断章:欠片の記憶 上
とても大きなナニカから、切り離された。それが俺の中に流れてきた「アレ」の最初の感覚だ。と言っても、ありがちな喪失とか寂寥のような「感情」は、そこには無い。「分かたれた」という厳然たる事実が揺るぎない真実として存在しているだけだ。
そうして次に意識が向いたのは、整然と形作られる球状の何かだった。球の中心にはひときわ白く堅牢な球体が存在し、その周囲には色とりどりの球体が浮かんでいる。
(ああ、なるほど。これが俺のいる世界の形か……てっきりもっと平たい感じかと思ってたから、ちょっと意外だな)
中心の球体と、それを取り囲む一〇〇個の球体。それらが集まって一つの巨大な球体となっており、その調和する有り様は涙が出そうな程に美しい。
そんな世界を漂う「アレ」は、吸い込まれるように白い球体の周囲に浮かぶ球体……一つの世界に入り込んでいく。
いや、入り込むというのは違うな。吸い込まれる……落ちていく? そう、世界の外側から内側に、「アレ」はまるで綿毛か何かのようにふわりと落ちて入っていく。そうして風に吹かれるように世界を漂うと、やがてとある人物の頭に着地し、そのままスルリと沈み込んだ。
「む? 何だこれは? 頭が……声?」
すると、俺の視点が「アレ」の入り込んだ男のものに移り変わった。俺の中に「アレ」とこの男の思考が入り交じったものが流れ込んでくる。
『選ばれし優秀な者のみが世界を救うことができる。万人を救うため、選民を導くのだ』
「何だ、何なのだこれは!? 確かに私は迷っていたが……誰だ? 一体どこから私に干渉している!?」
『魔王軍との戦いは激化の一途を辿っている。些細な可能性を追求して無駄な資金を浪費するより、才ある選ばれし者に力の全てを注ぐべきだ』
「むぅ、それは確かに……いやしかし……」
『迷うな、決断せよ。平等や公平などという耳触りのいい戯言に騙されるな。それともお前は、その辺の農民が自分の代わりになれるとでも思うのか?』
「ば、馬鹿を言うな! 私は幼き頃より家を継ぐべく高度な教育と訓練を受けてきたのだ! それが農民になど…………ふむ、そうか」
頭の中から発せられる声に激高した男が、しかし一瞬にして冷静になった。それと同時に「アレ」の声も、自分を惑わす甘言から自分の迷いを払うための諫言へと認識が変わっていく。
「そうだ、その通りだ。貴族家の当主となるべく育てられた私には、畑を耕すことなどできない。農民達とて仮に権限を与えたとしても、私のように領地を統治できるはずもない。
無論、私に農作の才が、農民に統治者の才がある可能性もある。だがそれを見いだすために貴重な時間と金を浪費するのは果たして正しいのか? そんな低い可能性のために、今既にできていることを捨てさせるのか?」
『そうだ。人の世の全ては有限であり、全ての可能性を見いだすことなどできない。砂漠に種を蒔いたとしても、芽が出ることが無くはない。きちんと耕した畑に蒔いた種も、時に枯れることはあるだろう。
だが平等を謳って貴重な種の半分を砂漠に蒔く者は、果たして聖者、賢者であろうか? 否、それは紛れもなく愚者である』
「むむむ…………」
(なるほど、こういう感じなのか……そりゃ説得されるわな)
悩む男の頭の中で、俺は俺で「アレ」のやり方に感心する。その言葉には説得力があり、関係ない俺ですら「そうだよな」と頷いてしまう。ましてやそれが悩みを抱えているものであれば……
「そう、だな。如何に我が家が裕福とはいえ、その資金は無限ではない。指導に回れる優秀な人材には限りがあるし、何より人が育つには時間がかかる。やはり新設する学園に募集するのは貴族のみとし、集中して育てるべきか」
(学園……? あっ!?)
