修道院にて 18
18
ベロニカはもとより、大輔たち四人も一斉に空を仰ぎ見る。
「――か、叶さま!」
ベロニカは喜びとも驚きともつかない声を上げ、反対に大輔はぐっと苦しげな声でその名前を呼んだ。
いまにも雨が降り出しそうな分厚い雲を背景に、大湊叶が優雅に浮かんでいる。
修道院の上空二十メートルほどの位置で、空中の椅子に腰掛けるような体勢になり、中庭にいる五人を見下ろしているのだ。
「久しぶりね、大輔。それにかわいい子たちも」
「ふん、あんたとは二度と会いたくなかったけどな」
大輔が敵意を隠さずに言うと、叶はくすくすと笑う。
「だから会いにきてあげたのよ。あなたが嫌がるだろうと思って」
「どんな性格の悪さだよ。いやあんたの性格が悪いことは知ってるけどさ」
「別に性格が悪いわけじゃないわ。あれよ、いま流行りのツンデレってやつ」
「そんな強烈なやつはツンデレとは言わねえよ。だれがツンデレで殺そうとするんだ」
「あら、死んでないじゃない」
「必死に生き延びようとしたもんでね!」
「今回はまあ、はじめからあなたたちがいるとは思っていなかったことだもの。あなたたちがこの修道院にいたのは偶然よ――ねえ、ベロニカ」
「叶さま――この変態男と知り合いなんですか?」
「変態男? そういえば、それ、女物のローブね」
「うっ――う、うるせえうるせえ! それ以上言うんじゃねえ、それ以上言ったらそこからたたき落とすぞ!」
「おお、先生が動揺してる……あの女、いけ好かないけどなかなかやるわね」
と紫がうなずくそばで、ベロニカは相変わらず不思議そうな顔で上空の叶と大輔を見比べている。
「叶さま、いったいどういう知り合いなんですか? 革命軍の人間ですか」
「ちがうわ。革命軍とは正反対。その子はね、わたしの弟なの」
「お、弟? この変態男が、叶さまの?」
ベロニカはじっと大輔の顔を見て、いやいや、と首を振る。
「まったく、一欠片も似てないじゃん」
「う、うるさいな、ぼくこそ似ないでよかったと思ってるよ」
「ってことはほんとに姉弟――なのに、革命軍じゃないの?」
「ベロニカ、大輔はね、わたしのやろうとしてることを阻むつもりでいるのよ。だからあちこちで革命軍に対抗してる」
「先にちょっかいを出してきたのはそっちだろ」
「でもなにも知らないふりをすることもできたはずじゃない。あなたは、わかっているでしょう――わたしはあなたに興味がない。いちいち追いかけてまで殺そうとは思わないわ。目の前にいて、邪魔なら退いてもらうけれど。だからわたしの目的とは関係なく生きていれば、こうやって何度も会うことはなかったのよ――そう考えれば、あなたこそツンデレなんじゃない?」
「は、はあ?」
「お姉ちゃんと会いたくてこんなことをしてるんでしょう?」
「ばかも休み休み言え。ほんっとにマジでまったくあんたとは会いたくない。ぼくはあんたが嫌いなんだ」
「ちょっと、叶さまの悪口言ったらあたしが許さないわよ」
「そう、今回はベロニカが世話になったみたいね」
叶はわずかに高度を下ろす。
すると、不意にベロニカの身体が宙にふわりと浮かび上がった。
「わっ――」
ベロニカの身体はそのままするすると上昇し、叶のすぐとなりでぴたりと止まった。
大輔はちっと舌打ちを洩らし、
「逃したか。革命軍のいろいろを吐いてもらおうと思ったんだけどな」
「あら、革命軍のなにが知りたいの? 教えてお姉ちゃんって言ったらなんでも教えてあげるけど」
「ふん、だれが言うか。あんたに聞くくらいなら世界中這いずりまわって自分で探すね」
「まったく素直じゃないわねえ、相変わらず」
叶はふうと息をつく。
そのとなりまでやってきたベロニカはすこし申し訳なさそうな顔で空中を浮遊していた。
「あの、叶さま、すみませんでした」
「なにが?」
「ひとりで修道院を落とすって言ったのはあたしなのに、失敗して」
「ああ――別にどうでもいいのよ、そんなこと」
「どうでもいい?」
「あなたが成功しようが失敗しようが、つまりこの修道院の人間がひとり残らず死のうが全員生き残ろうが、そんなことはどうでもいい。わたしはただ調査結果を聞きにきただけよ」
「調査結果って――」
「大輔、ナウシカの秘密は理解できたかしら?」
叶の横顔は青白く、まるで冷徹だった。
叶に残忍さがあることは知っていたベロニカだが、すべてのことに無関心なようなその冷徹さはまるではじめて見るものだった。
「ナウシカの秘密なんて知らない」
大輔は叶に向かってべっと舌を出す。
「知ってても、あんたには絶対教えないけどな」
「じゃあ、質問を変えましょう。あなたはこの修道院に集められた文献を見て、世界の真実に気がついた?」
