アルカディア 12
12
ベロニカは侵攻する革命軍の中ほどで馬に乗っていた。
兵士たちのようにまたがるのではなく、横座りして巧みにバランスを取っている。
周囲にいるのはどれも粗暴で屈強な男たちだった。そんななかにあって、ベロニカだけは黒いワンピースから輝くような白い足を伸ばし、馬の動きに合わせてぶらぶらと振っている。
馬はごくゆっくりと歩いている。革命軍ばかりの行列はどこまでも続いていて、細い街道では急ぐということもできなかった。
とくにいま、革命軍が差し掛かっているのは深い谷間である。道は細いものが一本しかなく、左右は切り立った崖で、馬は二列になって進むしかなかた。
ベロニカは馬に横座りのまま、ちらりと頭上を見上げる。
崖は何十メートルとあり、傾いた太陽がその向こうに隠れていた。逆光が強く、崖の上はよく見えない。しかしなにかそこに動く影のようなものを見た気がしたのだ。
「――またか」
ベロニカはぽつりと呟く。その瞬間、崖の上から大きな岩が轟音を立てて転がり落ちてきた。
革命軍の兵士たちもそれに気づき、頭上を仰ぎ見たが、それでは遅すぎる。細い道では逃げ場もなく、馬がいななき、低い叫び声が響く。岩は崖を飛ぶように転がり落ち、ベロニカの十メートルほど後方に落下した。
何人かの兵士と馬が下敷きになり、道が完全に塞がれる――と、一瞬あたりに赤々とした光が満ちた。
空を仰ぎ見る。雲のない青空を、巨大な火球がぼうっと音を立てて流れていく。やがて崖の上から悲鳴が上がり、岩を落とした下手人は炎に包まれた。
上空を漂う叶が炎を放ったのである。しかし叶は、岩が落ちる前にそうすることはなかった。岩が落ち、何人かが犠牲になってから、そうしたのだ。
「岩を退かして」
ベロニカは、自分の父親ほども年が離れた男たちに指示する。
「谷の終わりまで押せば通れるようになるはずだから」
男たちは不平も言わず、すぐに行動をはじめた。ベロニカは馬に乗ったまま、ゆっくりと前へ進む。
このような出来事は、すっかり慣れっこになっている。
革命軍の向かう先には、基本的には敵しか存在していない。その敵を蹴散らしながら革命軍は進むのだ。
しかしこのごろは、直接革命軍の前に立ちはだかるものはほとんどいなくなっている。代わりにいまのような奇襲や不意打ちが多くなり、革命軍に犠牲が出るとすればほとんどがそうした攻撃によるものだった。
それでも所詮、三十万いるうちの四、五人が巻き込まれる程度だ。全体として見ればまったく損害は出ていない。要は嫌がらせのようなもので、ベロニカは極力そうした攻撃を無視するようにしていた。
いま革命軍の指揮は、完全にベロニカに任されている。ベロニカが進めといえば三十万の革命軍が進み、止まれといえばぴたりと止まる。外側からは好き放題やるだけの集団に見えて、その実内側では規律があるのだ。
指揮官の命令に従うかぎり、革命軍の兵士にはすべてが許される。しかし命令に背いた兵士はすべてを奪われる。その命さえ。
「ベロニカさま」
兵士のひとりが、進軍の川を遡るようにしてベロニカの前まで戻ってくる。
「前方に町があります。いままでどおり、無人だと思われますが」
「食料が残っているかもしれない。とりあえず行って、略奪してきて。なにもないなら、すべてを焼き払うように」
「はっ――」
はじめのうちは町にもひとがいたし、略奪のしがいがあった。しかしこのところはどの町も無人になっている。グランデル王国の兵士が先に手を回し、住民を避難させているのだ。
なかには、革命軍に焼かれるなら、と町をすべて焼き払ってから立ち去る住民もいる。その結果、このごろの革命軍は飢餓気味で、同じ軍のなかでの諍いも多くなっていた。
