アルカディア 2
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革命軍の本拠地があるカイゼルからグランデル王国まではかなりの距離がある。
そのため、グランデル王国へ攻撃を仕掛けるために、革命軍の本隊はもうずいぶん前からグランデル王国へ向けて進軍をはじめていた。
しかし一直線にグランデル王国へ向かうのではない。グランデル王国を目指しながら、その道中にある村や町へ寄り、そこで略奪を繰り返しながらすこしずつグランデル王国に迫っているのだ。
略奪を繰り返す理由はふたつあって、ひとつは二十五万とも三十万ともいわれる大軍を養うための食料を奪うという目的と、もうひとつは革命軍の兵士たちの士気を高めるためだった。
「――そもそも、革命軍にいる兵士のほとんどは革命という意味も知らないような兵士よ。もうその名前は、必要ないくらい」
街道を三列になって埋め尽くす巨大な蛇のような革命軍の軍勢を上空から見下ろし、大湊叶はぽつりと言った。そのとなりには黒いワンピースの少女、ベロニカがいて、叶の言葉にちいさくうなずいている。
「革命軍は、社会構造を革命するわけじゃない。人間の精神そのものを革命する」
「まるでニーチェみたいですね」
「そう、それに近いかもしれないわ。ニーチェより、ずっと攻撃的な意味だけれど。これはひとつの、人間とはなにか、という問いに対する答えじゃないかしら」
「人間とはなにか、という問いに対する答え?」
「革命軍と、反革命軍。そのふたつの組織がぶつかり合って、潰し合う。それは、二種類の人間といってもいいわ。人種でもない、階級でもない、性質によって分けられた二種類の人類よ。ひとつは革命軍――力を持ち、その力が許すかぎりのことを行うのは正当だと考える人間たちね。もうひとつは、力は持つけれど、それを制御することこそ人間らしさだと考える人間たち。その二種類がぶつかって潰し合うことで、最終的にはどちらかの人間が残る。残ったほうが生物として強力だった、生存競争に勝利した、ということになる。まあ、結局は同じ人類で、一匹の蛇が自分の尾を喰らっているのと変わりない状況だけど」
自分自身がその状況を作り出したにも関わらず、叶は他人事のように笑った。ベロニカはその横顔をちらと見ながら。
「叶さまは、革命軍が勝利すると思っているんですよね」
「さあ、どうかしら」
「ちがうんですか?」
「わたしがどう考えようと同じじゃないかしら」
「でも、叶さまが協力するほうが勝つに決まっているじゃありませんか。叶さまに敵う人間なんてこの世界にはひとりもいないんですから」
「そう、でもね、だからこそわたしがどう考えようと同じなのよ。わたしが革命軍に協力したからといって、革命軍が勝つわけじゃない。そのとき勝つのは、わたし自身よ。革命軍が、革命軍と名乗っている人間たちが勝ったわけじゃない」
「なるほど――たしかに、そうですね」
「でもまあ、わたしは負けるつもりもないけど」
ベロニカは叶の横顔をじっと見ている。その長いまつげの下にある瞳を、そのさらに奥を窺い知ろうとするように見つめているが、どんな人間にもあるはずの心が、あるいは思惑というものが叶には見えなかった。
叶の瞳は、ただ美しく澄んでいる。
その美しさは、ガラス玉の美しさと同じだ。
おそらく叶には、人間同士の戦いなどどうでもいいことにちがいない。せいぜい、二種類の蟻が存在し、どちらが生存競争に打ち勝つのか、ガラス瓶のなかで起こっている戦争を眺めているのと同じ気持ちでしかないだろう。
人間とはなにか、という問いも、叶の退屈を紛らわせるには至らない。叶はほかのあらゆることに興味がないのと同じように、人間にも、つまり自分自身にも興味がないのだ。
