「何も起きない日常」の価値を、人はなかなか算出できない
「……………………」
淀みの無い静かな呼吸で、ワッフルが構えを取る。対峙するのは黒一色に染まった人間の剣士。その剣が滑らかな動きで振り上げられ、そして振り下ろされた瞬間。
「ワフッ!」
短く息を吐き、ワッフルが力強く踏み込む。かわした剣の切っ先はワッフルの茶色い毛先をいくらか切り飛ばしたが、代わりに得たのは値千金の攻撃の機会。
「フンッ!」
エドの姿を盗み取ったミカガミ、その腹の部分にワッフルの渾身の掌底が決まる。すると黒く艶めく背中が弾け、ミカガミの擬態触手がデロリとその場に溶け落ちた。
「やったのだ! 遂にエドを倒したのだー!」
「おおー!」
歓喜の雄叫びをあげるワッフルに、側で見ていたティアが拍手を贈る。その声援を受けながら線を越えてこっちに戻ってきたワッフルの手に、俺はパチンと自分の手を打ち付けた。
「ははは、遂にやられちまったな」
「遂にやってやったのだ!」
苦笑する俺に、ワッフルがドヤ顔で尻尾を振りまくる。
俺の姿を写し取ったミカガミは、ぶっちゃけかなり強かった。追放スキルを活用したでたらめな強さではないが、単純に一〇〇年磨き上げた剣の技術が相当なレベルだったからだ。
無論、だからといってミカガミ程度の存在に完コピされるほど剣の頂は低くない。が、その代わりに毎回巻き戻るせいで体を鍛えられないという俺の弱点が人ならざるモノの無尽の体力で相殺されており、ティアもワッフルも俺のミカガミにはずっと惨敗を喫していたのだ。
「まったく、まさか毛無しのエドがこんなに強いなんて思わなかったのだ。でもおかげでワレはまた強くなってしまったのだ! ありがとうなのだエド!」
「どういたしまして。てか、強くなったのはワッフルが真剣に訓練しまくったからだろ? 別に俺が何かしたわけじゃねーさ」
「でも、エドがここに連れてきてくれたのだ! 単純な組み手じゃここまで強くはなれなかったのだ!」
「あー、まあ確かにそういうところはあるだろうけど」
仲間同士での寸止め訓練と、自分を殺しに来る、殺しても大丈夫な相手との真剣勝負では得られる経験値は段違いだ。当然俺もそう思っていたからこそ、本来ならまだ知り得ないこの場所にワッフルを連れてきたわけだしな。
「でも、本当に良かったのか? 随分設備が整ってるし、ここはエドの一族が秘密にしている訓練場じゃないのか?」
「フッ、いいさ。訓練場なんて、強くなりたい奴が強くなるために使わなきゃ存在意義がねーだろ? ワッフルみたいな奴にこそ使ってもらいたかったんだ」
「エド……その想いに恥じないように、ワレはこれからも頑張ると誓うのだ!」
「ああ。期待してるぜ」
力強く肉球を見せつけてくるワッフルに、俺は笑顔でその肩を叩く。ここでの訓練を経て俺達が本当に強いということを知ってから、ワッフルと俺達の間にもはや上下関係は無い。ワッフルの方の態度はそう変わっていないが、少なくとも俺とティアはワッフルを呼び捨てにするようになっている。
(ねえねえエド。ちなみにここ、本当ならどうやって辿り着くはずの場所なの?)
汗を拭くためにワッフルが離れて行ったのを見計らって、ティアがこっそりと話しかけてくる。その興味津々な翡翠の瞳には、俺も苦笑して応えざるを得ない。
(あー、そうだな。ワッフルが勇者になった後で、ちょいと嫌な事件があってな。その時に関係者から紹介される場所だよ。時期的には三ヶ月くらい先かな?)
とある事件により己の無力を痛感したワッフルは、それに深く関わる一族の者に許可を得てここで修行することになる。その時のワッフルはただひたすらに自分との死闘を繰り返し続け、当時の俺はろくに休憩も取らず無茶な訓練に明け暮れるワッフルの傷を手当てしたり、少しでも栄養のある食事を準備したりする程度のことしかできなかったのだが……
(え? それ大丈夫なの? 誰かが管理してる場所なら、許可を取らないと駄目だったんじゃない?)
