アルカディア 11
11
一日はあっという間に過ぎていく。
ほとんど眠らずに朝を迎え、新たに飛び込んでくる情報を分析し、処理し、作戦のなかに組み込んで指示をしていれば、もうすぐに夜になる。それでも情報はいくつも飛び込んできて、臣下たちの勧めに従ってようやく眠りに就いても、目覚めるまでは二時間ほどしかなかった。
そのわずかな休息時間、心からまったく安堵して休めるかといえば、そういうわけにはいかない。とくにクロノスは、それほど心の切り替えがうまい人間ではなかった。だからこそのらりくらりと自分と周囲を煙に巻きながら生きているのであり、本当は、自分ほど臆病な人間はいないだろうと思うほどなのだ。
クロノスはふかふかと温かいベッドに寝そべったまま、目を開けている。
見えるのは天井だ。さほど高くはない。クロノスの好みに合わせて装飾の類もいっさいない。ただ真っ白な、絵でも描きたくなるような天井。
クロノスはその天井に、未来を思い浮かべていた。
開戦まで、もうあまり時間がない。一ヶ月あったものが半分になり、開戦は十五日先となって、まだ具体的な作戦も決まっていない状況だった。
すべての部隊を開戦当日に整列させるためには、開戦より数日前には行動をはじめ、戦場に配備しておかなければならない。そのためにはもちろん行動をはじめるより前に作戦を通達しなければならず、作戦を通達するためにはその数日前から作戦の詳細を決めておかねばならない。そうして逆算していけば、残されている時間はほとんどなかった。
どう戦うか。
それを「どうひとを殺すか」に変換してはならないとクロノスは感じる。
ひとを殺すことと戦うことはまったく別物だ。ひとを殺すというのは、殺すことに意味があるときに使う。戦争は、そうではない。相手を殺すことが重要なのではなく、相手を退ければいい。
しかし現実問題として死者は出るだろう。敵にも、味方にも。戦争に勝つということは、味方の戦死者よりも多く敵の兵士を殺さなければならないということでもある。
そしてそれらのことはすべて、クロノスの命令によって起こるのだ。
いちばん上に立つ人間の義務といえばそれまでではある。安全なところから味方に指示を出す。そしてその責任を取る。王として当たり前のことだ。その当たり前のことに、押しつぶされそうになる。
ひとの命は重たい。たったひとつでも、とても抱えきれそうにない。それなのに、それが籠いっぱいになったとき、不思議と重量はひとつ分よりもすくなくなる。その誤差にクロノスは悩まされているのだ。
夜は更けていく。
朝ともいえない時間にクロノスは起き出し、また王としての仕事をはじめる。
それでも時間は確実に過ぎ去り、戦争のことは市民にも伝えられ、町はにわかに「戦時」に突入していた。
*
丘陵地帯を、いくつもの馬車が行き来している。
馬車の数は街道が交わるごとに増えていって、グランデルの城下町の前にたどり着いたころには大荷物の荷馬車の行列が出てきていた。
彼らはみな、近隣の町から城下町へ避難してきた人間である。通達では、荷物はほとんど持たず、身の回りのものだけを持って避難してくるように、としてあったが、まさか革命軍の前に命と同等に大切な財産を投げ出して逃げられるわけもない。ほとんど人間は家財道具一式を荷馬車に積み込み、城下町を目指している。
そうした避難民は、革命軍が通るとされる場所にある町からきた人間ばかりではなかった。戦争が近づくに従い、戦場になる海辺の近くにある町にも避難指示が出ていて、彼らもやはり同じように家財道具を詰め込めるだけ詰め込んで城下町へ殺到しているのだ。
当然、城下町はその許容範囲をあっという間に越えてしまう。それでも避難民は押し寄せる。整然としていたグランデルの城下町は、にわかにひとの波に飲み込まれてしまう。
避難民は兵士によって町の中央へ導かれていた。避難民を受け入れるため、城を開けてあるのだ。
それはクロノスの指示によるものだったが、なかには警備上の反論もあり、最終的にはクロノスが王の権限を使って城の開放を決めた。同時に、周囲の裕福な商人や貴族たちの家を強制的に借り上げ、そこに避難民を住まわせるという計画もはじまっていた。
