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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
アルカディア
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アルカディア 6

  6


 燿はぴょんとベッドに飛び乗り、顔を枕に埋めた。


「うー、こっちのほうがいいお部屋だー。あたしたちのところね、もっと狭いよ!」

「広い部屋がいいなら、王さまに言ってみればどうかしら? もしかしたら広い部屋に変えてもらえるかもしれないわよ」


 母の七五三紗友里はベッドの端に腰掛け、足をばたばたと動かしている燿を愛おしそうに見つめた。


 なんといっても、一年ぶりに再会する娘である。愛おしくないわけがない。


 紗友里は、夫の賢治ともどもダブルOの隊員であり、魔法使いである。新世界で仕事をすることがほとんどで、新世界の危険性は充分理解しているし、下手をすれば地球へ帰ることもできずに死んでしまうかもしれない。それがわかっているからこそ、こうして生きて娘と再会できたことはなによりの喜びだった。


 約一年ぶりに会った娘は、すこし大人びたようだった。もっとも、それは親の贔屓目というもので、他人にはわからないくらいの変化だろうが、十六歳が十七歳になるのは、決して短い年月ではない。


 燿の髪もすこし伸びている。背もわずかに伸びただろうか。しかしそこにいるのは自分の娘で、一年間、この新世界で様々な経験を積んでもなにも変わらない娘でいてくれたことに感謝したいくらいだった。


「んー、でも、狭い部屋でいいや」


 枕に顔を埋めたまま、燿はくぐもった声で言った。燿はいま紗友里と賢治が泊まっている宿にきていて、紫と泉は一足先に自分たちの宿へと戻っている。賢治は大輔と酒を飲んでいるから、いまは母と娘のふたりきりだった。


「狭い部屋のほうがみんなと近いし」

「そう――燿、こっちにいらっしゃい」


 紗友里が座っているベッドの横をぽんぽんと叩くと、燿は顔を上げ、そこにちょこんと腰掛ける。


「久しぶりねえ、本当に」


 にこにこと笑っている紗友里に、燿もにっと笑って、


「お母さん、あんまり変わってないね」

「それはこっちの台詞よ。あなたは――でも、すこし大人っぽくなったかしら」

「ほんとほんと? ね、どこらへんが大人っぽい?」

「え、そ、そうねえ……こう、輪郭っていうか、うん、雰囲気っていうのかしら」

「雰囲気が大人っぽい? やったー、あたしもこれで大人の仲間入りだ!」

「それはどうかしら……まあ、とにかく、本当によく無事でいてくれたわ」


 紗友里は、ぎゅっと燿の身体を抱きしめた。燿はくすぐったそうに逃れようとするが、それをしっかり押さえ込む。そうしていなければ、いろいろな感情が入り乱れて涙になってしまいそうだった。


