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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
アルカディア
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アルカディア 14

  14


 革命軍の斥候が、軍団の中ほどにいるベロニカのもとへ戻ってくる。


「敵軍を発見、すでに向こうは戦闘に供えて陣を作っています」

「こっちもそこへ向かうわ。敵からすこし離れたところで軍を待機。それぞれの部隊の持ち場は、事前に通達してあるとおりに」

「はっ、伝令して参ります」


 兵士が影のように駆け去っていくと、ベロニカの身体が不意にふわりと浮き上がった。ベロニカはとくに驚かず、その現象に身を任せ、進軍する自軍を見下ろしながら上空へと舞い上がる。


「――叶さま」

「どう、ベロニカ」


 空中に浮かんだ叶は、ベロニカを自分のすぐ近くまで呼び寄せる。ベロニカは叶をちらと見て、しっかりうなずいた。


「大丈夫です。このまま指揮を任せてください。絶対に勝てます」

「そう――見てごらんなさい。あれが敵の影よ」


 まだ遠く離れた地平線の果てに、黒い塊が見える。それはもぞもぞとうごめいていて、不気味な昆虫の塊のようにも見えた。


 しかしそれはすべて人間だ。二十五、六万の人間がうごめいているのだ。


 上空からでは、それを踏み潰すことは容易なように思われた。簡単に押しつぶされてしまいそうなそれは、しかし強固に抵抗してくるだろう。ベロニカは敵の姿をじっと見つめ、首を振る。


「相手が何十万人いようと、その内訳がなんであろうと、あたしは勝ちます――叶さま、かまいませんよね?」

「なにが?」

「あのなかには、叶さまの弟もいると思いますけど」


 叶はからからと笑った。


「大輔だけは殺さないように、とわたしが指示すると思う?」

「いえ――」

「あなたがそうしたいなら、大輔も殺しなさい。あなたがそうしたくないと思うなら別に殺す必要はない。大輔が生きていても死んでいても、そんなことはどうでもいいことだから」

「わかりました」

「あなたには期待しているわよ、ベロニカ」


 叶はベロニカの頭を撫でた。普段ならうれしいその行動も、いまのベロニカには不思議と喜びはもたらさなかった。


 なにかがちがう。ベロニカはそう感じている。


 叶か、自分か、それとも周囲かはよくわからないが、なにかがちがってしまっている。以前のように無邪気ではいられない気がしてしまうのだ。


 以前は、叶の言うことはすべて信じられた。信じられるものといえば叶の指示だけで、その意味を知ることもなく、ただ叶の命令を実行するだけで満足だった。


 それがいまは、それでは満足できなくなっている。


 叶の命令を疑うというわけではない。叶を疑うなど、思いもしないことだ。しかし、命令の奥にある意志を探ろうとしてしまう。


 いったい叶はなにを求めているのだろう。なにを望み、ベロニカに命令を下すのだろう。それが気になって、ただ命令を実行するだけではどこかもやもやとしたものが残ってしまうのだ。


「――叶さま」

「なあに?」


 叶はいつものようにやさしく微笑んでいる。


 その叶になにか変化があったとは思えない。変わったとしたら自分なのだ、とベロニカは考え、そうだとしたら早くもとの自分に戻りたいと、叶に聞いた。


「叶さま、ナウシカは、このあたりにあるんですか?」

「そうね――この戦争とナウシカは無関係じゃないわ。でもそれ以上はあなたが知る必要のないこと。あなたはナウシカなんて求めていないでしょう?」

「それは、そうですけど……でも、叶さまの考えていることを知りたいんです。あたし、叶さまの期待に応えたいし、叶さまの役に立ちたいから――叶さまの求めているものがはっきりわかれば、あたしももっと叶さまの役に立てると思います」