まさか、ただでさえ最低限の範囲で生活している一般市民の家に避難民を住まわせるわけにはいかない。その点裕福な人間たちは必要以上に広い生活空間を持っていたから、そうした空白にひとを詰め込むことでなんとかすべての避難民を収容しようとしたのである。
しかし避難民の数は数十万に及んでいた。城のすべての部屋を開放し、空間という空間にひとを入れても、まだあふれ返る。ではどうするかといえば、広い街道のあちこちにテントを張り、そのなかで生活させるしかなかった。
避難民たちもテント生活がしたくて避難しているわけではないし、もともと城下町に暮らしている人間からすればまるでまったく別の町になってしまったようでおもしろくない。当然、諍いも起きる。そこへ続々と避難民が押し寄せてくる。
城からその様子を眺めていた使用人や女中たちは、思わずこんな会話を交わしていた。
「まるでこの世の終わりがきたようだ」
「ひとびとがあふれ返って、争いが起こって――すべて戦争が悪いのかしら」
「あるいは、革命軍が悪いのさ」
そのような無責任な会話を尻目に、一部の兵士や軍人、政治家たちは寝る間も惜しんで様々な情報と戦っていた。
クロノスは、とにかく貪欲に情報を集めた。兵士からも市民からも情報を集め、その結果として相反する情報が多く上がったり、方々からそれぞれに無関係な情報がまとまって出てきたりして、それを整理するだけでもひと苦労である。
しかし情報が必要だということは大輔とも一致した見解であり、兵士たちは情報を集め、政治家がそれを整理する、という役割分担を行い、一日に一度、双方が集まって全体像を確認するというのがここ十日ほどのお決まりだった。
その一日に一度の会議が迫っている。大輔は早足で城のなかを歩いていた。
最初はどちらかというと人気がなく、神聖な雰囲気だった城のなかは、いまではどこよりも混雑している。廊下という廊下に避難民がうろついているし、部屋という部屋に避難民が溢れているのだ。大輔はそれらをかき分け、自分たちに与えられている部屋の扉を開けた。
そこは本来ふたり用の客間だが、いまは大輔、燿、紫、泉の四人で使用している。大輔以外の三人は部屋のなかにいて、ベッドに腰を下ろし、なにやら退屈そうに会話しているようだった。
「あ、せんせー、お疲れちゃーん」
「はいはい、お疲れちゃん。またすぐに会議へ行かなきゃいけないんだ。えっと、このへんに白い紙がなかったか?」
「この落書きのこと?」
「落書きじゃない、作戦図だ」
「ほらー、やっぱり熊じゃなかったよ。熊だったらこんなところに角ないもん」
「だったらなに、一角獣?」
「だから作戦図だっての」
「せんせー、魔術陣はあんなに上手に描けるのに、絵心ないよね」
「う、うるさいなあ、わざとだよ。わざと汚く描いたんだ。ほら、あの、スパイとかが見たら大変だろ」
「どこにスパイが?」
「可能性だ。先生は天才だから、常にあらゆる可能性を考えているのだ」
「先生、それにしても、お城のなかも外もめちゃくちゃですね」
ベッドの端に座っている紫がぽつりと言う。
「こんな調子で戦争なんてできるんですか? 戦争より先にこの城下町でなにか起こりそうですよ」
「まあ、仕方ないさ。戦争に一般人を巻き込むわけにはいかない。それに、全員が全員避難してるわけじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「どうしても避難したくないってひともいるからね。自分の家を離れたくないってひとが。そういうひとたちまで無理やりに引っ張ってくることはできない」
「でも……町は、危険なんですよね?」
泉が心配そうに眉をひそめた。
「革命軍がやってきたら、めちゃくちゃにされちゃうかも」
「それも兵士が説明したけど、それでも家にいたいってひとはいるんだよ――まあ、言い方は悪いけど、自分の死に場所は自分で決めたいってひとたちだ。ぼくたちはそれを尊重するしかない」
本当にそうだろうか、と大輔は自問する。避難民の増加は目下いちばんの難問で、ひとりでも避難民が減るなら、と感じたことも事実ではある。
命を守るというなら、自分の家に残るという人間を無理やり避難させたほうがいいに決まっている。しかしそれはある意味で命の価値を踏みにじることでもある。それぞれの命は、それぞれが所有している。所有者以外が命のやりとりをすることは、ひとを殺すという罪の本質と同義だ。