そう長くは保たない。ベロニカは思う。この軍はもともと、なにか共通の信念で結成されたわけではない。世の中のはみ出し者が集まり、ただ肩を寄せ合っているだけだ。いまこうしてまとまりを維持できていることが奇跡のようなものなのである。
しかしグランデル王国も、もう遠くはない。この谷を超えれば丘陵地帯となり、その向こうに戦場とすべき海がある。そこまでなんとかたどり着けばどうにでもなるだろう。グランデル王国に結集している正義軍なるものを打ち破り、人間が、つまり餌が溢れているグランデルの城下町に乗り込む。そうなれば、あとはこの世のものとは思えない陰惨で壮絶な光景が広がるだろう。
略奪、殺人、放火、強姦――地上にあるすべての罪を集結させたような地獄の光景である。
ベロニカは、それを想像してもなんとも思わなかった。それよりも重要なのは、叶の期待に答え、正義軍を打ち破ることだ。
正義軍には叶の弟、大湊大輔もいる。
ベロニカは大輔に一度敗れている。その雪辱を晴らすというわけではないが、もう二度と負けないと決心していた。
ベロニカが嫌がらせのような奇襲や不意打ちに構わないのは、大輔のことが常に脳裏にあるせいでもあった。あの男ならどこから仕掛けてきてもおかしくはない。隙を見せれば、やられるのだ。だからわずかな犠牲しか出ない嫌がらせのような奇襲は無視し、先を急いでいる。
敵の総大将はグランデル王国の王、クロノスだが、それは頭だけで、実際の敵は大湊大輔だろう。
ベロニカは馬に揺られたままちらと頭上を見上げた。叶は、そこにはいない。上空のどこかにはいるだろうが、見える範囲にあるのは切り立った崖と空だけだった。
大輔は叶の弟だ。ベロニカよりも叶と長い付き合いなのだろう。その分、大輔のほうが叶を理解しているとは思わなかった。
ベロニカにとって叶は、全知全能の神にも等しい。ベロニカは叶の奇跡に触れることによって蘇ったのだ。叶に出会う前のベロニカは、死んでいるも同然だった。
不意に右手の景色が開ける。崖がなくなり、わずかに傾斜した山となって、その奥にはちいさな川も見えた。
川の流れは澄んでいる。革命軍の兵士たちは運んだ岩をその川へ落とし、谷は再び通れるようになった。ベロニカはすこし脇へ避け、兵士たちが通り抜けていくのを眺める。
革命軍の兵士のうち、ほとんどは歩兵だ。鎧も着ていない、ただ武器を帯びただけの人間である。それがぞろぞろと列を作って進む。ところどころに騎兵がいるが、それはあまり多くない。馬の餌が不足して、このところ騎兵の数は減る一方だった。
そもそも革命軍は荷物という荷物を持っていない。必要なものはすべて略奪しながら進んでいるから、いま敵が行っているように予め町を無人にしたり、めぼしいものを自ら破壊して立ち去られると全体への打撃が大きくなる。空腹は不満になるし、不満は火種になる。もともと自制心と決別したような革命軍の兵士たちなのだ、一握りの食料をめぐって殺し合いも起きる。
そうでなくても空腹で神経が張り詰め、些細なことからの諍いは至るところで起きているし、むしろ奇襲よりも多くの兵士が仲間同士の殺し合いで失われていた。
しかし所詮、人間の兵士など駒にすぎない。ベロニカは日焼けした兵士たちの顔を眺めながら思う。重要なのは魔法使いだ。魔法使いをどう動かすか、というところにすべてがかかっている。
人間の兵士は魔法使いを守るための盾にすぎない。おそらく大輔も同じように考え、魔法使いを中心とした陣形を作るつもりだろう。魔法使いが一組いれば、人間の兵士百人以上を相手にできる。どこで、どんなふうに魔法使いを使用するかによって戦況は大きく変わっていく。
