アルカディア 1
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わたしはなにもしたくないし、なにも望まない。
もしわたしがなにかをするとすれば、それはわたし以外のなにかがわたしを通して行動しているだけのことでしょう。
――大湊叶
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光がふんだんにあふれた室内である。
広々としているが、そもそも広い部屋であることに加えて、家具のたぐいがなにもないのもその印象に拍車をかけている。
観音開きの扉から一直線に赤い絨毯が伸び、その絨毯の先に椅子がひとつある。
それがこの部屋にあるもののすべてである。
椅子、といっても、さほど巨大なものではない。
むしろ大の男にはすこしちいさいくらいのもので、肘掛けはなく、長い背もたれがまっすぐに伸び、銀色で、ところどころに金細工が施され、繊細で瀟洒な装飾がなされた椅子だった。
この部屋は、通称王の間と呼ばれている。
しかし近ごろはそれも名ばかりで、臣下たちのあいだでは「王の間」ではなく「空の間」だと冗談が囁かれているほどだった。
実際、この日も、
「陛下、陛下、ただいまアンブロシアが戻って参り――」
家老のひとりが観音開きからどたばたと室内へ飛び込んだが、室内はしいんと静まり返り、ただ自分の声が反響するばかりだった。
もちろんのように、椅子にはだれの姿もない。部屋はまったくの無人である。家老はその閑散とした室内の様子にため息をついた。どうせまた城のどこかで油を売っているのだろうと思い、兵士にそれを探し出させてこの執務室へ連れ戻してやろうと考える。そして踵を返しかけたとき、無人の椅子の上に白い紙が一枚置いてあることに気づいた。
「はて、なんであろう」
家老は椅子までまっすぐ伸びている絨毯を進み、その紙をひらりと取り上げる。城で使っている上質の紙で、そこに走り書きのような汚い字がこう続いていた。
『ひまなので町へ出かける。探してもいいが、全力で隠れるので無駄だ。王より』
「お、王より、ではない! ああもうまたあの殿め」
家老はどたばたと引き返し、王の間から顔を出して兵士を呼んだ。
「なんでしょう、スピロスさま」
「ちょっと町へ行って、陛下を探してきてくれんか」
「は、陛下ですか」
「そうだ。また勝手に出てゆかれたのだ」
家老スピロスは深々とため息をつく。
「まったく、陛下にも困ったものだ――あれほど優れたものを持ちながら、本人にはまったくやる気が見られん。おまけに危機意識もない。この時期に、護衛も連れずに町へ出るなど言語道断。いったいどこに革命軍の輩が潜んでいるともわからぬのに」
革命軍。それがいま、彼らにとっては最大にして最強の敵である。
革命軍の本隊は、まだ国に迫っているとはいえないが、その一部が先行して国に近づいている、あるいはすでに国の内部へ入り込み、情報収集や流言等で実質的な作戦行動を開始しているとしてもおかしくはない。
そんななかへ王が護衛も連れず出ていくなど、一種の自殺行為だ。そんなことをしてなんになる、とスピロスなどは思うが、王を幼少から知っているスピロスには、自分に意見に反論する王の姿がはっきりと浮かんだ。
「しかしな、スピロスよ、考えてみろ。護衛がいなけりゃ、おれはただの人間だ。しかし護衛をぞろぞろと連れて歩いてみろ、だれがどう見ても王であろう。そんなばかな話はあるか。なにも連れず、また質素な服で身をまとうことで群集に紛れるのだ。それに自分の町さえ信じられぬような疑心暗鬼に駆られておっては、もはや戦争などはなから負けているようなものだ」
むう、とスピロスはうなる。王の言うことには一理ある――まあ、その王の言葉自体、スピロスの想像によるものだが。
しかし王は、自分が王であるという真の意味を理解していない。王というのは単なる飾りではない。この国のすべてが王なのである。この国が王のものであるのと同じように、王は国のものなのだ。
「まあ、陛下はそうした古い考えはお嫌いであろうが――とにかく、すぐに王を探し出して城へ連れ戻すのだ。多少手荒になってもかまわん。駄々をこねたら、首根っこを掴んで連れ戻せばよい」