自分がどこからきてどこへ行くかなど、心底どうでもいいと思っているにちがいない。結局、いまここにいる、という事実は変わらない。どこからきた、ということが判明しても、それでなにか変わるのかといえば、ちがう。どこへ行くのか、にしても同じだ。人類という種が最後にどこへ行き着くのかわかったところでなんの利益にもならない。
それでも、それがわかっていながら考えてしまうのが人間というものだが、叶はそうした人間らしい葛藤や苦悩とは無縁に生きてきた。ベロニカにもそれはわかる。しかし、では大湊叶とはどんな人間なのかといえば、うまく説明できる言葉が見つからない。
いちばん近いのは、人形だろう。
叶は血が通った人間で、表情も変わるし、口調も機械的ではないが、自分の意志を持たないという意味では人形が的を射ている。
「革命軍の兵士たちは、いまも自分たちが許されていると思っているわ」
「許されている? いったいなにを、だれに許されているんですか?」
「なにもかもを、だれかに許されているんでしょうね。知らない人間の家に入り込んで、なにかを壊したり、なにかを奪ったりする。それは、本当は許されない行為でしょう。世間や社会が許さない場合もあるし、その家の持ち主が許さない場合もある。行為の正当性がないってことね。でも革命軍という免罪符があれば、略奪に正当性が与えられる。革命のために必要だ、というわけね。最初は、そうしてすこしずつ略奪や暴行に慣れていく。革命軍という名前さえあれば、なにもかもが許されると錯覚していく。ひとを殺しても革命のためなら非難されない、だれかの家を焼き払ってもそれが革命のためなら――その積み重ねで、いままで生きてきたなかで培われた倫理観がすこしずつ壊れて、最後には革命軍なんて免罪符がなくても自分のしたいことをすることになんの罪があるのかと開き直るようになる。人間が変わってしまったんじゃなくて、いままで手足につけられていた枷が外れたと感じるんでしょうね。それが人間としての革命――その革命を受けた人間たちが革命軍の兵士ということね」
そして、革命は病のように伝播していく。
革命軍を見ているだれもが思うことだろう――あれだけ好き放題にやっていてお咎めもないのは不条理だ、と。
ひとを殺せば罪に問われるのは道理だ。ひとはその道理のうちに生きている。しかし革命軍は道理から抜け出している。ひとを殺し、どうなるかといえば、賞賛されるのだ。なにかを盗み、なにかを壊し、それで賞賛されるなど、まじめに規律を守って生きている人間からすればまったくおかしな話だった。
革命軍のうちに入れば許されることも、革命軍の外にいては許されない。それなら、と思うのは、ある意味では必然的なことだった。
そうして人間としての革命は広まり、革命軍はその数を増していく。同じ種類の、枷が外れた人間たちが、箍の外れた人間たちが増えていく。
反革命組織は、それとはまったく正反対の理念で成り立っているものである。
革命軍の振る舞いに不条理を見るところまでは同じだが、そこで革命軍のなかに入ってしまうのではなく、革命軍をもう一度規律のなかへ戻そうと行動する。それが反革命組織の本質で、結局、これは秩序をめぐる争いなのだ。
秩序というのは大多数が認めた「都合のいい世界」でしかなく、革命軍が支配する世界では、なにもかも自分勝手に振る舞うことがひとつの秩序となる。
反革命組織の秩序は、規律によって自分を律するもので、どちらにせよ秩序から外れたものは排除されるしかない。
「反革命組織も、二十万ほどの軍勢を用意しているということですけど」
ベロニカが言うと、叶はにやりと笑った。
「重要なのは、ただの人間が何十万いるかより、魔法使いが何人含まれているかよ。革命軍にも魔法使いはいる。向こうにも魔法使いはいるでしょう。まずはそこの戦いになる」
「あたしも戦います」
