万が一の備えは大切だが、備えられるものには限度がある
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!?!?!?」
びっくりした! 超びっくりした! あまりにも驚きすぎて思わず声まであげながら、俺は「追い風の足」を起動して跳ねるように木々の間を飛び回ってその場を離脱する。
魔王を目視している状態で油断なんてしているはずがない。むしろ発見されないように対峙している時より警戒していたというのに一切気づけなかったということは、あの黒いもや玉は目視以外では関知できない可能性が高い。
見えるなら楽だろ、などと言うのは素人だ。確かに視覚から得られる情報は膨大だが、人の目はどうやったって正面しか見えないのだ。だからこそわずかな音や空気の揺らめきなど、「気配」と総称するモノで見えない大部分をカバーしているというのに、それに引っかからないとは……これは絶対に伝えなきゃならん。
(二、三、五……正面は無理か)
辺り一面を埋め尽くす……というわけではないが、ちょうどいい位置にばかり浮遊しているもや玉に、俺は最短での逃走を諦めて大きく迂回しながら「彷徨い人の宝物庫」から紙とペンを取り出し、そこにこれまで知り得た魔王の特徴や能力を書き記していく。高速機動を取りながら文字なんてのが書けるのは、どんな状況でも美しい文字が書ける追放スキル「顔の見えない美人局」のおかげだ。
ふっふっふ、手に入った時は「何だコレふざけんな!」と白い世界で憤ったもんだったが、今はお前が最高に輝いてるぜ!
「……っと! さて」
まるで別人のような筆跡で必要事項を簡潔にまとめた紙を「彷徨い人の宝物庫」に戻すと、俺は改めて周囲の状況を確認する。浮かんでいるもや玉の数はおそらく二〇かそこらだが、それはあくまで見えているだけ。試しに「旅の足跡」と「失せ物狂いの羅針盤」を併用して表示させてみると、数えるのも馬鹿らしいほどの数がかなりの広範囲にわたって広がっているのが判明する。
「流石に『失せ物狂いの羅針盤』は誤魔化せねーのか……うぉぉっ!?」
背後から迫ってくる赤点にその場で身をよじると、背にしていた木の幹をすり抜けてもや玉が俺の脇を飛んでいく。おい待て、ってことは物理無効か!?
「ふっざけんな! どんなイカサマだよ糞っ!」
俺とのあまりの相性の悪さに、思わず罵倒がこぼれ出る。目視でしか確認できないのに壁を背にしても無意味となると、最低二人で背中合わせになって全周警戒しないと防げない。というか、地面まですり抜けられるならそれですら足りないことになる。
「おらぁ!」
近くに浮かんでいたもや玉を試しに剣で切ってみたが、やはり何の手応えもない。あざ笑うかのようにフワフワとその場で揺れると、キュッと勢いをつけてこっちに向かってきたのを大きく飛び退いて回避する。
あー、駄目だ。これは本当に最悪だ。純粋物理剣士である俺としては、剣が通じない時点で対処法が無い。気配すら感じさせず壁などの障害物を無視して襲ってくる相手をかすらせることすらなくかわし続けるとか、俺の知ってるどんな達人だろうと無理だ。
「チッ、勝負は次に預けといてやるぜ!」
とっくに見えなくなっている本体に向かって捨て台詞を吐き、俺は「不可知の鏡面」を起動して今度こそ全力で逃げ出す。情けないと言うなかれ、生きて情報を持ち帰ることこそ偵察兵の誉れなれば、相性の悪い相手にごり押しなんて逆に馬鹿にされちまう。
それに、ティアとの約束もある。小指から延びる赤い糸をひらめかせながら、俺はもはや障害物たり得ない木の幹に突っ込んで……
「あぐっ!?」
瞬間、ガクンという強烈な衝撃を受けて俺の体が地面に転がる。既に「不可知の鏡面」は解けており、ゴツゴツとした木の根だの何だのにぶち当たった全身が痛い。
「なん、で……っ!?」
必死に顔を上げて、俺は自分がすり抜けたはずの木を見る。するとその幹から黒いもや玉がスルリと出現し、その場で楽しげに上下する。
まさか、幹の中に隠してた? 俺が「不可知の鏡面」ですり抜けるルートを予測して、絶対見えない場所に……!?