「ベロニカ――」


 叶はじっとベロニカを見つめた。叱られるか、と思っていると、不意に叶はベロニカの身体をぎゅっと抱きしめる。


「あなたはなにも知らなくていい。あなたはあなたの好きなようにすればいいわ」

「叶さま――それは、どういう意味ですか」


 抱きしめられているのに、叶の体温をほとんど感じない。人間らしい温かさはあるはずなのに、ベロニカにはそれが感じられないのだ。


 ふたりのあいだには絶対的な空白がある。温度も言葉も通さない真空の狭間がある。


「わたしの心があなたの行動で動くことは、絶対にないってことよ」


 抱きしめたまま、叶は言った。


「もともと、わたしには心なんてないの。もし心を持たないものが人間でないとすれば、わたしは人間ではないんでしょうね。だから、あなたはあなたのしたいことをすればいい。いままで、あなたのしたことでわたしが怒ったことはあった? 一度もないでしょう。あなたのしたことでわたしが喜んだこともない」

「でも――あたしはいままで、叶さまの命令に従ってきました」

「命令、ね。それも考え方次第よ。わたしがあなたに出した命令は、わたしがあなたにしてほしいことじゃない。あなたがわたしに出してほしいと思っている命令を出しただけよ。わたしはみんなそうなの。わたしが信じるわたしなんて存在しない。あなたが見たわたし、兵士たちが見たわたし、大輔が見たわたし、大輔の教え子たちが見たわたしが存在しているだけ。わたしはわたしを見たことがない。だから、本当のわたしなんてどこにもいない。あなたはわたしに、こうやって振る舞うことを求めた。だからわたしはそれに従っただけのことよ――頭のいいあなたなら、わたしの言っていることがわかるでしょう」


 ベロニカは首を振った。理解できないのではなく、理解したくなかった。


 叶は、いままでのすべては茶番だったと言っているのだ。


 あの笑みが、あのやさしさが、すべてただの芝居だったと言っているのだ。


 それはベロニカが意図的に考えないようにしてきた答えだった。すこし考えればわかることだ――ベロニカと叶の関係は、あまりに理想的すぎた。


 叶が言うとおり、ベロニカは一度も叶を怒らせたことがない。いつも叶の期待には応えてきた。そう感じていた。しかしそれは、叶に褒めてほしい、というベロニカの意志を理解した叶が、なんの感情もなく機械が決められた反応を返すようにベロニカを褒めていただけだった。


 それはとても人間同士の関係と呼べるものではない。


 鏡を相手にしたひとり芝居と同じだ。ベロニカは叶に自分の姿を映し、自分の理想形と笑ったり話したりしているだけだったのだ。叶自身の意志は、そこには含まれていない。そもそも叶の意志というものは存在しないのだと、ほかならぬ叶が言うのである。


「それじゃあ――叶さまは、どうしてこんなことをするんですか?」

「革命軍を使って世界中を荒らしてるってこと? さあ、革命軍っていう旗の下に集まる人間がそう望むから、そうしているだけよ」

「ちがいます――ナウシカです。もし叶さまに本当に意志がないなら、どうしてナウシカを探すんですか?」


 叶の腕がわずかにこわばる。抱き寄せられているまま、ベロニカはそれを感じた。


「――そうね、ナウシカを探しているわたしは、本当のわたしかもしれないわ」


 そう認めて、叶はベロニカの身体を放した。


「ナウシカってなんなんですか? いったいなにに使うものなんですか」

「ナウシカは、この世界を終わらせるためにあるものよ。ある遺跡に記してあった言葉が本当なら、だけど。ナウシカっていうのはね、ある世界のはじまりと終わりを定めるものよ。それは力そのもので、かつてこの新世界にいた魔法使いたちは、ナウシカを使っていまの世界を作った」

「世界のはじまりと終わりを定める……? そんなものを使って、なにをするんですか」

「わたしがどこまでできるのかやってみたいだけ。それ以上の意味はないわ。たとえば、あなたが拳銃を持っているとしましょう。それはおもちゃのようなものだけど、本当にひとを殺せる。でもあなたは一度も使ったことがない。一度、どんな威力があるのか試してみたいと思わない?」

