アルカディア 8
8
宿からすこし離れたところにある料理屋で、燿、紫、泉、そして大輔の四人はグランデル名物の魚介類のソテーを頬張っていた。
テーブルには全長一メートルはありそうな巨大な魚の丸焼きがどんと置かれ、個々の前にはそれぞれソテーがあったが、巨大魚の塩焼きもなかなかの味らしく、その腹や背のあたりがすでにごっそりとなくなっている。
「それじゃあ、戦いは一ヶ月後ってことで決まりなんですか?」
紫はさらに背中のほうの身を取りながら言った。大輔は酒をぐいとやりながらうなずいて、
「たぶんそういうことになるだろう。向こうがそう言ってきた以上、こっちとしてはそれに従うしかない」
「でも、向こうの位置とかやってくる時期はわかってるんでしょう? だったら、その後ろ側に回って奇襲するとか」
「向こうはそのためにわざわざ乗り込んできたんだろう。はじめから想定してるさ。奇襲の可能性をほのめかすことで、こっちの奇襲は予想済みだと言ってるわけだ。相変わらず性格の悪いやつめ――ううむ、うまいな、これ。さすが魚介が名物なだけはある。肉がないのは寂しいけど、これだけうまいなら魚だけでも充分いける」
「の、のんきですね、先生」
泉がなんとなく食欲を失ったような顔で呟く。
「わたし、なんだかいまから緊張しちゃって」
「気持ちはわかるけどな。でもまあ、気楽なほうがいい。また一ヶ月も先なんだから、いまから緊張してたら本番まで保たないぞ。その緊張は本番に取っておいて、いまはしっかり食って栄養を補給することだ。七五三を見習ってな」
「そうそう、あたしを見習って! 隙ありっ」
「あっ、おまえ、ぼくの皿から取ったろ!」
「ぐふふ、にゃんにょことかにゃあ」
「もぐもぐしてるじゃん! くそう、取り返してやる」
「先生、セクハラです」
「いま!?」
「う、ううん、なんか緊張してるのがばかみたいに思えてきた……」
三人の様子は相変わらずである。
まるで戦いなどなにもないように明るく振る舞えるのが、なにかと暗い方向へ考えがちな泉には信じられなかった。
なにしろ、戦争なのだ。一ヶ月、ほんの一ヶ月後に、戦争が起こる。その戦争ではきっと大勢の人間が犠牲になり、仲間も全員無事というわけにはいかないだろう。この四人のだれか、あるいは燿の両親を含めた六人のだれかが怪我をしてしまったり、もしかすれば死んでしまうことだってあるかもしれない。
死ぬということは、二度と会えなくなるということだ。どんな方法を使っても、二度と話したり顔を見たりできなくなるということ。そんな悲しい思いはしたくない、と思うと、泉はいまから妙に気分が塞いで、ほかの三人のようには振る舞えないのだった。
しかしいつもどおりの三人を見ていると、ひとりで深刻ぶっているのがおかしく思えてくる。
そもそも、不安になったからといってなにが変わるわけでもないのだ。本当に仲間を失いたくないなら、一ヶ月後のその日、がんばらなければ。
「でも、この戦争が終わったら全部終わりっていうわけじゃないんですよね」
不意に紫がぽつりと言った。
「革命軍との戦いは終わるかもしれませんけど、わたしたちの目的ってそこじゃないし。地球へ帰ることが目的なら、革命軍との戦いが全部終わってもまだ新世界を旅しなきゃいけないってことですよね」
「ま、そういうことだな。でも旅は楽になるだろう。革命軍の邪魔が入らなくなるわけだし」
「まあ、そうですね――でもここにいるほかの魔法使いのひとたちも地球に帰る方法を探してるんですよね? それだけの人数で探しても見つからないってことは、そんな方法はないのかも」
「いやいや、甘いぜ、神小路。なにしろこの大天才大湊大輔が探してるんだ。これはもう見つかる以外の未来はないね。いままで隠れてた秘密の方法もいまごろぼくに怯えてぶるぶる震えてるだろう。つまりなにが言いたいかというとぼくは超ウルトラ級の天才であり、ぼくの辞書に不可能はな――」
「こっちの貝もおいしいね。泉、食べた?」
「うん、食べた。ねえ、これなにかな?」
「貝柱じゃない? 燿食べてみてよ」
「え、あたし実験台? まあ食べるけど――ん、うまい!」
「……いいんだ、ぼくには酒があるもん。酒飲んだら愉快になれるんだ」
大輔はぎゅっと目を閉じて酒を呷った。
そのときである。
料理屋の扉が勢いよく開き、その音に客の全員が入り口を振り返った。
大輔たちも食事の手を止めていた。
「わっ、美形」
と燿が呟く。
実際、扉を開けて入ってきたのは、眉目秀麗な男だった。
肌はまるで女のように青白く、どこか病的な雰囲気があって、落ち着きがなさそうな瞳を店内に投げかけている。その薄い色をした唇がなにかを呟いているようだった。
そしてふと、全身から力が抜け落ちたように倒れる。店内はわっと騒ぎになって、男はすぐに助け起こされ、ひとまず椅子の上に寝かされた。店主が水を口元に持っていくと、男は正気を取り戻して一口飲み干し、ふうと長い息をつく。
「どうしたんだ、おまえさん。なにかの病気か?」
「いや、ちがう――ひとを探していたんだ。すこし夢中になりすぎたらしい。ありがとう、もう大丈夫だ」