「は、はあ。では、町に兵を出しますか」
「うむ。多少物々しくなるのも仕方なかろう。時期が時期じゃ、いま王になにかあっては、笑い事では済まぬ」
兵士がばたばたと走って行く。スピロスはもう一度ため息をつき、自分の執務室へと戻っていった。
それは王の間のすぐとなりにあって、部屋に入ると、さっそく紙とインクの匂いが鼻を突く。
王の間に比べればはるかにちいさい部屋で、同時に物もはるかに多い。横に長い木製の机はほぼすべて巻物や書物、あるいは書類の類で埋まっているし、それだけでは収まりきらないものが床の上に山積みにされていた。
もちろん、娯楽のものは一切含まれていない。すべてこの国に関係する書類であり、たとえば水道事業の予算計上やその概要、国で捕まった犯罪者のたぐいやその被害者の救済案、城下町以外からは毎日馬で町の細かな状況が届き、机の上はどれだけ整理しても一日のうちにすべて埋まってしまう状況だった。
スピロスはちいさな椅子に座り、三度ため息をついた。
「ううむ、わしも年を取ったものだ。若いころはこれくらい、なんということもなかったが」
年を取ることは人間、生物の宿命である。どう抗っても年を取らずに生きることはできないのだから、年を取ること自体が悪いことではない。問題は、後継者が育っていないことだ、とスピロスは思う。
いま、自分に変わるだれかが育っているのなら、もし自分が年を取って死んだとしてもなんら問題はない。しかしいま自分が死ねば、間違いなく国の情勢が狂うと確信できる。かといって革命軍との大一番を控えたこの時期、若手の育成などにかまっているひまはなく、老体に鞭打つ以外に方法はないのだ。
そこへきて王の好き放題の行動である。ついため息が洩れるのも仕方ないといえば仕方ないことだった。
「まあ、陛下にもなにかお考えがあるにちがいないが、そうならそうとおっしゃってくださればよいのだ。まったく、陛下の秘密主義には困らされてばかりじゃ」
スピロスは四度ため息をついて、それでようやく諦めがついたらしく、目の前の書類に手をかけた。
*
グランデル王国は、丘陵地帯にある。
周囲はなだらかな丘であり、丘には季節を問わず緑の草が茂り、それを食む動物が生息し、放牧なども行われていて、穏やかといえば穏やかな環境だった。
グランデル王国の南と東には山があるが、それは城下町から見れば遠くに霞んだ壁のようなものである。北と西にはなにもない。丘陵地帯が海まで続いている。
海からグランデル王国の城、あるいは城下町まではだいたい荷馬車で一日ほどの距離で、潮風を感じるほど近くはないが、特産といえるものは海の幸が多い。同時に放牧も盛んなため、海のものと羊や牛の乳を合わせた料理が多く、肉料理はほとんど食されていなかった。
そもそも、グランデル王国とはどれほどの規模の国か。
もともとは、さほど大きくはない国である。
成り立ちはといえばはるか古い時代の貴族が発祥で、その貴族が自らの領地を国としたのが現在のグランデル王国の基礎となっている。それから幾度か領地の変更はあったものの、長らくグランデル王国は城を含む城下町、そしていくつかの町を含むだけだったが、ここ数年のあいだに状況は大きく変化していた。
きっかけは、もちろん革命軍である。
革命軍が起こり、それによっていくつも国が倒されはじめたとき、グランデル王国は真っ先にほかの国の難民を受け入れはじめた。
それは批判のもとに行われたことだった。
革命軍の難民を受け入れるというのは、経済や治安の悪化はもちろん、革命軍に対して明確に敵対するという意味をも含んでいた。そのころは、革命軍はまだ悪徳非道な悪魔の集団ではなく、古い体制に三行半を突きつけた市民の活動だと聞こえていたのだ。
グランデル王国はもともと開かれた国で、王家といってもさほど大きな力を持っている国ではない。それよりもむしろ経済を牽引する実業家や地主が大きな権力を持っていて、彼らはむしろ革命軍の活動に賛同していたが、そうした批判を押し殺してまで難民を受け入れたのは、王の一声があったためである。