「そうね、あなたも貴重な戦力よ。あなたなしでは、革命軍は反革命組織の足元にも及ばない。でもあなたがいることで何倍もの力を発揮できるようになる。見てごらんなさい」
叶の指先を追って、ベロニカは自分たちの下を歩いている革命軍の兵士を見た。
兵士の列は、地の果てから果てへと続いている。先も後ろも終わりが見えず、大地を這う大蛇のようにも、すべてを飲み込む黒い川のようにも思われた。
「この兵士たちは、あなたの指示で動く。あなたが総司令になるのよ」
「あたしが?」
ベロニカは驚いて叶を見た。
「叶さまは――」
「わたしは別にやることがあるの。でも近くにはいるから、万が一のことがあればあなたを助けてあげる」
「やること?」
「そう――この世界の息の根を止めるのよ」
そう言った叶は、普段よりもほんのすこし、人間じみた顔をしていた。
*
グランデル王国の首都といってもいい、王が暮らす城とその城下町とは、見事な真円を形作っていた。
中央に、城がある。
その城というのは、城下町より高い位置にあるのか、それとも建物が巨大なのか、城下町から頭ひとつ抜き出たようになっていて、空に向かっていくつかの尖塔が針の山のように伸びていた。しかしその高さは一定ではなく、高い塔もあれば低い塔もあり、どことなくいびつな印象がある。
一方で城下町はよく賑わっていた。
四方にひとつずつ入り口があるらしく、大輔たちが入ったのは東の入り口で、入ってすぐに大きな通りに行き着く。その通りは入り口から見て左右に伸びていて、ゆるやかな円を描き、通り沿いには様々な店が並び、いかにも経済的によく発展している都会という雰囲気だった。
「ここまで長い旅でしたが、本当にありがとうございました」
アンブロシアは城下町に入ると、くるりと振り返って大輔たち四人に頭を下げた。
「一度わたしは城へ戻り、あなた方のご協力を報告します。宿は、ここから右へ進んだところにあります。わたしの名前を出していただければ料金も必要ありませんから、ごゆっくりお休みください」
「おお、タダなのか。それはいい。じゃ、ぼくたちは一足先に休ませてもらうよ」
「はい。では、失礼いたします」
アンブロシアはもう一度深く頭を下げ、ここまでの旅の疲れなど感じさせず、軽い足取りで中央の城のほうへ駆けていった。その背中を見送りながら、燿はぽつりと、
「アンブロシアさん、いいひとだったねー」
「ま、ちょっとまじめすぎたけどね」
と紫は腕を組む。
「一回お尻触ったら本気で怒られたらし」
「そりゃ怒るだろ。なにしてんだ、おまえ」
「だって、女剣士のお尻ですよ? きっと引き締まってるんだろうなって思って」
「いやたしかにそうだろうけどさ。いいよなあ、女は怒られるくらいで。男がやったら死ぬぜ。いやしないけどさ」
「ねー先生、早く宿いこーよー」
「へいへい、いま行くよ――まったく、なんでこう子どもってのは元気なんだろ」
大輔はため息をつきながら、重たい足を引きずるように大通りを右手へ進んだ。
すぐ近くには料理屋がある。その前ではなんともいえない香ばしい匂いが漂っていて、すこしなかを覗くと客はほとんど満員だった。
その後ろ姿には、一目見て兵士かなにかだろうとわかる人間もちらほらと見える。鎧を着ているわけでもないし、武器を帯びているわけでもないが、なんとなくその背中から一種の警戒のようなものが感じられるのだ。
実際、大輔が見ていると、カウンターに座っていたひとりが振り返った。
無精髭を生やした、三十がらみの男である。
眠たげに垂れた目が印象的な男で、大輔と目が合うと、にやりと笑ってみせた。
「む、なんかやな感じのやつだな……」
「せんせー、早くー!」
「あー、はいはい、わかったよ」
宿は料理屋よりもさらに何軒か向こうにあった。こざっぱりした雰囲気のいい宿で、主人もにこにことよく笑う男である。