椅子の上に起き上がって、男は自分の頭を支えるようにこめかみに指を当てた。それから何度か頭を振り、熱っぽさがある瞳をゆっくりと店内へ向ける。
大輔たちは椅子から立ち上がらないまま、男の様子を見ていた。大輔にも見覚えがない男である。男も大輔たちを見たが、視線は止めず、そのままぐるりと店内を見回して失望したようなため息をつく。
「やはり、ここにもいないか――」
「だれを探してるんだい? この町のだれかなら、知っているかもしれないが」
「いや、町のひとじゃないんだ。どうしてももう一度会いたかったんだが、これだけ探しても見つからないなら仕方ない――ありがとう、世話になった」
男はふらりと立ち上がり、おぼつかない足取りで店を出ていった。店主は首をかしげながら椅子を片付け、ほかの客たちも食事へと戻っていく。そのなかで、大輔たちの席にこんな声が聞こえてきた。
「あれ、スピロスさんのところの息子だろう――こんな外れの店まできて、いったいだれを探していたんだろうな」
*
それはおそらく一種の革命だった。
あるいは変革といってもいい。
ニコロスというひとりの男のなかのなにかが、その瞬間にまったく別のものへと姿を変えてしまったのだ。それでいて、なにかに変質したという気持ちはなく、むしろ五感にかかっていたフィルターが外れたような気分だった。
いままで見えなかったものがはっきりと見える。感じられなかったものがはっきりと感じられる。あらゆる感覚が鋭敏になり、いままで漠然とその輪郭を見ることしかできなかった真理を、ひとつひとつ感じることができる。その過敏といえるほどの五感に、ニコロスはしばらくその場から動くことができないくらいだった。
ニコロスは、いままでの自分は眠っていたのだと気づく。
生まれてからその瞬間まで、まどろみのなかにいたのだ。
そしていま、目を覚ました。ひとつの存在として目覚め、世界の真理を知るようになった。
「――ああ、そうか」
ニコロスは今日までの自分を恥じる。いまならどんな詩でも真の意味で理解することができるだろう。ただそこに寄り添うのではなく、その言葉を自分のものとすることができるだろう。
つまり、それは恋なのだ。
言語のうちにしか存在し得ない愛ではなく、恋なのである。
ニコロスの目には、いまでも赤いワンピースの裾がひらめいている。その揺らめきが世界のすべてを暗示している。空はなぜ青いのか、星はなぜ瞬くのか、それらはすべて恋のためなのだといまは言語を超えた肉体の感覚として理解できる。
スピロスが女を連れて城へ入っていったあとも、ニコロスは女と出会ったその場所から微動だにしなかった。できなかった、というほうが正確だろう。やがて正気を取り戻したようにニコロスはあたりを見回し、あの女を見失ってはならない、と確信する。
しかしニコロスが城のなかへ入ったとき、女はすでに姿を消していた。王の間の外にいた女中や兵士からその話を聞くと、ニコロスはすぐ城を飛び出し、町のあちこちを彷徨いはじめた。
傍から見れば熱病のために正気をなくして彷徨っているように見えただろう。しかしニコロスの意識は過去にないほど冴えていたし、幻のように感じるものなどなにひとつなく、実在するもの、実在しないものの境界線がくっきりと見えていた。
グランデルの城下町は入り組んだ作りになっている。
とくに城の周辺にはいくつも細い通りがあり、それらはすべて非直線的な角でつながっている。その角という角にニコロスは赤い幻影を見た。それが幻影だと見抜いていながら、ニコロスはその姿を追って角を曲がってはなにもないことに失望し、ため息をついて、またその先の角に赤い裾を見つける。
そうして町を彷徨っているうち、ニコロスは本当に自分はなにかの病に侵されたのではないかと疑いはじめた。それほど動悸が激しく、呼吸がむずかしい。水中か、空気の薄い場所で走り回っているようなものだった。
ニコロスはいくつかの宿や料理屋を覗き、赤い服の女がいないかと尋ねた。答えはどれも決まっている。そんな女は見ていない、だ。ニコロスは礼もそこそこに宿を出て、また別の、女が立ち寄りそうな場所を目指す。
気づけばニコロスは町のほとんど外れまでやってきていた。目の前にあるのは料理屋で、魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。ニコロスは扉を押し開け、なかに入って店内を見回し、赤い服を発見できなかったことに落胆して、そのまま意識を失った。
意識を失ったのはほんの一瞬である。
その一瞬に、ニコロスは理想郷を見た。
詩という限られた言語にしか存在しないはずの楽園である。そこには草花が茂り、争いはなく、切なさと郷愁が風のように吹いている。
いままでそこには自分しかいなかった。自分という観測者が唯一の存在だったが、いまはその理想郷に女がいる。
赤い服を着た女だ。
ことさら美人というわけではない。なにか惹かれるような場所があるわけでもない。その女は、世界のなにかを暗示している。メタファーとしての存在であり、それが女である必要はなく、男でも、動物でもよかったが、ニコロスの前に現れたのは赤い服の女だったのである。