そしてグランデル王国には、革命軍の活動によって故郷を失った人間が続々と集まりはじめた。それはマグノリア修道院にも同じことがいえるが、マグノリア修道院が女しか受け入れなかったことに対し、グランデル王国は老若男女問わずやってきたものはすべて受け入れた。
そうしているうちに革命軍の本性が伝わりはじめ、どうやらそうした時代の流れを止めなければならないということになって、まず矢面に立ったのがグランデル王国なのである。
グランデル王国は世界で最初に革命軍を公に非難した国であり、革命軍が大陸中で暴れまわっているあいだ、まだ残っている各国をまとめてひとつの反革命組織を作り上げた国だった。そのため、グランデル王国には世界中から軍が集められ、ひとが集められ、それに従って周辺国を協力的な領地に取り入れて巨大化し、いまでは世界中で唯一残った王国であり、革命軍に対抗できる最後の希望となっていた。
「――そうした一連の反革命軍活動のなかで、中心になっているのが現在のグランデル王国の王、クロノスさまです」
なだらかな丘を越えながら、グランデル王国の女兵士アンブロシアはどこか誇らしげに言った。しかしそのあと、なにかを思い出したようにすこしため息をつき、
「ま、まあ、ちょっと変わった方なんですけどね、クロノス陛下は」
「ふうん、変わった方ねえ」
大湊大輔は話をしっかり聞いているようないないような、曖昧な返事をしてぼんやりと右手のほうを見つめていた。
一行の右手側には海がある。しかしまだ目視できるような距離ではなく、かすかに潮の匂いがする風が吹いているか、というくらいだった。
その代わり、空はよく晴れている。
双日二日目。
海よりも澄んだ青色の空に、白い太陽が大小ふたつ浮かんで、地上をじりじりと照らしていた。
丘を覆う草花は、その光を全身に浴びて揺れている。この暑さでも枯れはしないのか、足元には大抵ちいさな白い花が咲いていて、丘のあちこちにその草を食む動物がいた。
ところで、大輔がなぜ右手側に視線を向けていたのかというと、そこには小高い丘があり、丘の上には白い綿毛のようなものが密集していた。
花ではない。それよりも巨大な動物、羊にしてはすこし小柄だが、似たような白い毛を持つ動物の群れだった。
どうやら群れ全体が食事中のようで、頭を垂れ、草に顔を近づけてはむはむとやっているが、そこにそろそろと近づく影があった。
「あいつ、勇気あるなあ」
思わず大輔が呟くと、その横にいた岡久保泉もこくりとうなずく。
「ちょっと、怖いですよね」
「怖いよなあ。まあ、あいつのことだから、なんにも考えてないんだろうけど――よく野生生物の群れのなかに入っていこうと思うよな」
食事中の群れに近づく影、七五三燿は逃げられないように足音を殺しながらそっと寄っていって、群れのいちばん外側にいる一匹の背中に触れた。
「わっ、ふわふわ」
その毛はやわらかく繊細で、それでいてまるで櫛で梳いたようになめらかだった。空気も多く含んでいて、すこし強めに押すと、手が毛のなかに埋もれて見えなくなる。
燿はにやりと笑い、そっとその動物の胴体に抱きついた。頬や身体にやわらかな毛の感触が伝わり、まるで雲を抱いているような気持ちになる。
「うわあ、気持ちいい……このまま寝ちゃいそう。ねえ、先生たちもおいでよー!」
「やだよ。いつ暴れ出すかわかんないぜ」
「大丈夫だよ、この子たちおとなしいもん! ぜんぜん暴れないし。っていうか生きてるのかな?」
死んでいたらちょっと不気味だ、と思いつつ、燿はその生物の顔を覗き込んだ。
馬のようにぬっと顔が長い動物だが、燿が抱きついているのも構わず、足元の草をむしゃむしゃと咀嚼し続けている。燿がその横顔を見つめていると、さすがになにか感じるものがあったのか、ふと顔を上げる。
白い綿毛のような体毛の下から、ちいさな黒い目が燿を見た。燿もじっとその目を見返す。
ふたりは動きを止め、見つめ合う。
それをすこし離れているところから見ている大輔は首をかしげて、
「あいつら、話でも通じたのかな? 七五三ならやりかねんところが怖い」
「心のやさしい子は動物と話ができるって決まってますもんね」
神小路紫がぽつりと言った。