「お客さま、何名さまでしょうか?」
「四人なんだけど、二部屋頼むよ。ひとつは三人が泊まれる部屋で、もうひとつはひとり部屋で」
「かしこまりました――ところで、料金のほうですが」
「あー、アンブロシアさんに紹介されてきたんだけど」
と言った瞬間、主人の顔がさらに笑顔になって、そのまま大輔の手をとらんばかりの勢いだった。
「ということは、あなた方は正義軍の? それはそれは。もちろん、料金など頂きませんとも。どうぞ、ご案内いたします」
「あ、ああ、頼むよ――なんだ、なんかここまで歓迎されるとちょっと怖いっていうか、引くなあ」
「いいじゃないですか、歓迎してくれてるんだから」
紫はぽんと大輔の背中を叩き、主人の案内に従って建物の二階へと上がっていく。大輔はなんとなく主人の対応に怪しいものを感じて首をかしげた。
大抵、ひとが必要以上に親切なときには裏があるものだ。とくに国の状況が不安定なときには、そうした裏返しの親切がありがちである。
もしかしたら、国の方針としてなにかあるのかもしれない。正義軍の兵士には絶対に失礼をするな、とでもいうようなお達しがあるのだとすれば、アンブロシアの名前を出した瞬間に態度が変化したのもうなずける。
それはそれで、たしかに平和なやり方なのかもしれない。兵士には負けん気の強い人間が多いし、血の気が多い人間も集まっている。大軍となれば軍のなかでのけんかなど日常茶飯事だし、町に駐留する軍隊がむしろ町のひとびとに迷惑をかけるなど珍しいことではない。そう考えれば、兵士にはとくに丁寧に接客する、というのは当然の処世術なのだろうが、どことなくいびつな気がするのも事実だった。
まあ、それはともかく、と大輔は腹を撫でる。今日はまだ食事をしておらず、腹が空いているのだ。
「――ま、先に行ってくるか」
大輔はちいさく呟き、案内から戻ってきた主人に、食事から戻ってきたら部屋へ案内してくれと頼んでおく。
おそらく燿たちも腹は減っているだろうが、まだ部屋に入ってすぐだし、勝手に自分たちで食べに行くだろう。新世界での生活にも慣れているいまの燿たちなら、なにからなにまで付き添う必要はない。
「このへんでおいしい店ってどこになるかな?」
「そうですね、このあたりですと、三、四軒となりに料理屋があるのはご存じですか?」
「ああ、さっき前を通ってきたよ」
「あそこなら問題ないかと」
「そうか、じゃ、そこにしようかな」
「はい、行ってらっしゃいませ」
主人は丁寧に頭を下げる。日本でもこれだけ丁寧な対応はなかなか見かけない、と思いつつ、大輔は宿を出た。
まだ陽は高い。夕方までも時間があって、ふたつの太陽はどちらも空のほぼ真上に浮かんでいた。
大輔は大通りに出て、きた道をひとりで戻る。その道中、
「ん?」
なにやら、物々しい集団とすれ違った。
一見、それは兵士の集団に見える。武装はないが、身のこなしが明らかに素人ではないし、五、六人の組になって大通りを見回しながら歩いているのだ。
なにかを探しているような様子である。兵士が探すものといえば、敵だと相場が決まっている。大輔は、革命軍のスパイがこのあたりにいるのだろうかと考えつつ、兵士たちの横を抜けた。
「ま、革命軍のスパイったっていまのところぼくには関係ないしな。そのへんのことはこの国の兵士と王さまに任せよう。まずは飯だ飯だ」
結局、治安に関しては、外の人間が口を出さないほうがスムーズに進む。自分たちの身は自分たちで守れ、というわけではないが、他人任せより自分たちで行うほうが信頼も増してよいのだ――もちろん、いまは腹が減っている、ということもなくはないが。
大輔は一度は通り過ぎた料理屋の前に戻り、香ばしい匂いに誘われるがまま扉を開けてなかに入る。
