謁見後
子どものように首をすくめて玉座の裏の幕から現れたのは、ロブフォード侯爵、バランマスの宰相になった青年だった。
「……ウィルフレッド様」
ウォーレンが小声で呟く。
彼の近くにいたアンナが、それに対して小さく頷いてみせた。
「悪巫山戯が過ぎるわよ。今すぐロブフォードに遣いを出して、貯蔵庫の中身を外の軍勢に配りなさい」
ハリエットは、エべラルドに対するときとはまた違った厳しい口調で弟に命じた。
「えっ」
「とぼけないで。こんなときのために早くから溜め込んでいたのを知ってるのよ」
「嫁に行ったくせに、実家の動向を把握するのやめてもらえませんか」
「ウィル。姉に逆らうつもり?」
ウィルフレッドが笑顔のまま、慌てて首を横に振る。
「いいえ! まさか。僕が姉上の意に沿わなかったことなんて、過去に一度でもありましたか?」
姉に頭を押さえつけられる弟の図に、エベラルドは顔をしかめた。
「侯爵?」
「ごめんなさい、隊長」
「隊長って言うな」
「弟って、姉には逆らえない生き物なんです」
「…………もういい。聞きたくない」
ハリエットには国の来賓用の部屋が用意された。
エベラルドに命じられた兵が案内役を務めたが、彼は真後ろで静かに睨むサイラスに怯えを見せながら早足で進んだ。
ハリエットはそれを軽侮の目で見遣り、騎士姿のアンナに手を取られてゆっくり進んだ。
「ハリエット様、お身体の具合は」
小声で訊ねるアンナを安心させるように、ハリエットは彼女の手をぎゅっと握った。
「大丈夫よ。食事が届くまで部屋で休むわ」
「ライリー様を、お呼びしてきましょうか」
アンナの提案に、ハリエットは少しばかり困ってしまった。
「そうして、と言いたいけど。もう少し我慢したほうがいいのかしら」
王宮までの道々、ウォーレンから話を聞いているのだ。
雪が解けるまでにハリエットがエルベリーに送られなければ、ライリーは賭けに勝って大手を振って牢を出ることができる。
今回も牢の扉を開けられたにも関わらず、意地を張って動かなかったらしい。
「でも、いらっしゃいましたよね、ライリー様」
「いたわね」
王城に足を踏み入れる前、見上げた窓に夫の姿があった。
確かに見たのだが、目が合ってすぐ、彼はぎょっとした顔になって奥に引っ込んでしまった。
何をしているのかしら、とそのときは思ったが、多分彼は今頃牢に戻っている。
王都に軍勢が押し寄せていると聞いて、意地を張り続けられるひとではないのだ。エベラルドも分かった上で、牢の鍵を開けたままにしておいたのだろう。
ライリーはこっそりと戦況を確認するため、高いところから外を見ていた。ハリエットがサイラスとアンナを引き連れて現れたのを見て、状況が分からないなりに安心したのだろう。そこで賭けを続行するために地下牢に戻った。
「仕方ないわ。彼にとっては大事なことなのよ。もう何日もしないうちに雪は解けるわ。それまで待って差し上げましょう」
「呑気ですね」
案内を追い立てるようにして先に部屋に着いていたサイラスが、ゆっくりと到着したハリエットのために扉を押さえて立っている。
「室内は検めておきました。ご安心しておやすみください」
サイラスにかしずかれると違和感しかないが、彼は現役時代に戻ったようにしかつめらしい表情を崩さない。
「アドルフ様、そこまでなさらなくても」
「今は戦時下です。昔、二度とあなたを危険に晒さないと、自分に誓いましたので」
「……何かあったら、また放り投げるおつもりですか」
苦笑するハリエットを見下ろして、サイラスは躊躇うことなく答えた。
「必要があれば」
「必要性を感じる機会がないよう願います」
「そう思うのでしたら、どうぞ御身をお大事に」
険しい武人の頬が、わずかに動く。これは微笑か。
ふたりはすでに現役を引退した身である。
侯爵夫人と呼ばれ、国内貴族のみならず各国要人とも渡り合ってきたハリエットは、騎士団長だったサイラスに守られてきた。物騒な空気になったときには、何故かいつでも彼が近くにいてくれた。
彼の言うとおりほんの小娘だったハリエットが、しつこい男性から逃げられずにいたときに助けてくれたのもサイラスだ。
ライリーが邪推するような甘い空気がふたりの間に存在したことは一度もない。ハリエットは色恋とは無縁の好意を、サイラスから受け取っていた。
当時は認めようとしなかったが、下心を感じさせない子ども扱いが嬉しかったのだ。憎まれ口を叩くのも、強い大人の代表のようなサイラスに甘えていたせいだ。
「そうします」
長距離の移動と、エベラルドとの対峙で疲れてしまった。ハリエットはサイラスに穏やかな表情を見せ、用意された部屋で横になることにした。
「ハリエット様。どうか、ご無事で」
「ええ。サイラス様も。必ずまた、お会いしましょう」