「まあとにかく、これだけ大きな戦いになればなにもかも完璧にやり遂げるってわけにはいかないよ」
大輔は白い紙を折りたたみ、ポケットに入れた。
「妥協に妥協を重ねて、最後の最後に勝利を掴み取る。ぼくたちはその綱渡りを成功させるしかない――おまえたちはこの部屋にいなさい。七五三さんは会議に出るから、まあ、七五三のおばさんのほうへ行っててもいいけど。いま町は混乱してるから、外には出ないほうがいい」
「せんせー、あたしたちも作戦会議に出たーい!」
「会議に?」
「さっき、三人で話してたんです。だって、わたしたちも魔法部隊の一員として戦うことになるんでしょう? だったら、わたしたちにも参加する権利はあると思うんですけど」
「ううむ、まあ、それはそうだけど――」
戦争の行方以外に大輔が気になっているのは、まさにそこだ。
燿、紫、泉の三人を戦争に参加させるかどうか。
いま、正義軍の戦力は革命軍よりも劣っている。そのため、ひとりでも多く仲間を探そうとあちこちの町や組織に伝達しているほどだ。とくに魔法使いは、全体でも二百名余りしかいない。
たった三人でも貴重な戦力にはちがいない。だからといって、というのが大輔の本音だったが、それは個人的な心情に過ぎず、全体のことを思うなら三人にも参加してもらうほかなかった。
「――じゃあ、いっしょに行くか。言うまでもないけど、会議で見聞きしたことは絶対だれにも洩らすなよ。会議に出てない人間には、って意味だぞ。とくに七五三、母親にも話しちゃだめだってことはわかってるな」
「ん、わかった」
「よし、それじゃあ急げ。もう会議ははじまってる」
大輔といっしょに三人も部屋を出る。避難民のあいだをすり抜け、さすがに人気がない王の間の近くに出て、閉じられた扉を開けた。
会議というには、あまり厳粛な雰囲気ではない。机の椅子はすべて埋まっていて、ちらほらと立ったまま話を聞いている人間もいる。ただ、そこはかとない緊張があって、燿たち三人は自分たちに集中した視線から逃れるようにそそくさと隅のほうへ移動した。反対に大輔は前へ出て、いちばん奥のクロノスからほど近い場所に立つ。
「――それで、現状ではこのような形で陣を張るのが最適かと思われます」
陣形が書き込まれた地図を指さしているのはスピロスである。
「東側に革命軍が陣を張り、われわれは西側に陣を張りますが、敵がどのような陣形を作るかはまだわかりません。向こうは数の利がある。おそらく力押しでくるでしょう。となれば、中央を何重かに厚くした陣形が考えられ、革命軍から見て戦術的に有効と思われる陣形はこの五つほどです。どれも中央突破、そしてわが軍を分断し個別に撃破という流れの戦闘を予期した陣となるでしょう――ここまででなにかご意見は?」
「陣形は理解できた」
クロノスはちいさくうなずく。
「向こうの魔法部隊はどのあたりに位置すると考えられる?」
「現段階では推測の域を出ませんが、おそらく後方、このあたりと思われます」
地図に新たな赤いインクが加わる。
「魔法部隊はその性質上、初動が遅く、また近接戦闘には非常に脆弱です。そのことから魔法部隊は最後方に位置し、複数の部隊がこれを守るように動くことが考えられます」
「後ろから奇襲をかけ、魔法部隊だけを攻撃することは不可能か?」
軍人のひとりが言った。スピロスはちらりと大輔を見る。大輔はうなずき、地図の前に立つ。
「最後方に魔法部隊を配置する利点は、さっきスピロス爺が言ったように魔法部隊をほかの部隊で警護するというところだ。魔法部隊は、とにかく突撃に弱い。でも最後方に配置するってことは、さっき指摘があったとおり後方からの奇襲に弱点を作る。それは向こうもわかっているだろう。そのためになにか対策を取っていると思う」
「魔法部隊をもうすこし前へ移動させるか?」
「いや、それよりもたぶん、魔法部隊をすでに魔法で保護するだろう。予めそうしておけば、あとはゆっくりと状況に対応した魔法を繰り出せる」
「ふむ、なるほど。隙はなし、か」
「どんなことにでも隙はあるよ」
大輔はにやりと笑う。
