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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
修道院にて
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修道院にて 12

  12


「わあ、すごい数の本ですね」


 自分の背丈よりはるかに高い本棚にほとんどすき間なくぎっしりと詰まった古い文献を見て、ソフィアは声を上げた。

 大輔は蝋燭をすこし掲げ、本棚の上のほうまで見えるようにしながら、手元の文献を探る。


「あ、わたし、蝋燭持ちましょうか」

「ああ、ありがとう。たしか、このへんにあったと思うんだけどな――」


 大輔は平積みされた文献を一度廊下へ引っ張り出し、それから中身を確かめていく。

 ソフィアは流れ落ちる髪を押さえながらその様子を覗き込んだ。


「なにを探していらっしゃるんです?」

「この古代文字と同じ文字で書かれたものだよ」


 大輔はひらひらと紙を振る。

 ソフィアはそれを見て、う、とうめいた。

 一見それは、文字というより渦巻形の図形に見える。

 じっと見つめていると目が回りそうな図形だった。


「それが文字、ですか?」

「そう、昔のね。いまはさすがに使われてないけど」

「いまの文字は、もっと単純そうに見えますね」

「ああ、そうだろうね。たぶん使用者が多くなったからじゃないかな。文字っていうのも社会と使用者によって変わっていくものだから、結局普及するものは単純で覚えやすくて利便性が高いものだ。そもそも文字には表意文字っていうのと表音文字っていうのがあってね、表意っていうのはそのまま意味を表している文字で、表音は音を表している文字だ。この古代文字は表音文字で、一文字一文字には意味が込められているわけじゃない。それを組み合わせ、音を作ることで意味を為す。だからあとから習うことはさほど難しくないんだ。覚えなきゃいけない数がすくないからね」

「へえ、そうなんですか――わたしにはとても覚えられそうにはありませんわ」

「ま、その必要もないからね。古代文字を読まなきゃいけない機会なんてそうそうないし」


 喋っているあいだも、大輔は文献を調べ続けている。

 ときおりぶつぶつと独り言のように呟くのは意味を確かめているためらしく、ソフィアは邪魔しないようにそれ以上は話しかけず、蝋燭で大輔の手元を照らしてやりながらぼんやりその姿を眺めていた。


 ふと、下のほうからぱたぱたと音が聞こえる。

 なにかと思って目を向ければ、不審者を捕まえるという任を終えたらしい三人が、本棚から本を取り出し、それを並べて倒して遊んでいるようだった。

 ソフィアはついくすくすと笑って、


「あの子たち、本当に明るい子たちですね」

「まあ、この新世界でまともに生きていけるくらいだからね」


 大輔は文献に目を落とし、くいとメガネを上げながら言う。


「ぼくたちからすれば、この新世界は危険な世界だ。なにが起こるかわからない。下手をすれば命の危険があるって世界に突然やってきて、それまで通りに生きていくのは大変だよ。あの子たちはそれがごく自然とできる。まあ、それは七五三のばかと紙一重の明るさもあるんだろうけど」

「でも、明るいことはいいことですよね」

「暗いよりはね。うーん、やっぱりこれもちがうな。あっちだったかな」


 大輔が移動するのに従い、蝋燭を持っているソフィアも場所を変える。

 ソフィアは、真剣な顔で文献を調べる大輔の横顔を見つめながら、ふと息をついた。


「ダイスケさまは、向こうの世界でもそんなふうだったのですか」

「そんなふうって? いや、女装はしてないけど」

「そのことではなくて――こんなふうに調べ物や勉強を?」

「ああ、まあそういうことになるね。趣味みたいなもんだよ。昔は違ったんだけど」

「違った?」

「昔は、この世界、っていうのは地球とか自分が住んでた町のことだけど、言ってみれば自分の身体の外側で起こってることは、自分とは関係ないと思ってた。たとえ火山が噴火しても、町が突然爆撃されてもね。だから当然、勉強もしなかった。なにしろ自分とは関係ないことなんだから、そんなことしても無駄だと思ったんだよ。それがまあ、だいだい思春期のころ」

「へえ――それが、どうして変わったんですか?」

「どっかで気づいたんだ。世界中のすべての出来事は無関係じゃないんだって。すべてが自分につながっていて、自分からすべてがはじまってるんだってことに気づいた。たとえば、まあ極端な話、自分が立っている地面は、地球の成り立ちと深い関係がある。自分が飲んでる水は地球上を循環しているものだ。そういうことに気づいて、これはもっといろいろ知らなきゃならないと思った。自分のことも、この世界のことも。それからは勉強が趣味みたいなもんだね」