大輔は表情がさっと変わる。
「――あんたも知ってるのか」
「新世界と地球は、まったく無関係というわけじゃない。偶然行き来できる扉ができたわけでもないし、行き来できるふたつの世界が新世界と地球だったことは偶然じゃないわ。どうやらあなたもそのことはわかっているみたいね」
「地球と新世界の関係は、わからない。でもそこになにか秘密があることはわかる――ナウシカってのは、それに関係したものなのか?」
「さあ、どうかしら」
「くっ、聞くだけ聞いて自分からは言わないつもりかよ」
「だから、お姉ちゃん教えてっていえば教えてあげるわよ。あなたがその妙なプライドを捨てればね。もともと、あなたはプライドばっかり高い子だったから、プライドを捨てるなんて無理かもしれないけど」
「うるさい、ほっといてくれ――で?」
大輔はわずかに首をかしげる。
「その子を回収して、今日はおとなしく引き下がるか?」
「まさか」
叶はすっと腕を掲げた。
「とりあえず、この修道院はすべて破壊していくわ。文献なら瓦礫の山から見つけ出せばいいし」
「やばい――三人とも、逃げろ!」
大輔が叫んだ。
それと同時に、空がばっと光る。
黒い雲の内側で巨大な爆発が起こったように、周囲に青白い光が飛び交った。
その幾筋かの光が収斂され、稲妻となり、天を裂くような音を立てて地上へ降り注ぐ。
魔法そのものは、燿たちが行ったものと同じである。
しかしその威力は、まったく別の魔法かと思えるほどちがう。
燿たちの魔法では一本の稲妻が精いっぱいだったが、叶がひとりで発動させた魔法は、何十本、あるいは下手をすれば何百本という太い稲妻があたり一帯に降り注いでいた。
当然、修道院にもいくつかの雷が落ちる。
それは漆黒の石材を焼き、引き裂き、打ち崩し、空いっぱいの太鼓を打ち鳴らしたような雷の音のなかに、何百年、何千年と続いてきた修道院が崩壊する音も潜んでいる。
「――すごい」
叶のとなりでその魔法を目の当たりにしたベロニカは思わず呟いた。
叶なら本当にたったひとりでこの世界を破壊してしまえそうな、自然災害を凌駕する凄まじい威力だった。
修道院のあちこちから悲鳴が上がる。
崩れた瓦礫の下敷きになるまいと、隠れ潜んでいた修道女たちがわらわらと中庭へ出てきた。
叶は白いローブの集団が現れるのを見下ろし、すこし首をかしげる。
「どうしようかしら――このまま雷で殺してもいいけど、炎でまとめて焼き殺してもいいし。まあでも、炎だと文献が延焼するかもしれないし、雷でいいか」
叶は、どんな方法でもこの修道院を破壊することができる。
魔法使いのなかでも大湊叶は桁がちがう。
ベロニカはそれを痛感し、恐怖か興奮か、身体をぶるりと震わせた。
一方、大輔は叶を見上げて、唇を噛んでいる。
「まずいな、こんな本格的にあいつと戦うことになるとは――」
「せ、先生、どうするの? こっちも魔法で戦う?」
「いや、たぶん無駄だ。あいつと出会ったらまず逃げるっていうのが鉄則なんだけど――」
大輔は周囲をぐるりと見回す。
修道院の崩壊により、中庭には大勢の修道女が出てきていた。
そしてその数はまだ増え続けている。
修道院にいる修道女たちが全員出てくるとすれば、その数はおよそ数千から数万、それだけの人間を守りながら逃げるというのは、事実上不可能だった。
とくに相手は大湊叶なのだ。
一対一でさえ逃げきれるかどうか定かではない。
それは叶の気まぐれにかかっているといってもいい。
叶が気まぐれで逃してくれるのなら逃げられるが、もし気まぐれで逃がすつもりがないなら、どんな方法でも逃げ切ることは不可能だろう。
「ぐぬぬ、こうなったら、もう一回やるしかないか」
「もう一回やるって?」
「さっきと同じ――魔法を無効化させて、そのあいだに逃げる。それしか手はない」
大輔はちいさく息をつき、魔術陣を取り出した。
叶はそれを見て、ちいさく笑う。
「いいの、大輔? 能力のないあなたがそんなふうに魔法を連発しても」
「う……うるさいな、じゃああんたがどっか行ってくれるのか?」
「もちろん、そんなわけないでしょ。でもその魔法、結局は自分の首を締めることになると思うけど」
「相変わらず勘の鋭いやつめ――いいんだよ、どうせここを切り抜けなきゃ死ぬだけだ。それなら全力でもがいてやる」
「そう――じゃあ、わたしも全力でやってあげる」
叶は再び腕を振り上げた。
その頭上、黒い雲のなかで、轟音を立てながら青白い光が激しくまたたいている。
大輔も魔術陣に手を押し当て、発動のタイミングを待った。そうしながら、
「七五三、神小路、岡久保、おまえたちはほかのひとたちを避難させろ。建物のなかに戻すんだ」
「え、でも、建物は崩れちゃうかも――」