言うなれば、人間の兵士など全滅してしまっても構わないのだ。ただ魔法使いさえ生きていれば。三十万の兵士がすべて死に絶えても、最後に叶さえ立っていれば、それでいい。ベロニカは本心からそう思う。
革命軍にいる魔法使いはそれほど多くない。あるいは、相手の軍にいる魔法使いのほうが多いかもしれない。しかし革命軍には大湊叶がいる。唯一無二の、絶対神が。
叶さえいれば、戦いに負けるということは絶対にない。
叶ならひとりで何十万の兵士を相手にできるし、相手の魔法使いが何百人がかりだろうと叶の足元にも及ばない。
しかしそれは奥の手だ。叶は、自分で戦うのではなく、革命軍として勝利することを望んでいる。ベロニカが革命軍をうまく操り、その勝利にたどり着くことを望んでいるのだから、ベロニカは全力でそれに従うのみだった。
細い谷間を革命軍が蛇のように張っていく。
みな、戦いたくて身体を震わせているようだった。
人殺しは癖になる。自らの欲望に従うことは、必ず肉体そのものの癖として残る。叶はそのために兵士たちに好き放題やらせていたのだ。
相手を殺すこと、欲望を満たすことしか考えていない兵士たちは、死の間際にあっても決して身を引くことはない。だれに洗脳されたわけでもなく、自分の欲望に突き動かされて前へ前へと進んでいく。そこが死を恐怖する相手の兵士たちとの差だ。
この戦いに勝つのは革命軍である。
ベロニカはそれを改めて確信し、再び列に戻って、戦場を目指した。
*
同じころ、グランデル王国指揮下の正義軍もまた、戦場へ向かって行軍をはじめていた。
様々な町に散らばっていた兵士たちが野原で合流し、一塊になって北の海辺を目指す。
「――しかし、この戦い、どうなるんだろうな」
兵士のひとりが槍を片手に歩きながら呟いた。
「もしこの戦いに負けたら、おれたちはどうなるんだ?」
「そりゃあ、死ぬだろうよ」
別の兵士がからかうように答える。
「それか、死んだほうがマシって苦痛を味わうだけさ」
「それじゃあ、町はどうなる? グランデルは」
「革命軍に占領されるだろうな。ほかの町と同じなら、建物はすべて破壊されるし、ものはすべて奪われる。ひとびとは皆殺しだ」
「……そうなったら、この世界はどうなっちまうんだ? もう革命軍に対抗できる存在はなくなるわけだろ。だったら、革命軍はいったいどうするんだよ」
「たしかに、そいつは疑問だな」
「革命軍は、もうこの世界中を食い尽くした。で、なにもなくなった世界で、あいつらはなにをするっていうんだ」
「さあ……仲間同士で殺し合うのかな」
「そうやって最後のひとりを決めるってことか。たしかに、そうするしかない気はするけどな。最後のひとりはかわいそうだぜ。なんにもない世界で、ひとりきりになるんだから。話し相手もいないし、酒を呑む相手もない。いっしょに寝る相手も。それじゃあ、生きてる意味なんかなにひとつない」
「勝つしかないってことさ。自分たちのためにも、敵のためにもな」
数十万の兵士が一斉に行進すれば、その衝撃で土埃が立つ。
空は晴れているのに、視界はごくわずかしかなかった。そのなかに時折騎兵の足音が響き、去っていく。兵士たちの表情はどこか気が抜けたようになっていて、顔だけを見ればこれが生死を左右する戦場へ向かう軍隊なのだとはわからないほどだった。
兵士のだれもが死を感じている。
かつてないほど身近に、しかしまだまだ遠くにその影を見ている。
戦争に負けたら死んでしまう、勝ったとしても戦死者のリストに入ってしまうかもしれない、とだれもがわかってはいたが、実際に自分が死ぬ様子を、その状況を想像できる兵士はひとりもいなかった。
このところ、国同士の戦争は起こっていなかった。若い兵士のほとんどは今日がはじめての実戦である。