「そうなんですか……やっぱり、ダイスケさまはすごい方なんですね」

「すごい? まあ、天才ではあるけど」

「わたしは、自分のことも、まわりのことも、なにも知りません」


 ソフィアはわずかにうつむき、言った。


「わたしの夫は、戦いが好きでした。ほかのなによりも戦いが好きで、そういう意味では絵に描いたようなカイゼルの男でした。戦いで勝つ、それが夫の人生のすべてだったのでしょう。わたしはそういう男の妻となったのです。当然、わたしも同じように人生を歩まなければならないはずでした。夫が戦いにすべてを捧げたように、わたしはそのような夫に自分のすべてを捧げなければならない――そうしてきたつもりでしたが、いま思い返してみれば、わたしは夫に対してなにもしていなかったのかもしれません」

「そんなことはないだろう。カイゼルでの生活は知らないけど、出会ってからでいうなら、あなたは立派なひとだ。旦那さんもそう思ってたと思うけどね」

「それは――」


 相手が夫ではなく、あなただったからだ、とソフィアは言いかけたが、それは言葉にならなかった。

 言葉にしてはならないものだ、という気がした。

 その思いはおそらく、言葉にした瞬間に下世話で下品で、どこか裏切りの気配がこもってしまう。


 言葉にしない、ただ自分の胸のうちに秘めているかぎり、それは純粋でいられる。

 打算もなく、ただ思うだけ、ということが、この思いを美しく保つ唯一の方法だった。


「わたしは夫の好物も知りません。夫がどんなふうに笑うのかも、夫にどんな友人がいたのかも。それは、わたしの娘に関しても同じことです。生まれてすぐに引き離されて、会う機会がまったくないというわけではなく、会いたいという意志があれば毎日ちゃんと会えるし、わたしも毎日会っていたはずなのですが、まだ幼かった娘がどんなことで笑うのか、どんなものが好きなのか、まるで思い出せないんです」

「――それは、心を守るためにそうなっているのかもしれないよ」

「心を守るため?」

「思い出すのもつらいような記憶は、反芻されるたびに心を傷つける。だからあまり繰り返し反芻されないように、自動的に思い出せないようになっているのかもしれない。それは人間の自然な心理的作用だ。だれでも、つらい思い出はすぐに輪郭が曖昧になり、つらい、ということしか思い出せなくなる。具体的な出来事は忘れてしまって、そこにある気持ちだけが残るんだ」

 それは大輔流の慰めなのだろうとソフィアも理解している。若いころならともかく、いまのソフィアには、そうした回りくどい慰めが不思議と心地よかった。

「ダイスケさまにもあるのですか」

「忘れてしまったつらい記憶が? まあ、ひとつやふたつあるだろうなあ。別に、いまになってみれば大したことじゃないけど――ぼくは両親がもう死んでいる。直接その様子を見たわけじゃなくて、唐突にそう知らされただけだけど、そのときはたしかにつらかったような気がするよ。もうよく覚えていないけど――忘れてるってことが、つらかった証拠なんだろうな」

「そうなんですか――でも、すこし不思議な気がしますね」

「不思議?」

「ひとって、だれでも大きな絶望や耐えきれないような悲しみを経験するものでしょう」

「まあ、そうだな、ひとそれぞれ出来事にちがいはあるだろうけど、そのひとなりにつらかったり悲しかったりする出来事は必ずある」

「でも、ひとは生きていける」


 大輔は驚いたように顔を上げ、ソフィアを見た。

 ソフィアは大輔の瞳の奥を見つめながら微笑む。


「ひとは生きているんです。想像もできないような悲しみがあっても、二度と笑えなくなってしまいそうな出来事を経験しても、なんだかちょっとしたことで笑ってしまったり、喜びを感じたりする。それって不思議なことですよね」

「不思議なこと、か――そうだなあ、ある意味では当然のことだけど、不思議といえば不思議なことかもしれない。ひとが生きていく、というのは」

「それじゃあ、ひとが死んでしまうことも不思議な出来事だということになりますね」

「うん、そうなるね。まあ、そうでなくても、人間が生まれる瞬間と死ぬ瞬間は一種の神秘だ。単なる生物の発生と消滅なんだけど、それとはちがう複雑な心理状態になる気がするよ。それはもしかしたら、生まれたり死んだりする瞬間を目撃することで、自分自身が生まれ変わったり意識を持ちながら死を体験したりするってことなのかもしれない。そのときに重要なのは、これからも生きていく、ということだ。これからも生きていかなければならないという前提に立ってみれば、あらゆるものが神秘に見える。いつ死んでもいい、もう死んでしまいたい、と思いながら見つめれば、どんな出来事も色褪せて見える」