あまり広くはない店内に、机が三、四つ、カウンターにも椅子が三つほどあって、そのほとんどすべてが埋まっていた。
店内には喧騒が溢れている。食器が触れ合う音、話し声、笑い声、グラスをテーブルに置く音、足音――人間が生活する上で奏でるすべての音がこの狭い店内に集合している。大輔はそのなかを進み、奥でひとつだけ空いていたカウンターに腰を下ろした。
カウンターの奥にいた髭の主人は一瞬だけ大輔に視線を向け、すぐ手元に戻る。
「いらっしゃい。注文は?」
「あー、なんかおすすめは?」
「今日は仕入れがいまいちだ。ま、ビルマエの煮付けくらいのもんだな」
「そのビルマエってのがなにかわかんないけど、それでいいや。腹が減ってるから大盛りで」
「あいよ」
髭の主人は一度店の奥へと引っ込み、すぐに戻ってくる。どうやら奥に料理人がいるらしい。大輔はさっそく出された食前酒をぐいと飲み干し、息をついた。
なんとも騒がしい雰囲気である。聞こえてくる話し声に耳を澄ませば、大抵は卑猥な話か、乱暴な話だ。それがいかにも兵士の集まりらしく、大輔は苦笑いしながらもう一口、酒を喉の奥へと流し込んだ。
熱いアルコールが食道を通り、胃に溜まっていくのがわかる。これで煙草があれば言うことなしなのにな、と大輔は切なげな表情でポケットを探り、ため息をついた。
「あんた、兵士かい?」
不意に、となりからそんな声がする。
見れば、一度通り過ぎたときに振り返った、無精髭の男だった。
近くで見ても相変わらず眠たげな目元と、赤い唇が目につく。どうやら相当酔っているらしい、と思いつつ、大輔は答える。
「ぼくが兵士に見えるかい?」
両腕を広げると、男はけらけらと笑い、
「たしかに、ちょっと兵士にゃ見えねえな。兵士にしちゃあ軟弱すぎる。なんだ、その細い腕は。女じゃあるまいし、おれのほうが太いぜ」
「いいんだ、ぼくは頭脳労働派だからね」
「ほう。ってことは、商人かなんかか?」
その口調には、商人や兵士を蔑むような色は感じられない。むしろ純粋な、子どもじみた好奇心がきらめいている。
三十がらみの男にしては、表情もどこか子どもっぽい雰囲気があった。穿ってみれば、飄々としていて本当の自分を巧みに隠しているようなふうでもある。
どちらにせよ、ただの兵士でもないし、ただの町民でもないだろう。下手をすれば兵士のなかでもかなりの上級か、商人として成功している男かもしれない。大輔は、だからといって媚を売るようなつもりもなかったが、そのことを頭の片隅に入れつつやってきた料理に取り掛かった。
「まあ、ぼくが商人をやれば間違いなく成功するだろうね。この町でいちばんの大金持ちになることは間違いない」
「おお、言うなあ、おまえ」
「そりゃそうさ、ぼくは超絶宇宙的大てんさ――熱っ」
「なかは熱いぞ、気をつけて食べてくれ」
「先に言ってくれよっ――あちちち。ああでもうまいな、たしかに」
「で、兵士でも商人でもないなら何者だい?」
「ま、旅人ってところだな」
「ふうん――」
男はじっと大輔の横顔を見つめる。大輔はしばらく気にせず食事していたが、ふと男のほうを見て、
「悪いけど、ぼくはそういう趣味はないぞ」
「ちぇ、なんだ」
「おいおいマジか」
「嘘だよ。おれにもそんな趣味はねえ。でもまあ、おまえさんに興味があるってのは本当だ。この国の状況はわかってるだろ。ただの旅人が、この時期にわざわざこの国へやってくるか?」
「ふむ――じゃあ、そういうあんたは何者だ?」
「おれか? おれは近所の人間さ。生まれも育ちもこの国だ。どんなことがあってもこの国にいる。そういうもんだろ?」
「なるほど、たしかに」
男の言葉は嘘はないようだったが、かといってそれが真実とも思えない。なんとなく、その男には裏があるような雰囲気なのだ。