「あいつの狙いはぼくだ。おそらくぼくを直接狙ってくる。ぼくはそれを無効化するから、そしたら修道院の外へ一斉に逃げてくれ。おまえたちがそれを先導するんだ。ぼくにはその余裕がない。できるな?」
三人は顔を見合わせたが、揃ってしっかりとうなずいた。
大輔もこくりとうなずき、にやりと笑って叶を見上げる。
燿たちは、中庭に出てきた修道女たちを建物のなかへと誘導しはじめる。
混乱し、恐怖している群衆をまとめるのは並大抵のことではない。
声を張り上げ、身振り手振りでなんとか大輔から離し、そのまま建物のなかへ押し込むようにしていくのを、叶は上空からじっと眺めていた。
雷はまだ落ちてこない。
雲の内部では、貯めこまれた電気が稲光を起こし、雲の外へ向かって細い手足のような稲妻を洩らしている。
「さあこい、性悪女め」
「あなたはただ努力して人並みになっただけ。本当はなんの才能もない人間だってことを教えてあげるわ」
稲光があたりを青白く照らす。
それは全方位に向かって放たれた光だったが、見る見るうちに収束し、まるでスポットライトのように中庭を照らし出した。
その規模が、とてつもない。
「げっ――」
ただの雷なら細い稲妻になるだけだが、それは広い中庭全体を覆い尽くすような巨大な光だった。
もしその光に沿って雷が落ちてくるなら、その雷もまた、信じがたい太さの、文字通り電気の滝のようになった雷にちがいない。
直撃すれば、もちろん命はないだろう。
大輔は図らずも生きるか死ぬかの対決を強いられたことに気づき、顔を引きつらせた。
「やばいぞ、これは非常にやばい――」
「それじゃあ、大輔、さようなら」
叶が笑みを浮かべ、ゆっくりと腕を振り下ろした。
黒い雲から地上へ向かい、肌がしびれるような電流が走る。
そのあとから本当に強い雷が落ちてくるはずだった。
叶のことだ。
弟だから、という理由で手加減などしないだろう。
やるからには本当に殺すつもりでやっているにちがいない。
大輔はぐっと覚悟を決め、呪文を唱えた。
「――すべての魔力をかき消してやる」
自身の体力をすべて魔力に変換し、そうしてできた大量の魔力によって敵の魔法をかき消す――それは本来、自ら攻撃することはできないが、すべての魔法に有効な絶対的手段のはずだった。
大輔の体内から魔力があふれ出し、それが周囲に満ちていく。
息苦しく感じるほどの魔力量である。それが上空へと広がると同時に、巨大な雷撃が降り注いだ。
「ぐっ――」
あたりが青白い閃光に照らされる。
大輔は目を細め、上空を仰ぎ見た。
凄まじい光を放って一瞬で落ちてくるはずの雷は、まだ落ちてこない。
大輔の魔力でかき消されたのか――いや、大輔の魔力で満たされた中庭の上空で、雷が静止しているのだ。
「や、やばい――」
魔法のキャンセル空間が、より強い叶の魔力がこもった魔法によって押し返されているのだ。
雷はじりじりと落ちてくる。
その電気が、すでに大輔の全身をびりびりと刺激していた。
「――あなたが万全なら、もしかしたら拮抗させられたかもしれないわね」
叶は上空からあざ笑うように言った。
「でもベロニカに対して一度魔法を使っているあなたには、もうわたしの魔法を押し返すだけの魔力が残っていないわ。やっぱりあなたは、ただの凡人でしかなかったのよ」
――押し切られる。
大輔は自分の力と叶の力を冷静に考え、そう確信する。
自分の魔力では、叶の魔法はかき消せない。
それどころか無効空間を押し返され、その雷は間違いなく大輔を直撃するだろう。
それはつまり、死である。
大輔は自分の死を理解した。
自分はここで、こうやって死ぬのだと理解し、しかしそれ以上になにかを考える時間も与えられなかった。
大輔は上空を見上げる。
輝く稲光と稲妻が、その上空で笑う叶が、大輔が最後に見る景色になるはずだった。
大輔ですらそう覚悟を決めていた。
しかし不意に、なにかに背中を押され、大輔は中庭の端のほうへ転がった。
そもそも魔法を使い、体力のほとんどを消費している大輔である。
起き上がることもままならず、そのまま首だけをひねって後ろを振り返れば、その先で、金髪の美しい女性がにっこりと笑っていた。
「あなたは、生きてください」
「――ソフィア」
「あなたはまだこの世界に必要なひとです」
大輔は荒らされた中庭の土を握りしめ、ソフィアのもとへ駆け寄ろうとした。
しかしそれはほんの一瞬だった。
その一瞬に行われた葛藤を、だれが理解するだろう。
大輔は、這いずるようにして屋根の下へ逃げ込んだ。
ソフィアはにっこりと微笑み、なにもかもに満足したように目を閉じる。
そして、神の怒りのような、凄まじい雷が降り注いだ。