「――本当に、そうですね」


 ソフィアは実感を込めてうなずく。

 理屈のうえで納得したのではなく、そうした変化をソフィアは体感的に理解していた。


 ソフィア自身のなかで、周囲の色彩が変化したような感覚はいままでに二度あった。


 一度目は、子どもを産んだとき。

 自覚的ではなかったが、のたうつような痛みがずるりと抜け落ちるように過ぎ去ったとき、周囲のすべてが一瞬にして質感を変えたような気がした。

 おそらくそのときは母親になったのだという自覚が芽生え、それまでより意識的に「生きなければならない」と考えたせいだろう。

 ひとりの人間としてではなく、これからは母親として、自分勝手に死ぬことは許されなくなったのだと理解した瞬間、世界の見え方が大きく変わった。


 二度目は、その子どもと、夫を失ったとき。革命軍によってカイゼルが落とされ、焼け落ちようとしている町から逃げ出したときである。


 瓦礫をかいくぐり、まだ戦闘が継続している町を抜けて外へ出たとき、自分がなにもかも失ったのだと理解した瞬間、空が言いようもなく青く感じたり、植物の緑がぞっとするほど鮮やかに感じられた。

 それも、これからは生きるという意志を持たなければ生きてはいけないのだと理解したせいかもしれない。


 カイゼルにいたころは、何事もなければ生きていけた。

 そこに女同士の争いはあったが、生きるという意志とは無関係に生かされているような気がしていたのだ。


 カイゼルがなくなり、家と家族を失ってみれば、もう自分の身を守ってくれるものはなにもない。

 生きていく、生きていたい、という意志を持たなければ生きていけない環境になって、はじめて本当の世界の色を認識できるようになったのである。


「なんにせよ、この世界も人間も不思議なことだらけだよ」


 大輔はため息をつくように言った。


「ぼくはその不思議を、自分の手の届く範囲で解き明かしたいだけだ――だめだな、やっぱり見つからないか。まあ、しょうがないな」


 大輔は持っていた文献をぱさりと床に置いて、ちいさく首を振った。

 それからちらりと頭上を、明かりとりの窓から見える暗い夜空を見上げる。


「そろそろ部屋に戻るとするかな。朝になって、だれかに見られたら厄介だし」

「そうですね――わたしも、眠れそうです」

「それはよかった。おーい、おまえら、そろそろ部屋に戻るぞ」

「あ、はーい」


 大輔はソフィアから蝋燭を受け取り、梯子をするすると下りる。

 ソフィアもそのあとに続き、図書館を出て、雲が浮かぶ夜空を見上げた。


 雲の切れ間から見える星々は美しい。


 そう思えるのは大輔のおかげだろうと、ソフィアは思った。



  *



 ベロニカには、修道院のなかにあるちいさな一室が与えられていた。

 しかしベロニカはその部屋は使わず、その夜、修道院の外、馬小屋の横でしゃがみこんでいた。


「えっと、これがこうだから、こっちをこうして、と――」


 まばらな星明りの下、どうやらちいさな紙を整理しているらしい。


 それは、一枚一枚が魔術陣である。

 予め紙に描いておいた魔術陣が百枚近くあり、それをいくつかの組に分け、確認して、うんとうなずく。


「これでよし、と。あとは武器庫のなかからいろいろ拝借するだけでいいから、いつでも行動に移せる」


 重要なのは、いつ行動に移すかということだ。

 ベロニカはすこし息をつき、考える。


 もともと、ベロニカが修道院のなかへ入ったのは、内部の様子を観察するためだった。

 その目的はすでに果たされたといってもいい。

 敵の数、武装状況、武器庫の中身、戦闘能力、すべてが把握できている。

 本来なら修道院内でちょっとした問題を起こし、それを把握するつもりだったが、そうするまでもなく偽革命軍がやってきたのは好都合だった。


 全体として見て、マグノリア修道院は決して脆弱ではない。

 規律があり、統率のとれた戦闘集団であり、非常に縦と横の結びつきが強い組織である。


 敵に回すよりは、味方に入り込んだほうが楽だ、と思わせるような組織だ。

 だからこそ、いまも世界中の女たちがこの修道院を目指している。

 修道院の仲間になれば安全だ、と信じて。


 しかしベロニカにとっては、仲間とはそれほど簡単なものではない。

 ある組織に所属すれば、たちまちその組織のすべてが仲間になるわけではない。