「くっ……ま、だだ! まだ終わってねー!」
落下の衝撃で体は痛いし、案の定追放スキルが使えなくなっている。が、別に致命的な怪我を負ったわけでもない。俺はそのまま魔王のいた方に背を向けて全力で地を駆ける。途中何度ももや玉が俺の体に当たったが、既に追放スキルは使えなくなっているのだから関係ない。
いける! これなら十分逃げ切れ――
「グルルルルルルルル……」
「あー、そういやお前達もいたよなぁ」
森の向こうから、魔獣の群れが姿を現す。一端足を止めて呼吸を整えると、俺は剣を構えてその中へと突貫していった。
「見逃してやるつもりだったんだが……そこまで熱烈な歓迎をされちゃ、答えねーわけにはいかねーよなぁ!」
右に左に上に下に、俺は剣を振るいながら森の中を駆けていく。だが敵は死を恐れぬ無尽にして無数の群れなのに対し、こっちは一人。追放スキルも使えない今、俺の体には小さな傷が少しずつ増えていく。
「おらおら! まだまだまだぁ!」
飛びかかってくるグレイウルフを真っ二つに切り裂き、頭から血と臓物を浴びながら前に進む。まとわりつくゴブリンは首を落として蹴り飛ばし、立ち塞がるオークは膝だけ潰して動けなくしたらそのまま脇を通り過ぎる。
目的をはき違えるな。全滅させることなんてできないのだから、目の前に迫る最低限の敵だけを倒し、とにかく逃げて生き延びればいい。
汗が噴き出す。血が流れる。口に溢れる鉄錆の味は、果たして誰のものであるか。吸血鬼ならこいつでパワーアップできるんだろうが、生憎俺は魔王なのでそういうのは無理だ。
進む、進む。進み続ける。追放スキルが使えない今、普通に走れば町までどのくらいだ? 計算なんざ意味はない。一歩進めば一歩近づく。その事実だけで十分だ。
足を止めるな。前を見ろ。やれる。やれる! 俺はまだ……っ!?
「しまっ!?」
でっぷりと膨らんだオークの腹に食い込んだ剣が、半端な位置でその動きを止めてしまう。今俺が振るっているのはドルトン師匠が鍛えた希代の名剣「夜明けの剣」ではなく、よく鍛えられてはいてもごく普通の鋼の剣。数百の魔獣を切り倒すという偉業を成し遂げてはくれたが……そこがこの剣の限界だったのだ。
「うっ……らぁぁぁぁ!」
それでも無理矢理振り抜いてみると、既に刃こぼれしていた刀身がいびつに歪む。折れなかっただけでも上等だが、流石にこれはもう剣ではなく、歪んだ鋼の棒という鈍器にしかならない。
それでも進む。ひたすら進む。ここぞとばかりに一斉に襲いかかってくる魔獣の群れを鋼の棒で殴りながら、一心不乱に進んでいく。
腕に噛み付かれる。足を切り裂かれる。ほんの数分前まで軽々と進めた距離が、今はとてつもなく遠い。
だが進む。とにかく進む。俺が諦めない限り、そこに終わりはやってこない。足の踏ん張りが失われ地面に倒れ伏しても、腕でもがいて指で掴んで、一ミリだって前に進んでいく。
「フフフ……モウオワリ?」
朦朧とする意識のなか、気づけば俺の体から魔獣が離れている。代わりに俺の眼前には黒いもやを纏ったナニカがいる。どうせもやの下は俺とそっくりな姿をした魔王なんだろうが……とりあえず聞こえてきたのは子供のような甲高い声だ。
「モウニゲナイ? モウオワリ? オワリナラ……タベチャウヨ?」
「ハッ……ケハッ…………」
何か言い返そうと思ったが、喉に詰まった血を吐き出すように咳き込むことしかできない。
ああ、糞。これで終わりか? いや、でも俺って神でも滅ぼせなかった魔王なんだろ? なら死んだ程度でどうにかなったりはしねーのか? 意外とあっさり復活したりして……って、違う違う! 何諦めてんだよ、どうにかする手段を考えろよ!
「ウゴカナイ。ツマンナイ……モウイイヤ。ソレジャ……」
ほら、絶体絶命のピンチだぞ!? 何かスゲー力に覚醒とかしろよ! 魔王の力で辺り一面を消し飛ばすとか、どんな攻撃も通らないモリモリマッチョな鋼の肉体が復活するとか!
「イタダキマース!」
黒いもやの中央に、真っ赤に裂けた大きな口が出現する。そいつに頭から丸呑みにされて……俺の意識は暗闇へと落ちていった。