 しかし嬉しいときには笑うべきだ。笑っていれば必ずいいことがあるから、と燿にも教えて育てているだけに、泣いている姿を娘に見られたくはなかった。


「ねえねえ、お母さんたちはずっとここにいたの?」

「ちがうわ。最初はお父さんのお仕事があったから、別の町にいたの。そこで遺跡の調査をしてたのよ。言わなかったかしら?」

「うーん、聞いたような気もするけど、忘れちゃった。だってもうずっと前のことだもん」

「そうね――一年ちょっと、経っているんだものね」

「じゃあお母さんたちも最近この国に?」

「半年くらい前かしら。あなたは、いままでどんなところにいたの?」

「えっとねえ、いろんなところにいたよ――あ、そうそう、ドラゴンさんにも会ったの!」

「へえ、そうなの」

「あとね、なんか四角い箱のなかで喋ってる女の子とも会ったし、動物に変身できるひとたちとも会ったし、洞窟のなかでは小人さんにも会ったし!」

「あらあら……ずいぶんいろんなひとと出会ったのね」

「うん、でもね、結局みんないいひとだった!」

「そう、よかったわ。それじゃあこの一年、楽しかったでしょう」

「めちゃくちゃ楽しかったよ! つらいことなんかひとつもな……くはないけど、でも、ほとんど楽しいことばっかりだったし。それにみんないっしょだったもん」

「そう――」


 紗友里はちいさくうなずく。親として、これ以上にうれしいことはないのだ。


「じゃあ、地球へ帰るまで、もうひとがんばりしなきゃね」

「うん――ねえ、いま向こうはどうなってるのかなあ? お母さん、なにか知らないの?」

「地球側とは連絡もつかないのよ。でも、帰る方法はきっとあるわ」

「先生もそう言ってた」

「大湊先生ね――ちゃんと先生の言うことは聞いてる?」

「う、うん、聞いてるよ? ほんとに、ちゃんと」


 視線の動きがいかにも怪しいのに紗友里は苦笑いを洩らし、


「でも、素敵な先生でよかったわね」

「うん――もし先生がいっしょじゃなかったら、ここまでこられなかったかも。あと、ゆかりんとかいずみんとかがいてくれたから」

「そうね、あとでお母さんからもちゃんとお礼を言っておくわ」

「えー、いいよー、別に。恥ずかしいから」


 燿はぴょんとベッドから立ち上がる。そしてそのまま扉のほうへ近づき、ノブを握りながら紗友里を振り返った。


「あたし、向こうの部屋に戻るね。ふたりとも待ってるし」

「そう――気をつけてね」

「はーい。じゃ、またね、お母さん」


 ぶんぶんと手を振る燿の姿が扉の向こうに消える。紗友里はちいさく息をつき、それからすこし笑った。

 娘の成長が嬉しいやら寂しいやら、とにかく、そういうときは笑うに限る。



  *



 グランデル城とその城下町は、明確に線引がされているというわけではないが、自然発生的に裕福な人間とそうでない人間の住まいが分かれている。


 簡単にいえば、城に近い場所のほうが裕福である。日常的に城へ出入りする貴族や大臣のたぐいは必然的に城に近い住居になるため、自然と商人なども裕福になるにつれてそうした場所に居を構えることとなり、城のすぐ横に住居を構えるのはグランデルの住民にとってひとつのステータスになっていた。


 そのなかでもとくに商人たちはそうしたステータスを気にして、城の近くに住みたがる。スピロスのひとり息子、ニコロスは、そうした商人たちの風習を疎んでいた。


 ニコロスは生まれも育ちも城のすぐ横にある豪邸である。父親が家臣のなかでもとくに重用されているため、商人などに比べて地位は安定していて、一種の貴族的な落ち着きと情熱を持っている青年だった。


「――それにしても、商人たちはなぜああも金を稼ぎたがるのだろう」


 ニコロスは自室の窓から忙しく通りを行き来する商人を見下ろし、ぽつりと呟く。


「金など、なんの意味もないというのに」


 金の本質は、通貨でしかない。つまりそれ自体にはなんの意味もなく、それによって得られるものに意味があるわけだ。


 しかしニコロスから見た商人たちは、その金そのものを崇拝し、金を集めるために一日中ばたばたと走り回っているように思えて仕方なかった。それは金というものの本質を理解せず、ある意味では金に操られている哀れな人間たちだ。生まれてこの方、金に苦労したことがないニコロスには、あくせくと働いてまで金を欲しがる人間の気持ちが理解できなかった。


 金よりも重要なものは、この世界にはいくらでもある。


 たとえば、愛情や友情がそれだ。


 金で愛情や友情は買うことができない。もし買えるとするならば、それは偽物の愛情であり、友情でしかない。金がなくなった途端に失われる愛情や友情などニコロスははじめから求めていなかったし、それが愛情や友情だと認めることもしたくなかった。


 要は、ニコロスという青年は、ロマンチストなのだ。


 年はもう三十に近いが、まだこの世に真実の愛なるものが存在すると信じている。そしてその真実の愛なるものはすべてにおいて尊く、すべてのものに先行して存在すると確信している。真実の愛のためならあらゆるものは犠牲にされるべきで、その犠牲は世界で唯一尊いといってもいいなのである。


 ニコロスは窓から視線を離し、室内を見た。


 ニコロスの自室は多くの書物で埋め尽くされている。それだけ見るとまるで学者の部屋のようだが、そのほとんどは非現実的なまでに追求されたロマンを記した詩だった。


 詩は、ニコロスにとって唯一現実的なものだ。現実の本質を見抜いたものだ。たとえば商人たちが信ずる現実は、ニコロスにとっては幻でしかない。金という、薄汚れたものが見せる幻だ。この町に暮らすほとんどの人間がその幻に支配されている。ニコロスはなんとかそうした現状を変えてやりたいと思っていたが、かといって具体的になにができるというわけではなく、結果としてこの本であふれた部屋で静かに詩の世界に浸っていることしかできないのである。


「――キラ。キラはいないか?」


 ニコロスが部屋の外に向かって叫ぶと、すぐその入り口にひとりの少年が現れた。まだ十歳にも見たないような少年で、美しい金髪を持ち、青い瞳をしていて、その純真が光がまっすぐニコロスを見つめる。