ニコロスは目を覚ました。あたりを見回しても女はおらず、這いずるようにして料理屋を出る。
そこから自分の屋敷へ帰るまで、ひどく長く、遠く感じた。
足は地中からなにかに引っ張られているように重たく、頭もやはり後ろからぐいと引かれ続けているような違和感があって、何度か立ち止まり、呼吸を整えてからでないと進むことはできなかった。
屋敷の近くまでなんとか戻ったところで、キラが出迎えにやってきた。キラはそのちいさな身体でニコロスを支えながら屋敷へと連れ戻し、そのまま二階にあるニコロスの部屋まで運んで、ニコロスの身体をベッドに投げ出す。
「ああ、キラ、ぼくは気づいたんだよ」
「ニコロスさま、ゆっくりお休みください。きっと風邪でもひかれたんですよ。身体が熱いし、顔色も悪い」
「もしぼくが病に侵されているんだとしたら、それはおそらく不治の病だと思うね。ぼくは真実に気づいたんだ、キラ。この感覚をきみに伝えることはできないようだ。ぼくの感覚はぼくにしかわからない。言語にした瞬間、それはなぜだか失われてしまうんだ」
ベッドに横たわったまま、ニコロスは浮かされたように唇を震わせる。
「いつかきみは言っただろう。なぜ詩はあのように回りくどい書き方をするのかと。表現したいものを直接的に表現しないのはなぜなのかと。そのときぼくは、それが詩の品格だからだと答えた。しかしそれは誤りだった。彼らは、ああして書くしかなかったんだ。いまのぼくには理解できる。この感情を、この感覚を表現するには、あのようにまわりから埋めていくしかないんだ。なぜなら、この感情や感覚は本来自分自身にしか理解できないもので、それを表現するには、自分自身が感じているものをすべて列挙する必要があるし、自分自身が考えていることを常に言語として出力し続けなければならない。それはつまり、ぼく自身を書くということだ。ぼく自身は常に変化する。新しいものを見出し続け、なにかを忘却し続ける。その言語的流動こそがぼくという存在だ。言語的流動を固定された言語で表現することは原理的に不可能なんだよ、キラ。だから彼らは、ああやって流動するすき間をなくしてしまうんだ。ある意味では言語で世界を埋め尽くし、ある意味では言語以上のものへ上っていく階段を作る。いいかい、キラ、直接なんてものはないんだよ。直接というのは、なにか特定のものへ到達するためのひとつの手段だ。人間は特定のものではない。ぼくという人間は、常に流動している風のようなものだ。風を掴み取ることは可能だろうか? いや、そんなことはまったくの不可能で、風を捕らえるためには、風がどこからきて、どこへ行き着くのかを知らなければならない。そして風が取りうるすべての形態について記さなければならないし、風が出会うすべてを列挙しなければならない。そんなことは、人間には不可能なんだ」
ニコロスは自分がしゃべっていることすら意識していなかった。そのまま、やがて声がちいさくなり、うなり声のようになって、眠りに落ちる。キラはちいさく首を振り、ニコロスのもとを離れた。
一階へ降りていく。まだ夜が更けているというほどの時間ではない。スピロスは城から戻っていなかったが、キラが一階に下りると同時に玄関が開いて、いつものように早足で家のなかへと入ってきた。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
キラが頭を下げると、スピロスはわずかに嫌悪するような顔をする。キラも自分がその老人に好かれていないことは理解していた。正確には、好かれていないというより避けられているのだ。
スピロスは、キラのような子どもを使用人として使うことに抵抗があるらしい。そのあたりも息子とは正反対だった。ニコロスは、両親を失って行くあてがなかったキラを独断で引き取った。そして使用人として働かせていたが、スピロスは金銭的な援助こそしても仕事をさせるということになにか虐待のようなものを感じるらしかった。
「ニコロスは、どこにいる? あやつ、突然姿を消したのだ」
「ニコロスさまは先ほど戻られました。体調が優れないようで、いまは自室で眠っていらっしゃいます」
「ふむ、そうか。まあ今日は作戦会議どころではなかったが」
「なにかあったのですか?」
「おまえが知るべきことではない。飯は用意してあるか?」
「――はい」
スピロスはキラを見ようともせず、ずんずんと食堂のほうへ進んでいった。
もしあれがニコロスなら、なにがあったか細かく教えてくれただろう。ニコロスはよくも悪くも人間を平等に扱う。子どもだから、使用人だから、という区別はなく、そうした区別をなによりも愚かだと考えているようだった。
キラはすこし唇を尖らせ、再び階段を上った。ニコロスの様子に変化がないか、ベッドの横で見守っていようと思ったのだ。
キラは、そのロマンチストの青年のことが嫌いではなかった。ニコロスがどんなふうに呼ばれていても、キラにとってはいつもやさしい主人でしかなかったのである。




