茉央が睡魔に負けて早々に寝入ってしまえば、彼女の方からセックスを誘ってくることはない。
あれ程に性欲が強かった筈の奏一郎だが、今は茉央と肌を合わせることを回避することばかり考えている。
自分でも呆れる程の禁欲生活が続いているが、これだけ長い間彼女と触れ合いが無かったのは、結婚後初めてではないだろうか。
確か、セックスレスは離婚事由として成立するという様な話をどこかで聞いた覚えがある。
このまま奏一郎が己の性欲に耐え続ければ、わざわざ茉央の方から、妻の浮気という不名誉な理由による離婚を切り出す必要もなくなるのではないか。
(茉央にはあんまり、精神的な負担をかけたくないしな……)
自分でも、馬鹿だと思う。
どうして己を裏切った女の為に、そこまでしてやる必要があるのか。世間から見れば、奏一郎の思考は余りにお人好し過ぎるだろう。
しかし、それでも奏一郎にとっては茉央の人生が最優先であった。
今の状況は、その為の布石といって良い。
セックスを拒否し続ける夫の方に責任があるという形を作れば、きっと彼女も大手を振ってTAKUYAのもとへ走ることが出来るだろう。
そんなことを思いながら二年程前のアニメを一気見していた奏一郎だが、不意にどこかから着信音が鳴り響いているのが聞こえてきた。
どうやら、茉央のスマートフォンかららしい。
茉央は何事かと手に取り、次いでぎょっとした表情を浮かべている。何か緊急の連絡だろうか。
「何かあった?」
「あ……うぅん、何でも無い」
否定する茉央の美貌には、しかし明らかに困惑の色が見え隠れしている。もしかすると、TAKUYAから何か連絡が入ったのだろうか。
(まぁ、エエけどね……俺はもう全部、知ってるから)
内心で小さく肩を竦めつつ、茉央の挙動不審ぶりには気付かなかった体を装う奏一郎。
それからしばらくして、茉央はソファーから立ち上がって寝室へと消えていった。
恐らく、奏一郎に隠れてTAKUYAと連絡を取り合うつもりなのだろう。
その幾分憔悴した様子を受けて、奏一郎は少しばかり気の毒になってきた。
(もうちょい、辛抱してくれ……茉央の方から切り出してこれんのやったら、俺から何とかお膳立てしたるから……)
その為の、夫からの拒否によるセックスレス作戦だ。
今までとはまるで立場が逆転しているが、奏一郎に出来る唯一の策としては、もうこれしか無かった。
尤も、後で知ったことだが離婚事由となり得るセックスレス期間は、年単位なのだという。
僅か数カ月、数週間程度では離婚に持ってゆく為の期間としては余りに短過ぎることを、この翌日には知る破目となった。
◆ ◇ ◆
その数日後、
出社した奏一郎に、米中が物凄い形相で隣席から声をかけてきた。
「なぁ若峰……ちょっと良いか?」
「どしたん? またエラい怖い顔して……」
随分と切羽詰まった様子の米中に引っ張り出される格好で、奏一郎はまだほとんど誰も居ない休憩室へと足を運んだ。
「お前、あの話、聞いたか?」
「何を?」
奏一郎が小首を傾げると、米中は、矢張りまだ知らなかったかと沈痛な面持ちで小さくかぶりを振った。
「藤代が、茉央ちゃんと一緒に居るところを営業課の女子が見たらしいんだ」
先週末の土曜の午後の話だ、と米中は低く唸った。
そういえば確かに、その日は茉央ひとりでどこかに出かけていた。
藤代と会う為だったのか。
しかし、随分とお粗末な方法を取ったものだ。誰に見られているかも分からない様な場所で堂々と落ち合って情事を重ねるなど、少し不用心に過ぎないか。
或いは、もう奏一郎の耳に入っても構わないという段階にまで、ふたりの関係が進んでいるということなのだろうか。
(それとも、とうとう腹括ったか)
いよいよ離婚を持ち掛けてくる段に迫ろうとしているのかも知れない。
「で、どうするんだ? もう流石に、黙っちゃおれんだろ?」
「……いや。俺は何もせんよ。このまま成り行きに任せる」
すると米中は、心底驚いた様子で奏一郎の顔をまじまじと見つめてきた。
「お前……本気で、あのふたりの浮気、受け入れるつもりか? ちょっと普通じゃないぞ」
「まぁ、そう思われてもしゃあないやろな」
そこで話は終わった。奏一郎の方から無理矢理、打ち切った格好だった。
だが不思議なことに、この日の業務は自分でも驚く程に集中することが出来た。遂に来るべき時が来たかと思うと、逆に腹が据わったのかも知れない。
とはいえ、流石に今は茉央の顔を見るのがツラかった。奏一郎はラインで、今夜は外で食べて帰る旨を茉央に連絡してから、夜の街をぶらぶらと徘徊した。
そしてそんな中で、事は起きた。
交差点で横断歩道を渡ろうとした時、目の前を歩いている若い女性が、左折してきたトラックに危うく轢かれそうになったのである。
「危ない!」
奏一郎は咄嗟にその女性を突き飛ばした。彼女は何とか、件のトラックの軌道から外れた。
しかしその直後に、奏一郎の意識が暗転した。
自身の体躯を襲う凄まじい衝撃と、周囲にこだまする悲鳴や怒号だけが暗い記憶の中に焼き付いていた。
(あ、これ、丁度エエかも……俺が死んだら、それで全部解決やんか。名案やな……)
気を失う直前、奏一郎はそんなことを考えていた。