 キラは家で使っている使用人のようなもので、ニコロスはこの少年にロマンの講義をすることを仕事のように感じていた。


「ニコロスさま、お呼びでしょうか」

「ああ、キラ、こっちへおいで。この窓から通りが見えるだろう。あそこになにがいるのかわかるか?」


 キラはその青い瞳を通りへ向け、首をかしげる。


「商人、ですか?」

「そうだ。あの商人はさっきからあそこでなにをしていると思う? どうやら金が届くのを待っているらしいんだ。この暑いなかを、ああやって家の前でずっと待っているんだよ。ずいぶん滑稽なことじゃないか。よし、キラ、今日はおまえに本を読んでやろう。そうだな、この本がいい――キローロフという詩人のものだが、彼の書く詩はどれもすばらしいんだ。さあ、ここに座りなさい」


 キラをベッドに座らせ、ニコロスはそこから離れて詰まれた本の山の上に軽く腰を乗せた。そして本を開き、詩を朗読しはじめる。


 そこに描かれている世界は、常に光が輝き、草花が無限に生い茂り、ひとはおらず、動物たちがのどかに暮らし、また天球は常に昼を示しているような理想郷である。


 ニコロスはそうした世界を読み上げながら、自らその世界に入り込んだようにうっとりと目つきを和らげていた。頬はわずかに紅潮し、その目にはすでに現実世界は映らず、理想の世界だけが現れている。


 キラに読み聞かせるという行為は、本当はニコロスが真の意味でその世界に没頭するための手順でしかなかった。実際、ニコロスが読み上げているのを聞きながらキラが退屈そうに足をばたつかせても、あくびをしても、ニコロスがそれに気づくことはない。すでにニコロスはこの部屋にはいない。想像のなかにしか存在しない理想郷に立ち、そこには自分以外の人間が存在しないのだから、キラの様子に気づくはずがないのだ。


 やがてキラは、ニコロスの声を子守唄にうとうとと船を漕ぎはじめる。ニコロスが朗読を終えるころにはキラもすっかりベッドに倒れて寝入っていて、ニコロスは苦笑いしながら本を閉じるのが常だった。


「やはりキラにはまだ早いか。そもそも、理解できないことなのかもしれないな。ぼくのようにこの世界を理解している人間はほとんどいない。ここでは、ぼくはまるっきり異端なんだ――父も母も、ぼくと同じ世界の住人ではない」


 ニコロスも、その自分が属していない世界を「現実」と呼ぶことは知っている。そして自分が夢見がちな御曹司と揶揄されていることも知っていたが、それはニコロスにとってある種の褒め言葉でしかなかった。


 ニコロスにとって自分以外の人間が属している現実は、忌避すべき汚れたものである。そこから自分が遠ざかっているのは、つまり自分が異端であることは喜ばしいことなのだ。


 しかしニコロスは決して乱暴な人間ではなかったし、思いやりがない人間でもなかった。ニコロスは眠り込んだキラに布団をかけてやり、また静かに本を開く。そうしてしばらくもしないうち、別の使用人がニコロスを呼びにやってきた。


「ニコロスさま、スピロスさまがお呼びです」

「父が? ふむ、またお小言かな」


 苦笑いしつつ、ともかく部屋を出る。二階にあるニコロスの自室から一階へ降りると、スピロスもちょうど玄関を出ようとしているところだった。


 王から「爺」と呼ばれるほど慕われているスピロスは、ニコロスにとってはただの厳格な父でしかない。おそらく能力はあるのだろうと思う。しかしそれは所詮、現実という限られた世界で生きていく能力、ということでしかない。金を稼ぐ能力も、政治の能力も、ニコロスにとっては不必要な能力だ。ではなにが必要なのかといえば、ニコロスにとって必要なのはただひとを愛する能力であり、夢を見る能力だった。


「父上、お呼びですか」


 ニコロスが階段を降りていくと、スピロスはおうと答える。


「ニコロスよ、おまえも城へこい。これから作戦会議をするのだ」

「はあ――作戦会議に、なぜぼくが?」

「おまえもいまはそうやってふらふらしておるが、わしが死んだあとまでそうしておるわけにもいくまい。いまのうちから城へ入り、その仕事を学ぶがよい。これはよい機会じゃ、ゆくぞ」