「じゃあ、ぼくも旅人ってことにしといてくれ。旅人は世界情勢なんかには縛られずに、風の吹くまま旅をするのさ」
「なるほどねえ……」
「しかしこのビルマエって魚はうまいな」
「もともとは南方でしか獲れなかった魚だ」
髭の主人はぼそぼそと囁くように言った。
「おれのじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんくらいの時代にはな」
「そりゃまたずいぶん昔の話だな」
「そのころから、この世界はおかしくなっちまった。一年中暑いせいで魚もほとんどが死んじまったし、世界中でおんなじ魚しか獲れないようになっちまってる。漁のしがいもねえって話さ」
「なるほどなあ」
「極めつけは、あのばかどもだ」
「ばかども?」
「革命軍だよ」
となりの男はにやりと笑う。
「おまえさん、革命軍はどう思う?」
「どうって、そりゃ、悪いやつらだと思うよ」
「ああそうだ、悪いやつらにはちがいねえさ。やつらは無抵抗の人間を平気で殺す。家も焼く、すべてを奪う。そりゃあ、ろくな人間じゃねえ。しかし、ろくな人間じゃねえが、ひとりの人間であることには変わりない。そうだろ?」
「ふむ――なるほど」
「さて、問題です」
不意に、男が店内に響き渡る大声を上げた。
「ここにひとりの罪人がいます。こいつはとにかくひどいやつで、ひとも殺せば家も焼くし、無銭飲食の常習犯、生まれてこの方ひとつもいいことはしたことがねえってなもんだ。さて、そんな罪人に鞭打つことは罪になるだろうか?」
その場にいた男たちは一斉に振り返り、一瞬の静寂が料理屋を支配する。しかしすぐにまた喧騒が戻る。そのなかで無精髭の男はにやりと笑った。
「結局、罪は罪で罰するしかねえのさ。正義なんてもんは存在しねえ。罪を別の罪で上塗りする以外、罪が消えることはねえんだから」
「――だから、革命軍は討つべきではないと?」
「いや、革命軍は討つべきだろう。あいつらは罪を作り過ぎた。世界中の人間が罪人になってでも、やつらは討つ」
飄々としているような男の瞳に、息を呑むほどの強い炎が宿る。それは静かだが強い炎で、どんなことがあって決して屈しない光だった。
大輔が口を開く。しかし言葉より前に、料理屋の扉がばんと勢いよく開いた。
入ってきたのは、先ほど大通りで見た兵士たちである。兵士たちは料理屋のなかをぐるりと見回した。すると、なぜだか大輔のとなりにいる無精髭の男は顔を隠すようにうつむき、肩をすくめる。
なぜ兵士から隠れる必要があるのか、それはすぐに明らかになった。
「あー、このあたりで男をひとり探しているのだが」
兵士のひとりが言って、そのあいだにほかの兵士たちが注意深く店内を見ていた。
「無精髭を生やして、三十がらみの男なのだが、だれか見かけなかったか?」
「無精髭で、三十がらみ?」
思わず大輔はとなりの男を見る。となりの男は「しい」というように唇に指を押し当てていた。大輔は心得たとうなずき、
「ここにいるよ」
「うおい! ぜんぜんわかってねえじゃねえか!」
「あっ、陛下! やっと見つけましたよ。早く城へお戻りください。まったく、すぐ勝手に出歩かれるんですから、探す身にもなってください。ほら、早く」
「う、わ、わかったよ、まったく――」
男は兵士に連行されるように立ち上がり、そのままがっちりと前後左右を押さえられて料理屋を出ていった。
当然、料理屋では呆気に取られたような静寂になっている。この国に暮らしていても、一般市民が王の姿を見ることなどごくまれにしかない。そこへ質素な服を着てなに食わぬ顔で市民にまぎれていては、だれもその無精髭がこのグランデル王国の国王だとは気づかなかったのだ。
ただ、大輔だけはひとりで料理に向き直り、にやりと笑いながら呟いている。
「ふむふむ、あれが王ね――なかなかおもしろそうなやつだ」