男の言葉に、俺のなかで閃くものがある。それは広く門戸の開かれた学園にて、勇者の力に目覚める少年の物語。
(うわ、そういうことか! あー、これはやられてるな……)
これは勇者レインの状況に近い。彼女はアイドルになる道だったが、これもまたあいつが勇者になる道筋を最初の段階で潰す方針転換だ。もしも学園に入学できないとなれば、そもそも生まれ故郷の村を出てこない可能性すらあるのだから。
ああ、ちなみにミゲルとその勇者は別人だ。ミゲルは幼少期においては天才扱いだったので、その条件だと普通に入学できちゃうからな。
(まあでも、この世界に来る前にこの情報が知れたのはよかったぜ。後で対策を考えておくとしよう)
事前に知ってさえいれば、やれることはいくらでもある。この時点でちょっと満足してしまった感があるが、俺が今ここにいる目的はまだ何も達成されていない。慌てて意識を「アレ」に同調させ直し……………………
(え、これ長くねーか?)
俺の視点は、延々とこの男のなかのままだ。一日経っても二日経っても、それが変わることは無い。
そして、「アレ」にも特に変わった動きはない。この男の思考誘導はもう終わってるし、時々何か話したりはしてるが、その内容はこの方針が正しいのだと繰り返す程度であり、取り立ててどうということもない。
(そう言えば、エウラリアは「神の欠片」が宿ってから一〇年過ごしてたんだよな……)
猛烈に嫌な予感が、俺の中をよぎる。まさかオッサンの中の人になったままで、このまま何年も放置される感じなんだろうか? それは流石に辛いというか、退屈すぎて心が死にそうな気がする。
(何か、何かねーか? 加速とかこう……あるだろ!?)
一縷の望みをかけて、俺は思いつく限りのことをやってみる。全身に力を入れてみるとか、むむむと念を送ってみるとか、腕をグルグル振り回したり、何なら小粋なダンスを踊ってみたりしたが……俺の世界はオッサンの中から何も変わらない。
自分の頭の中で変な男がはしゃぎ回ってるオッサンには同情しなくもないが、ここはあくまで「アレ」が経験した過去の世界。ならばこそ俺は何の干渉もできないし、ならばこそ時間の加速というか、変化があるまで飛ばすみたいなこともできてもおかしくないんだが……
(くっそ、これはもうちょっと深く干渉するしかねーか?)
表層をなぞるだけでは、これ以上はどうしようもないというのが感覚的に理解できる。ここでの体感時間と外での実時間とがどういう関係になっているのかはわからないが、無駄に時間を浪費するのはどうあれ正しい選択とは言えない。
(すぅぅぅぅぅぅぅ…………はぁぁぁぁぁぁぁぁ…………)
精神だけの存在である今の俺が呼吸などしているはずもないのだが、それでも意識して俺は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出していく。それを何度も繰り返しながら徐々に自分の領域を広げていき、「アレ」の中に根を張っている「欲の力」を介して「アレ」の中へと浸食を深めていく。
少しだけ、視界がぼやける。世界が遠く細くなり、黒い世界に白い幕がその陣地を広げていく。
境界をきっちりとしすぎてはいけない。曖昧にすることで互いを受け入れ、「アレ」を俺に、俺を「アレ」に近づけなければ、記憶や意識に働きかけることなどできない。
思考が繋がっていく。弱く曖昧なそれが強くはっきりとした「アレ」へと変わっていき、呼びかける声はやがて俺自身の声になる。俺は「アレ」。「アレ」は俺。それが自分の記憶であれば、思い出したいところだけを思い出すことなんて造作も無いはずだ……さあ、「アレ」は何を知っている? 何を知りたい?
無意識のうちに、世界が凄まじい勢いで廻っていく。キュルキュルと皮の擦れるような音が響き、高速で流れていく景色が不意にバッと制止し、一瞬を切り取った絵画が無限に連なる帯となって俺の前に広がっていく。
違う、違う、まだ途中……もう少し先……そう、ここだ。
渦巻く絵画の一点を、俺は右手の指で指す。するとそこから世界が蘇り、俺の視点が再びオッサンの中に戻った瞬間。
「ぬぉぉ!? な、何だ!?」
(――何だ?)
それがきっと、あの日あの時。世界が激しく揺れ動き、「アレ」はオッサンのなかから弾き飛ばされた。