「しかし父上、ぼくは政治にも戦争にも興味はありませんよ」

「ニコロス、おまえは――」


 スピロスはなにか言いかけ、深いため息でそれをかき消す。


「よい。つべこべ言わずにくるのだ。まったく、なぜこんな性格になったのやら」

「こんな性格というのなら、父上の教育の賜物だと思いますが」

「皮肉はよい。陛下に会うのだ、着替えてこい」

「では――」


 ニコロスは部屋に戻り、服を着替える。その途中、眠っていたキラが目を覚まし、むくりと起き上がった。


「ニコロスさま、どこか出かけられるのですか? ぼくもごいっしょに」

「いや、おまえは寝ていなさい、キラ。城へ行くのだ」

「お城へ?」


 苦笑いでうなずきながら、


「父上にお説教されてね。自分の仕事を見て学べということだ。父上は愚かしくもぼくを戦争の作戦会議に参加させようとしていらっしゃるのだよ。まったく、ぼくが戦争の作戦について妙案を提出できるとでも思っていらっしゃるのか――とにかく、城へ行くから、おまえは家にいなさい」

「はい、行ってらっしゃいませ、ニコロスさま」


 ニコロスはうなずき、着替えた服で再び一階へと降りていく。スピロスはまだ玄関の前で待っていて、苛立たしげに歩きまわっていた。その落ち着きのなさも、ニコロスには理解できないことのひとつだ。なぜひとびとがそうも急ぎたがるのか――急いでなにが見えるというわけでもないはずなのに、と。


 ニコロスが降りてくると、すぐさまスピロスは家を出ていく。ニコロスもそのあとを追った。


 家の前の通りに出ると、ちょうど荷馬車が通り過ぎるところだった。馬車の後部座席にはいくつかの麻袋があって、おそらくその中身は金なのだろう、ずっと待ち構えていた商人がなんとなく疑うような目でニコロスを見ている。もしニコロスがひとりなら、金になんて興味ない、と商人に言ったことだろうが、さすがに父親がすぐ前にいる状況では肩をすくめて通り過ぎるだけだった。


「父上、いったいなぜいま作戦会議を?」

「戦が近いことはおまえも知っておるだろう」

「はあ。しかし作戦会議というからには、こちらの戦力と向こうの戦力が明らかでなければならないと思いますが。革命軍はそれほどまでに近づいているのですか」

「そうじゃ。革命軍はもう目と鼻の先まできておる。つまり、わが軍もこれ以上の増強は望めず、いまの戦力でいくということだ」


 ふむとニコロスはうなずく。いままで戦いに供えて様々な準備をしてきたが、もはやその段階は通過した、というわけだ。


 戦いは、直起こる。


 しかしその実感は、まだニコロスにはなかった。


 もし戦いが起こり、このグランデル王国と城下町のすべてが焼き払われるとしても――その可能性は、状況次第では大いにあり得るが――ニコロスにはまだそれが現実のこととは認識できていなかった。家がなくなれば、いまのような生活はできなくなるだろう。そのとき自分はどうやって生きていくか、という想像がまったくできないのだ。


「父上、戦争はもう回避できないのですか」


 城へ向かって早足で歩いていくスピロスに言うと、スピロスはぎょっとして振り返った。


「まだそんなことを言っておるのか、おまえは」

「革命軍との話し合いは? なんとか妥協案は見つけられないのですか」

「やつらは、見かけた町をすべて襲い、見かけた家をすべて焼き払うような連中だ。そんな連中と話し合いなどできると思うか?」

「そんな乱暴な人間ばかりではないでしょう。なかにはまともな理性を持った人間もいるかもしれません。そうした人間となら、なにか通じ合うことができるかもしれない。そうすれば無益が戦いは避けられるし、犠牲者の数も減らせるのではありませんか」

「いまはもうそんな段階ではないのだ。戦う以外に手はない。よいか、間違っても陛下の前でそんな話はするなよ。陛下のことだ、怒りはせんだろうが、おまえの世間知らずがまわりに笑われるだけだ」

「ふむ――ぼくは世間知らずと笑われても構いませんが」

「ううむ……」


 スピロスはなにか考え込むようにうなった。しかし足は止めず、歩いていく。するとその前から歩いてくる人影があり、ニコロスがあっと声を上げる前に、スピロスはその人影とぶつかっていた。


「おっと――申し訳ない、よそ見をしておってな」


 と顔を上げたスピロスは、ぶつかった相手の意外さにすこし首をかしげた。

 城の周囲にいるのだからせいぜいこのあたりに住んでいる商人かと思いきや、そうではない。

 スピロスとぶつかったのは、若い女である。

 炎のように赤い服を着た、黒髪の女だ。

 背はスピロスよりも高く、たおやかに微笑んでいる。スピロスとニコロスが呆けたように見上げるなか、女は静かに言った。


「わたしは革命軍を指揮している大湊叶という者ですが、クロノス国王のいる場所まで案内していただけますか?」


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