「その点、燿なら話が通じてもおかしくない気はしますけど――燿、話は通じた?」
燿は顔を上げ、ぶんぶんと首を振る。
「まったくわかんない! でもなんかおとなしそう!」
「その結論はどこから出てきたんだ?」
「もふもふの生き物って基本的におとなしそうだし!」
「いやだからその根拠がわからん」
しかしどうやらおとなしいのは本当らしく、燿がその身体に抱きついても、綿毛のように丸い生物はまったく微動だにしなかった。それをいいことに、燿は何頭かが並んでいるところに近寄って、その上にぴょんと飛び乗る。羊もどきの布団である。
「あ、これいい! これめっちゃ寝られそう!」
「寝てるあいだにどっか連れていかれそうだけどな――で、アンブロシア、グランデル王国はもうすぐなの?」
「あ、はい、もうほんのすこしです」
燿を眺めていたアンブロシアは大輔に視線を戻し、こくりとうなずく。
「もうすこしで城が見えてくると思います」
「ふむ。なんか、対革命軍の本隊があるとは思えないくらい静かな場所だな。もっと物々しいのかと思ったけど」
「このあたりはまだ静かです。正義軍、とわれわれは呼んでいますが、正義軍の本隊はここからすこし北へ行ったところにいるんです。城下町にはとても入りきらない数ですから」
「なるほど、たしかに――いま、その軍勢はどれくらいだっけ?」
「革命軍がおよそ三十万とされていますが、われわれは二十万から二十五万というところです。まだ続々と増えていますから、正確な数はわかりませんが」
「三十万対二十万、か」
三分の二の勢力で勝利できるか、といえば、単純な引き算では絶対に不可能だ。しかし戦争は単純な引き算ではない。ときに足し算があり、掛け算がある。数の利はたしかにあるが、それを打ち破った人間など世界中にいくらでもいるのだ。
「あの」
とアンブロシアが燿のほうを指さす。
「いいんですか、あのままで。あの、ほんとに寝ちゃったみたいですけど」
「あー、いいんだよ、放っておけば。そのうち起きて追いかけてくるだろうし。熊でも出るんならともかく、羊もどきだけなら大丈夫だ」
「あれはマウレオンといって、羊もどきではないんですけど……」
「でも、本当にのどかな雰囲気ですよね」
泉は歩きながらうーんと伸びをする。
「ちょっと暑いけど、お昼寝にちょうどいいくらいで」
「たしかに昼寝でもしたい気持ちだけど、もうちょっとで着くらしいし、ま、もうちょい歩いてみよう」
そう言って丘陵地帯を歩く四人の背後の丘で、マウレオンの群れに寝そべった燿はちいさく寝息を立てていた。
しかし燦々と降り注ぐ日光が暑かったのか、ふと顔をしかめ、寝返りを打とうとして、マウレオンの背中からするりと落ちる。
「わっ――」
背中といってもさほど高くはないから、べちゃりと地面に落ちた燿は、頭をぷるぷると振って起き上がった。そしてあたりを見回し、首をかしげる。
「あれ? みんなどこ行ったんだろ」
たしかにすぐそばにいたはずの四人が、どこにもいなくなっているのだ。
とくに不安げというわけでもなさそうにあたりを見回し、ようやくちいさな四つの影を見つけて、燿はため息をつく。
「あんなところにいる。まったく、勝手に行っちゃだめじゃん、もー」
まるで向こうのほうが迷子になったのだと言いたげな口調で呟き、燿はぽんとマウレオンの背中を叩いて立ち上がった。そのまま、四つの影を目指して歩きはじめる。
あたりはとにかく美しくのどかな風景である。
青々とした丘はまるで絵画のなかのようで、しかしここには日差しの強さがあり、風が香り、動物の鳴き声が時折響く。足元を見れば数センチのちいさな花びらが揺れていて、その奥ではもっとちいさな別の種類の花も顔を覗かせていた。
長らく戦争とは無縁に独自の経済的な発展を遂げてきたグランデル王国だからこそ存在する平和な景色である。もちろん、燿がそこまで理解しているわけではないが、この風景をよしとしてうれしげに歩いていた。
やがて、四人の背中がぐんと近くなる。
しかしそれよりも先にあるものを見て、燿はわっと声を上げた。
「すごい――あれがお城かな?」
進む先に、ぼんやりとだが、目指してきたグランデル王国が見えてきた。




