常識とは常識であるが故に、疑うのも打ち破るのも難しい
『満足したか?』
『うん、もう平気』
ギュッと頭を抱きかかえられている俺の言葉に、ティアがゆっくりとその腕を離していく。普通こういう時は俺が抱きしめる側なんじゃないだろうかと思ったりもしたが、まあ細かいことはどうでもいいだろう。
『ああ、そのままでいいぞ。俺が寝っ転がるから』
『フフッ、ならエドと添い寝ね』
起き上がろうとするティアを手で制し、俺はその隣に横になる。割といい絨毯なのか、思ったよりも床は冷たくない。
『それでティア。俺が聞いた話だと三日前にこっちに来てたってことだけど、どうしてたんだ?』
『そう、それよ! もーっ、すっごく大変だったんだから!』
吐息が感じられるほど近い場所で、ティアの頬が不満げにぷくっと膨れる。声を出せない代わりに繋いでいる手に力が入れられ、ちょっと痛い。
『あの扉をくぐった後、一瞬だけ白い世界に包まれて……気づいたら外にいたの。周囲を沢山の子供達が囲んでて、その中でもナッシュ……そこで寝てる子ね。その子が一人だけ少し前にいて、私に話しかけてきたのよ。契約するから名前を教えろって』
『教えたのか?』
『本当は無視してやりたかったけど、一緒に居たはずのエドがいなくなってたのに気づいたから、エドが知ってるはずの世界の流れを変えないように大人しくすることにして、とりあえずティアって名乗ったわ。
それも呼ばれ慣れている名前だから本当は良くないんだけど、目の前の子供が私を縛り付けられるほどの魔術師には見えなかったし……あと、あんまり変えちゃうとエドが私を見つけられなかったら困るなって思って』
契約において、名前というのは極めて重要な意味を持つ。特に今回のような場合、ティアが自ら名乗っているので場の状態は随分とティアに不利だったはずだ。
まあ「随分と不利」程度で一〇〇年以上生きる凄腕の精霊使いであるティアを支配下に置くなどできるはずもないわけだが。
『そっか。まあ今回はいいとして、名前なんて幾ら変えようと俺がティアを見失ったりしないから、本当にヤバい時は変な気を使うなよ?』
『それは信じてるけど、念のためよ。実際こうしてすぐに見つけてくれたんだから、効果はあったでしょ?』
『無いとは言わねーけど……』
今回はすぐ近くにいたのでティアがどう名乗っていようと大した違いはなかったはずだが、もし遠く離れた地にいるのであれば……いや、やっぱり「失せ物狂いの羅針盤」を使えば同じか?
『正直、俺がホッとするまでの時間がちょっと長いかどうかの違いくらいだぞ?』
『なら名乗った甲斐は十分にあったわね』
さっきまでふくれっ面だったはずのティアが、今は笑顔でパチンとウィンクをしてみせてくる。この変わり身の早さが何ともティアらしい。
『で、その後は特に何も無いわ。一応は契約が成立したっぽく振る舞ってるから、変に思われてもいないはず。私がやったのも頼まれて精霊魔法を使ったくらいだし……で、エドの方はどうだったの?』
『ん? ああ、俺も似たようなもんだな。あと、俺は一応「人の精霊」エイドスと名乗ってる』
『え、何それ。偽名はいいとしても、人の精霊? そんなのいるの?』
『いねーだろうなぁ。だから名乗ってるんだよ。これなら誰にも迷惑かからねーし、実在しないなら適当な誤魔化しも効くからな』
『ハァ、本当にエドは、そういうところ頭が回るわよねぇ』
そう言ってニンマリと笑う俺に、ティアが呆れたような目を向けてくる。その後は細々とした情報のやりとりを終えると、俺は静かに床から体を起こした。
『さて、それじゃそろそろ戻るか。俺はミゲルって奴のところにいるから、何かあったら手紙なり何なりで連絡してくれ。この部屋から入口側に一〇個隣の部屋だから』
『わかったわ。けど、すぐに合流しなくていいの? 勇者パーティとして一緒に活動しないと駄目なんじゃなかったっけ?』
『ああ、そいつは平気だ。この世界を出る最有力のタイミングは、契約終了時である一年後だからな。半年以内にミゲルにティアを仲間だと認識させればその時に一緒に帰れるはずだから、まだ焦って動く段階じゃない』