(フフフ、いいかティア。こんな格言がある……『罪というのは露見した瞬間に確定するものであり、誰にも知られなければそれは罪ではない』というやつだ)
(えぇぇ……)
ニタリと悪い笑みを浮かべる俺に、ティアがスッと顔を離していく。
(いいんだよ。世の中綺麗事だけじゃ回らねーし、そもそもこいつは報酬の先取りさ)
(先取り?)
(ああ。きっかけになる事件そのものが起こらなくなれば、俺達はここに来ることができなくなる。が、誰も嫌な思いをしなくてすむようになるんだから、その分の報酬を先に貰ったって悪くねーだろ? 別に減るもんでもねーし。
それともティアは、誰かが傷つくとわかってて放置して、誰かが傷ついてからそれを解決する方がいいと思うか?)
(それは……むぅ、確かにそうね)
難しい顔をしたティアが、耳をピコピコ揺らしながらも頷いてみせる。
多くの人にとって、突然現れた見知らぬ相手に「貴方が不幸な目に遭う前に対処しておきました。なので報酬を下さい」なんて言われたら、頭がおかしい強盗だとしか思わないだろう。
だが、俺は一周目を知っている。無論神ならぬ身で絶対に同じ事が起こると断言はできないが、今のところ何もしなかった部分で未来が変わったことはない。
ならば俺は恥知らずになろう。強欲だと、詐欺師だと罵られても不幸を未然に防いでやろう。そして報酬もガッツリいただく。俺が関わる俺が助けたいと思う相手が、幸せな結末を迎えるために。
(てか、このくらいで気にしてちゃこれから先が大変だぜ? いずれは無許可で城に忍び込んだり、お宝を奪い取ったり…………あるいは、人を陥れることだってあるだろうからな)
俺の脳裏に、一周目の苦い経験が幾つも浮かび上がってくる。力が足りず助けられなかったものばかりじゃない。自分が帰還するために見捨てたり諦めたりしたものだって沢山ある。
そう、所詮俺はただの人間。いつだって我が身が一番可愛いし、思ったことを全て実現できるような存在ではないのだ。
「……エド」
「ティア!?」
不意に、ティアが俺の頭をその胸に抱きしめてきた。フワリと漂う花のような香りに、俺は驚いて声をあげる。
「大丈夫よ。だってもう、エドは一人じゃないでしょ? 私が一緒にいる。私が力になる。エドがそんな顔しなくていいように、私が頑張っちゃうんだから!」
「……ははっ」
「むーっ! 何で笑うのよ!?」
「いや、ティアは本当に頼りになると思ってな。ああ、そうだ。ティアが居てくれれば出来ることはずっと多くなる。これからも頼むぜ?」
「ふふーん! お姉さんにまかせなさい!」
俺の頭を抱きしめていた腕を離し、ティアが得意げに胸を反らす。その実に頼もしい様相を前にしては、相好を崩さずにはいられない。
「ふぅ、サッパリしたのだ……わふ? 二人ともどうしたのだ?」
「いやいや、何でもねーよ。それよりワッフル、そろそろじゃねーか?」
と、そこで戻ってきたワッフルに声をかけられ、俺は顔の前で手を振りながらそう問う。
「ほえ? そろそろって、何が?」
「おいおい、ちゃんと話しただろ? もうそろそろ勇者選考会が始まるんだよ」
「ああ! べ、別に忘れてたわけじゃないわよ!? ちょっとど忘れしただけじゃない!」
「忘れてんのか忘れてねーのか、どっちなんだよ……」
「うーっ! エドの意地悪!」
顔を真っ赤にしたティアの拳が、ポコポコと俺を頭を叩く。ハッハッハ、この程度の打撃など我が追放スキル「不落の城壁」の前では何の痛痒も感じませんぞ?
「わっふっふぅ、二人は本当に仲がいいのだ。確かにそろそろ移動しようと思っていたけど、二人はどうするのだ?」
「勿論、一緒にいくぜ? ワッフルが勇者になるところをしっかりと見届けたいしな」
「私も行くわよ! たっくさん応援するわね!」
「二人ともありがとうなのだ! じゃ、エドも倒せたことだし、明日の朝には出発するのだ!」
今回もまた綺麗に合意が纏まり、俺達の次の目的地が決まる。さあ、これがおそらくこの世界での最も大きな分岐点だ。