一部、老練な指揮官たちは戦争とはなんたるものかを理解していたが、彼らとしても死がすぐ身近にあるのだとは考えていなかった。
死とはそもそもそういうものだ。
ずっと遠くにあるように見えて、瞬きをしている間に目の前まで近づいている。そのときには、もう遅いのだ。覚悟を決めるひまもなく、死はその人間を喰らい尽くす。
そうした兵士たちの列のなかには、武装していない魔法使いの集団も含まれている。
魔法使いの集団とはすなわち地球人の集団であり、出身国も人種もばらばらだった。とくに多いのは欧米からの人間だが、アフリカ、中東、アジアの人間もいて、地球上ではまったく接点もない彼らも、この新世界では地球人という大きなくくりに入れられた仲間だった。
燿、紫、泉の三人も、そのなかにいる。燿の両親、賢治と紗友里もいっしょに歩いていた。大輔は、指揮に関する打ち合わせがあってまだ城に残っている。
「うー、なんか、どきどきするね」
燿はとことこと歩きながら、となりを歩いていた紫の手をきゅっと握った。紫はそれを握り返す。
「いままでも何回かこういうことはあったけど、なんかこうやってどきどきするのははじめてかも……」
「まあ、いままでは不意打ちが多かったからね。その瞬間に戦う以外にどうしようもないこととか。今回は、そういうわけじゃないし」
紫は、三人のなかでいちばん大輔に近い視点を持っていた。状況を客観的に眺め、その上でひとの気持ちを理解しようと努力できる。
結局、危機が目の前に迫ったときは、無我夢中でそれに対応するしかない。不安や恐怖というものは常に未知の対象に抱く感情であり、それが目の前にある以上不安や恐怖はなくなるが、いまはまだ状況がよく見えておらず、対応すべき危機もすこし先にある状態だった。
紫にも燿の不安はよく理解できる。紫自身、この戦いはどうなるのだろうと心配だった。
これは戦争だ。戦争では、ひとが死ぬ。親しい人間だとか、いいやつだとか、悪いやつだとか、そんなこととは無関係に、まったくランダムに思えるようなやり方で犠牲者が選ばれてしまう。それは自分かもしれないし、となりにいるだれかかもしれない。
その状況に不安を抱くというより、そうやって失われてしまったあとのことが不安なのだ。
大切なものを失って、その先どう生きていくのか。戦いのあと、自分たちはどうなるのか。
「まあ、大丈夫よ、たぶん」
紫は静かに言った。
「先生が一枚噛んでるんだし、それに従っておけば基本的には問題ない――はずよ」
「うん――そうだよね。先生がいるんだもん、大丈夫だよね」
「泉も、大丈夫?」
泉はすこし青白い顔をしていたが、こくりとうなずく。
「わたしも先生のこと、信じてるから。きっと大丈夫だと思う」
「そうそう、こういう問題は上のほうに責任を押しつけたほうがいいのよ。負ければ上のせい、勝てばわたしたちのおかげって」
「えー、そんな感じでいいの?」
「いいのいいの。先生っていうのは基本的に生徒の尻拭いをするためにいるわけだし」
大輔が聞いたら怒り出しそうなことを言って、紫はけらけらと笑う。
兵は、途中ちいさな町の跡で――住民がすべて避難し、だれも住んでいないのだから、跡というほうが正しいだろう――休息し、その日のうちに戦場予定地へたどり着いた。
グランデル王国の兵士が中心となり、傭兵、他国から逃れてきた兵士たち、魔法使いで構成された正義軍は、戦場の西側に陣を取る。
左手には海があった。
地面は比較的平らで、潮風にも負けず植物が茂っている。
この地面に、この植物たちに、血の雨が降り注ぐ。それは天からではなく、人間の身体から、人間の攻撃によってそうなるのだ。