一度パーティと認識されれば、学園内くらいなら離れて生活していても何の問題もないし、ミゲルとナッシュは同級生なので交流の機会は頻繁にあるだろう。最悪二人の仲が猛烈に悪くなったりしたとしても、俺もティアも実際には契約に縛られてはいないため、独自に動けばどうとでもなる。
『ああ、そうなの。安心したわ……じゃ、私はこれまで通りに契約されてる演技を続ければいいのね?』
『それが無難なところだな。一応俺の記憶では大事件が起きたりはしねーはずだけど、それでもしばらくは地味目な活動を心がけてくれ。
少なくともティアのご主人様が大活躍して王宮に召し抱えられる……なんてのは絶対に駄目だ。んなことしたら普通に引き離されちまうし』
『あっ、そうか! 私が使う精霊魔法はナッシュの実力ってことになって、その評価によっては学園から遠ざかっちゃう可能性があるわけか。えぇ、ひょっとして私、やっちゃった……?』
『……何か心当たりがあるのか?』
不安げな表情で耳を垂れ下がらせるティアに、俺は渋い顔で問い掛ける。
『最初の時に「お前は何ができるんだ?」って聞かれたから、普通に六属性の魔法を使っちゃったのよ。そしたら何だか凄く大事になっちゃって……』
『ああ、そんな話をミゲルがしてたな。この世界だと契約した精霊の属性でしか魔法を使えないみてーだし、そりゃ六属性使えたら大事になるだろうなぁ』
『うーん、でもそれって変なのよね』
『そうなのか?』
眉根を寄せるティアの言葉に、俺は起きあがらせていた体を一旦元に戻してから問い掛ける。去り際にこんな話題を振られるとか、気になって仕方ない。
『そりゃ変よ。だって、私が精霊魔法を使うのに、いちいち契約なんてしてないでしょ? 普通に魔法が使えたんだから「そういう世界」っていうのも違うんでしょうし』
『ん? じゃあ何でここの子供達は精霊と契約なんてしてるんだ?』
『それがわからないのよ。精霊との契約って、契約した精霊の力を大きく引き出しやすくする反面、契約した精霊に常時魔力を吸われるし、他の精霊の力は借りづらくなるの。
だから何かの目的があって精霊と契約を結ぶことはあっても、精霊と契約しなきゃ精霊魔法が使えないってことはないし、ましてや契約することを目的とするような運用法なんてあり得ないわ』
『なら、契約した精霊の力しか使えないっていうのは……』
『それこそ「精霊と契約してるから」でしょうね。その維持に魔力を消費してるうえに、契約外の精霊の力を行使するには余計な魔力が必要になるんだから、発動条件を満たせないんじゃないかしら?
そうね、たとえば誰とも契約してない状態での精霊魔法の発動に魔力が一〇必要だったとすると、契約した精霊の力なら五で使えるけど、その状態で違う精霊に力を借りようとすると二〇の魔力が必要になるの。
でも世間の常識として精霊との契約があると、魔法の発動に必要な魔力は五でしょ? 二倍三倍の魔力を注いでも発動の兆候すら見えないなら、契約してない精霊の魔法は使えないって結論に至ることは十分考えられるわ』
『おぅ、そりゃあまた……』
専門家であるティアの言葉に、俺は思わず絶句する。もし本当だとするなら……いや本当なんだろうが、何とも歪な伝統が受け継がれているものだ。
とはいえ、世の中なんてのはそんなものだろう。「昔からこうだった」と言われてしまえば、慣習という常識を覆すのは圧倒的に難しい。目の前にひとつ答えがあるなら、「それとは別の答えがあるかも?」なんて誰も考えないものだ。
『ねえ、これって指摘してあげた方がいいのかしら?』
『マジで勘弁して下さい』
異端として叩かれるか、賢者として祭りあげられるか。どっちにしてもナッシュの将来は大きく歪んでしまううえに、学園から遠ざかること請け合いだ。
『……まあ、そうよね。うん、できるだけ我慢するわ』
『いや、本当に頼むぜ?』
不満げなティアの頭をひと撫でしてから、俺は今度こそ体を起こして立ち上がる。すると完全に暗闇になれた目には、幸せそうな顔で眠るナッシュの顔が映り……
(何か、頑張れ)
いつの間にやら芽生えた同情を内心で呟いてから、俺はこっそり部屋の窓をあけ、いつの間にやら白み始めた外へと慌てて出て行くのだった。




