断章:万知万能
今回は三人称です。ご注意ください。
「ぬっ、ぐおぉぉぉぉぉぉぉ…………っ!」
全てがあるが、何もない場所。数多の世界が浮かぶ創造の宙海にて、アレは唸り声をあげながら身悶えていた。万知万能たるアレがそんな状況に陥っている原因は、かつて魔王への対策として送り込んだ己の欠片、戻ってきたその一つを取り込んだことだ。
「何だ、何なのだ!? これは一体…………!?」
流れ込む感覚に、感情に、アレはかつてないほどの戸惑いを覚える。これほどまでにアレが心を乱したのは、かつて魔王を……己を害することのできる存在を知覚したとき以来だ。
あの時にアレが感じたのは、純然たる「恐怖」であった。それまで外から見ているだけだった概念が己の身に降りかかり、湧き上がる恐怖にどうしていいかわからなくなったアレは、全力を以て魔王を封印した。
その結果一時的な安寧を得たものの、未だ根本的な解決には至っていない。然りとて積極的に関わることで不用意に「終わり」に近づくことも憚られ、ひとまずは放置しているわけだが……今回のこれは、それとは全く性質が異なる。
「あり得ん! 飽きるほど見たはずだ、何もかも知っていたはずだ! なのに何故……その視点が自分になっただけで、ここまで心がかき乱される!?」
欠片が持ってきたのは、意識して目を凝らさねば見えないような小さく儚い者達との、僅か一年程度の記憶。アレの主観からすれば刹那を億万に千切ってなお「長すぎる」と言わざるを得ないほどの一瞬の時であったが、そこに詰まっていたのはアレの根底を揺るがすほどの感情の爆発。
万知万能であるが故に、アレは「楽しい」という感情がどういうものであるかを知っていた。「嬉しい」も「悲しい」も、「寂しい」も「切ない」も、その全てを見て、聞いて、理解している。
だが全知全能ではないが故に、それはあくまでも知識であった。そして己の欠片が体験してきたことは、即ち自分が経験したことである。見るのではなく、聞くのではなく、自分が当事者となることで始めて埋まった既知と実地の差に、アレは生まれてから二度目の混乱を余儀なくされていたのだ。
「落ち着け、落ち着くのだ。まずはこのざわめきを収めねばならん。これは……少し外しておこう」
アレは自らの胸に手を当てると、初めての体験と感情に揺れ動く己を、欠片のもたらした知識ごとちぎり取った。黄金に輝くそれが自分から切り離されたことで、漸くアレのなかに凪のような静寂が戻ってくる。
「……ふぅ、これでいい。しかし感情とは、これほどに激しいものなのか。余すことなく知っていてなお、抑制できぬほど膨らむとは……あの小さき者達は、皆これほどのものを抱えているのか?」
アレが目を凝らせば、無数に浮かぶ世界のなかに蠢く、儚く矮小なる者達の営みが見える。限りなく無限に近い世界に住む、限りなく無限に近いそれらが皆、今のような感情を抱えて平然と生活しているということに、アレは今実感したばかりの「興味」を覚えた。
「…………知ってみるのも、悪くない、か?」
万知は、決して全知には至らない。何処までいっても不完全で、だからこそ何もかもを知りながらも、まだ学ぶ余地がある。
それに、アレには限りなく無限に近い時間がある。アレは以前にもそうしたように己の小さな欠片を幾千と生み出し、目に付く適当な世界に送り出した。するとそれらは現地にて形を得て活動し、様々な経験を積んでアレの元へと戻ってくる。
一つ、二つ、一〇、二〇。擬態した生き物の平均的な寿命と同じ長さを経験している欠片達は、時には数日、時には数千年の経験をアレに戻していく。そこには幸福も不幸もあり、愛し愛されることも、憎み憎まれることも、他者を虐げ悦に入ることも理不尽な扱いに血反吐を吐くことも、知恵持つ者が味わうであろうおおよそ全てが詰まっていた。
「……………………」
その一つ一つを、アレは静かに吟味していく。衝動的に特定の世界に過剰な加護を与えてしまったり、逆にプチリと潰して消滅させてしまったりもしたが、アレからすればそんなものは些細な、気にする必要のないことだ。
長い永い時間をかけて、アレは全てを咀嚼し飲み込み、己の体験として受け入れた。そうして知っていただけの感情をこれでもかと知らしめられたアレは、まだ何も生み出されていない虚無の宙を見て小さく声を漏らす。
「…………私は、一体何なのだ?」
実のところ、アレは自分が特別だなどと考えたことはなかった。自分が世界を、そこに生きる小さき者達を創りだしたように、自分もまた自分より遙かに上位の存在により創られたのではないかという考えを、万知万能であるが故にきっちりと持っていたのだ。
そしてそれを不満に思うことも、不安に思うこともなかった。己が生み出した生命が揺蕩うように生きているように、自分もまた自分として、自分の好きなように生きればそれでいいと考えていたからだ。
だが群れて生きる小さき者達の心の動きを知り、アレのなかに「知っているだけ」だった不安がよぎる。始めて「終わり」を自覚させられた時のような強烈な衝動ではないかわりに、それはジワリジワリとアレの心を侵食していく。
アレは、己のみで完結した存在である。
アレは、この場において並ぶモノのない超越した存在である。
アレは、唯一無二の存在である。
即ち――
「私は……ただ私のみだ…………」
アレはその場で膝を抱え、小さく丸くなった。すると人型をとっていたアレの周囲に卵のような殻が生まれ、その意識が外界からゆっくりと隔絶されていく。
「知るべきではなかった……いや、『知っているだけ』で満足するべきだった……私をこう創った存在は、私がこうなるとわかっていたからそう創ったのだろうしな」
孤独という感情を、アレは知っていた。知識として理解していたし、そう生きる小さき者達を数限りなく見たことがあった。
だが己の精神に「孤独」が刻まれたのは初めてだった。己と並び立つ何かと共に在る楽しさを知った代償としては、あまりにも大きすぎる。
かといって最初の時のように、これを切り捨てることもできない。この「孤独」は「恐怖」と同じく、アレの内側からもたらされたもの。外部からの刺激はきっかけでしかないので、己の本質を切り捨てるのは遠回りな自殺に等しくなってしまう。
終わるのは恐ろしい。だが終わらぬ孤独もまた恐ろしい。アレの思考は出口のない円環に囚われ、アレを包む殻は少しずつ厚くなっていく。
「……寒い」
アレの口から、期せずしてそう言葉が漏れた。それはアレの知る「寒い」という状態とは異なっているような気がしたが、それ以上に自分の今を表現するものがアレには思い浮かばなかった。
万知は全知ではない。万能は全能ではない。ならば万全もまた完全ではなく、不完全であるが故に強固ではあっても不変ではないのだ。己の根幹が冷えていくのを感じながら、アレはふと最初に切り離した欠片の記憶を、そっと胸に押し当てた。
「……温かい」
莫大な経験を取り込んだ今となっては、それは些細な記憶でしかない。なのにその記憶は、アレの凍える根幹をほのかに温めてくれる。その違いは何なのかと考えようと思ったが、すぐにアレは思考を放棄した。その温もりを取り込むことなく大事に抱きしめるに留め、微睡みの中で目を閉じる。
在れと望まれこの場に生まれ、在れと望む全てを生み出す。神が眠りについたその時……アレの創った世界もまた、静かな眠りの夜へと墜ちていった。