「魔法部隊全体を覆うほどの魔法となれば、それがどんな魔法なのか具体的にはわからないけど、それなりの魔力を使うしそれなりに人員を割く。つまり攻撃やそのほかの防御に回せる人数と魔力がすくなくなるってことだ。それはぼくたちにとって朗報だ」
「しかし、同じことが自分たちの陣営にも言えるわけだろう」
クロノスが腕を組む。
「向こうが奇襲を警戒してそうせざるを得ないように、おれたちもまた奇襲を警戒するしかない。向こうと同じだよ。実際に奇襲してくるはずはないが、その対策をしないわけにはいかない。結局、こっちも同じだけの人員と魔力を割かなくちゃいけなくなるんだろ」
「そこだけど、これを見てくれ」
大輔はポケットに入れていた白い紙を取り出し、地図の上に貼りつけた。クロノスはじっと見つめ、首をかしげる。
「熊か?」
「ちげえよっ」
一瞬、笑い声が広がる。
「ぼくが昨日考えた陣形だ」
「ふむ――」
「まず、向こうが正面突破を試みるだろうってのはぼくも同意見だから、基本的にはそれに供えて中央を暑くした陣形を取る。それから、この突出した部分が魔法部隊の位置だ」
場がどよめいた。不思議そうに顔を見合わせている人間もいる。そのなかにニコロスの姿もあった。ニコロスはじっと大輔の貼り出した紙を見たまま、瞬きもしない。
「そんなところに配置するのか――すこし外れすぎているぞ。その位置を狙われたら、ほかの部隊の援護が間に合わない。まったく、敵に狙ってくれと言っているようなものだ」
「場所だけを見るとそうだけど、そのことはすこし考えてある。まあ、それはあとで説明するとして、この位置に魔法部隊を配置しておけば、すくなくとも奇襲を考える必要はない。こっちはすべての人員と魔力を敵の攻撃にあてられる。そのときの火力は、うまくいけば向こうの魔法部隊を越えられるだろう」
「ふむ――で、兵士の戦力はどうだ」
「周辺のひとびとに呼びかけをして、現在でおよそ二十六万人を集めています。しかし革命軍の三十万には及ばぬかと」
「それだけの差で済んだのが幸運だ」
「大輔殿の陣形を用いるなら、しかし数の利がない以上、結局は中央部で押しつぶされてしまう可能性が高いでしょう。ほかの陣形のほうがよいのではありませんか。たとえば、左右に長く展開し、敵を包むように囲めば」
「しかしそれでは中央突破の勢いに負けてしまうのではないか。兵を左右に展開するなら、それまでごく少数の兵士で中央突破してくる革命軍を持ちこたえなければならない。それが可能かどうか」
「魔法部隊の援護があれば」
「魔法部隊はおそらく敵の魔法部隊を無力化することで手一杯になるでしょう。過剰な援護は期待しないほうがいい」
「ではやはり、正面を厚く取り、正面から敵にぶつかるか」
「それよりも兵の内訳が重要だ」
ある軍人が言った。ほかの軍人が応えるように立ち上がる。
「騎兵、弓兵、ともに約三万。火器兵が千あまり。残りは歩兵、二十万ほどです」
「弓兵がすくなすぎるぞ。騎兵にもっと割けぬか。騎兵を左右の展開に使えば、さらに迅速な作戦行動が可能だ」
「しかし馬の数は無限ではありません。弓も、いま不眠不休で作らせてはいますが、かろうじて間に合う数を含めて三万ほどです」
「敵の内訳は」
「不明です。しかし火器の入手や手入れは困難と考えられますので、歩兵が主になることは間違いないと思われますが」
「とにかく、もう時間がない」
クロノスが立ち上がった。
「戦場まで移動し、部隊を展開する時間を考えれば、ここ数日が勝負だ。どのような作戦でいくにしても出遅れては元も子もない。ここはひとつ、いくつか有力な意見を出し合って、投票でもしようじゃないか。それぞれしがらみもなにもなく考えるんだ。どの作戦がいちばん高い勝率か」
その場にいた全員がうなずく。理想的な作戦はいまだ見いだせていないが、行動を決めなければならない時間になったのだ。
大輔は地図の前に立ったまま、さらに詳しく自分の案を説明した。ほかにも発案者がいて、それぞれが発表を終え、議論したあと、どの作戦を選ぶかの投票になる。
しかしその投票は、所詮目安でしかなかった。最後に決めるのは王のクロノスである。クロノスはそれぞれ票を獲得しているのを眺めながら、じっと押し黙っていた。
投票がすべて終わる。
クロノスは黙ったまま、その結果を受け止めて、ひとつの案を指し示した。
そしてすべてが作戦行動を取りはじめる。