 仲間というのは、本当の意味で命を預けられる相手のことだ。

 それは、このひとなら絶対に自分のことを殺しはしないだろうという相手でもある。

 たとえ背中を見せても、武装もなにもしていないありのままの姿を見せても、このひとは絶対に自分を殺さない。

 その信頼があるからこそ、仲間と呼べる。


 そういう意味では、仲間などそう簡単にできるものではない。


 ベロニカには、仲間はたったひとりしかいない。

 大湊叶しか。


「――明日にしよう。明日、この修道院を攻撃する」


 そして叶のもとに戻り、褒めてもらうのだ。

 よくやった、と。

 きっと叶なら褒めてくれるだろう。

 そう確信できるからこそ、叶のために働ける。


 でも、とベロニカは頭の片隅に引っかかりを感じていた。

 その正体は意識するまでもなく理解している。


 図書館で会うあの女、マサコとかいうあの女のことである。


 あの女は、正体は未だによくわからないが、とくに優れた魔術師であることは間違いなかった。

 ほかの魔術師を見て、もしかしたら自分より優れているかもしれない、と感じるのははじめてのことだった。

 そしてそれが不快ではなく、むしろある意味では仲間を見つけたと思えるくらいなのがわれながら不思議だった。


 あの女はどうするだろう。

 逃げろ、と伝えたが、そうするかどうかはあの女の自由だ。

 無理やり逃がすようなことはできないし、もしマグノリア修道院を襲撃するにおいてあの女が邪魔になったら、それを力づくで排除しなければならない。


 自分にそれができるだろうか、とベロニカは考え、できるはずだと自分に言い聞かせた。


 できれば、あの女を殺したくはない。

 せっかく見つけたかもしれない仲間だ。

 しかし、叶を裏切るようなことは絶対にできない。

 叶を裏切るというのは、叶に裏切られる、ということだ。

 そんなことには耐えられないのだから、ベロニカは決して叶を裏切れない。


 もしあの女が邪魔をすれば、それを殺してでもマグノリア修道院を落とす。

 ベロニカはそう決心し、立ち上がった。


 それと同時に、すこし離れたところで、なにかが草を踏みつけるような足音が聞こえた。


 ベロニカは反射的に振り返る。


 あたりには、ほんのわずかな星明りしかない。

 その星明りさえ、ゆっくりと浮遊する雲がぴたりとその門扉を閉ざし、掻き消えてしまいそうになっていた。


 風がわずかに吹いている。

 ベロニカはその風で、相手は複数だと知る。


 焦る気持ちはなかった。

 冷静に暗闇を眺め、相手の位置を確かめようとする。


「――また例の革命軍ってやつね」


 ベロニカは嘲笑するように言った。

 その一声で、見えない姿が揺らぐ。


「あのまま、引き下がれるか――こんなところにひとりでいたら危ないぜ、お嬢ちゃん」


 草を踏む足音がゆっくりと近づいていた。

 一方向からではなく、左右からも挟みこむように迫っているのがわかる。


「このへんには、危ない男たちがいるからな」

「残念――あたしはそれ以上に危ない女だと思うよ」


 ベロニカは暗闇でにっと笑い、先ほど整理したばかりの紙の束から数枚を取り出した。

 その紙に、手のひらを当てる。


 魔法は、あまり得意ではない。

 その道での才能はないとわかっているのだ。

 魔法よりも魔術が専門だが、その魔術を試す程度の能力なら充分にある。


 ベロニカの手から、五、六枚の紙がふわりと浮き上がった。


 暗闇に白い紙が浮遊する。

 やがてその紙は、風に吹かれたようにひゅんと動いて、姿のない男たちに飛びかかった。


 暗闇から叫び声と悲鳴が響く。

 どさり、となにか重たいものが倒れるような物音も聞こえてきた。

 ベロニカはそうした物音を聞きながら、暗闇のなかで平然と直立していた。


 そうした悲鳴や叫び声はしばらく続き、やがてぱたりと途絶える。

 声を上げる主が、いなくなったのだ。


 風が抜ける。

 そこに、赤い糸が織り込まれたように、血の匂いが混ざっている。


 雲が揺れた。

 星明りがさっと差す。


 暗闇のなかで抜身の剣がぎらりと輝いた。

 ベロニカの笑顔が、その輝きに反射していた。

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