「それは――」

「わたしも同じよ。わたしには力がある。でも、一度も全力を出したことはないの。だから、たった一度でいいから、本当にすべての力を使いきってみたい。それもいちばん効率がいい方法で、この世界に、この宇宙にわたしがなにをできるのか知りたい。わたしがナウシカを探す理由はそれよ。その結果としてこの世界が滅んでも、この宇宙が壊れても構わない――もうそれはわたしには関係のないことだから」


 それはこれ以上ないほど単純な欲求だった。


 叶はナウシカというものを通し、自分を知ろうとしているのだ。いままで未知な存在であり続けた自分を手に入れようとしているのだ。


 好奇心というにはいささか剣呑にはちがいないが、それは到底抗うことが不可能な欲求でもあった。


「だから、わたしのことを気にする必要はないわ。あなたはあなたがやりたいようにやればいい。わたしのことが嫌いで、革命軍の指揮もしたくないなら、それでもいい。革命軍は指揮官なしでも勝手に戦うでしょう」

「でも、そんな戦い方で勝てるとは思えません」

「革命軍は負けてもいい。わたしは自分の目的を達成するわ。彼らの目的は戦うこと、殺すことなんだから、全体が負けても目的が達成できればいい。彼らは満足しながら死んでいくでしょう」

「それじゃあ――あたしの役割は」

「それはあなたが決めることでしょう」


 そう言われて、ベロニカはようやく自分が叶にすべてを投げ出してきたのだと気づいた。


 結局はベロニカも叶と同じだ。自分というものを持たず、他人の意志に従って行動している。ベロニカの目的は叶の目的だった。それは心が一致しているのではなく、単に叶の目的を横取りし、自分の目的としているにすぎない。


 まるで母親の足跡だけを頼り、言われたことだけを忠実にこなす鳥の雛のようだった。そしていま、その雛は唐突に母親から突き放され、自分の意志で、自分のために行動することを求められているのだ。


 ベロニカは押し黙り、なにも答えられなかった。叶はベロニカの身体を革命軍のなかへ戻す。そして自分は幻のように姿を消した。


 馬に揺られ、革命軍の兵士たちに囲まれ、ベロニカは、自分はいったいなにをしているのだろうと考える。


 なんのためにここにいて、なにをして満足するつもりだったのだろう。


 もう革命軍を勝利させる理由はなくなった。叶の目的は、ベロニカの目的ではない。その当たり前のことに気づかされただけで、ベロニカは立っていた地面も目標にしていた光も失い、動きのない暗闇のなかにぼんやりと漂うばかりだった。


 革命軍を率いて戦う理由はないが、かといって革命軍から離れてなにができるのか。どこへ行くあてもないし、地球へも帰れない。この新世界で、たったひとりで生きていかなければならない。革命軍という庇護もなく、自分の力だけで。自分にそれができるだろうか。


 ベロニカは、正義軍に投降しようかとも考えた。しかしそれはできないとすぐにわかった。投降したからといって罪がなくなるというわけではない。叶がいなくなったからといってベロニカが積み重ねてきたいくつかの罪までなくなってしまうわけではなく、叶の指示によって行ったことは、いまやベロニカの身体に重たくのしかかっているのだ。


 どうしよう。どこへ行こう。どうしようもない、どこへ行くこともできない。


 いまはただ、この革命軍の流れに従って北へと進むしかなかった。


 兵士たちは叶の言うとおり、自分の欲望を満たし、満足して死んでいくだろう。ベロニカはそうした兵士たちにはまったく共感を抱いていなかった。理解できない、機械のような相手だ。彼らのように生きることはできそうにない。


 それなら、とベロニカは思う。


 このまま革命軍を率いて、いままで頼ってきた自分を、大湊叶という存在に付属していた自分を演じ続けるしかない。そうすることでしか生きていけないだろう。


 その結果死ぬことになっても、生きていない状態よりは生きて死んだほうがいい。


 革命軍はゆるやかに進む。そのなかでベロニカはひとり、決意を固めた。


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