修道院にて 7
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図書館から慌てて逃げ出した大輔は、人気のない廊下でふうと息をつく。
「あ、危ねえ、もうちょっとでばれるとこだった……いや、もしかしてもうばれたかな? ばれてない、よな?」
もしばれたらどうなるか、と考えて、大輔はぞっと身体を震わせる。
もし女装して潜入していることがばれれば、よくてスパイとして追い出され、悪くて変態として追い出されるだろう。
もちろん、そのときの精神的ダメージは変態扱いのほうが大きい。
それだけはなんとしても避けなければ、と思う。
なんにせよ、まだ調査が済んでいないのだから、いま見つかって追い出されるわけにはいかないのだ。
大輔はフードをしっかりかぶり直し、俯いて周囲から顔が見えないように気をつけながら、廊下を進む。
「あ――あの魔術陣、置いてきちまったな。ま、いっか。別になにに使えるわけでもないし」
まだ試行錯誤途中の、おそらくは使い物にならない魔術陣だ。
だれかに見られてもとくに問題はないが、まさかこの状況で同じ魔法使いに出くわすとは思わなかった。
それは、黒いワンピースを着た少女だった。
年はおそらく燿たちと同じか、あるいはそれよりも一、二歳年下だろう。
顔立ちを見るかぎり日本人とは思えず、どちらかといえば北欧的な雰囲気のある肌の白さが印象的だった。
しかし髪は黒く、ワンピースもそれに合わせたような漆黒、ただ襟だけが白いレースになっていて、どこぞの令嬢が避暑地で着ていそうなものだった。
そんな少女でも、あれはおそらく優れた魔法使い、あるいは魔術師だ。
大輔はそれに気づいていたからこそ、自分の正体まで気づかれる恐れがあると逃げ出したのだ。
なにしろ少女は、大輔の描いた魔術陣を見て、なかなかよくできている、と言ったのだ。
魔術陣は想像を絶するほどデリケートなものである。
ほんのすこしのずれで効果が変わったり、魔法の発動そのものが失敗することも珍しくはない。
そんな魔術陣を一目で「いい」か「悪い」か見分けられるのは、ごく限られた優秀な魔法使いだけだろう。
しかも、普通の魔法使いは、踊り文字など存在すら知らないにちがいない。
少女は大輔に、この文字が読めるのか、と聞いた。
それはつまり一般的には読めるはずのない文字だと知っていたから、そう言ったのだ。
あの少女はおそらく魔術師なのだろう。
それも知識に憑かれた、根っからの魔術師。
そうでもなければ魔術陣を究明することなど不可能なのだ。
「ぼくよりも十くらい年下なのに、えらいもんだなあ……ぼくも年を取ったってことだ」
はあ、とため息をつく大輔の背中を、だれかがぽんと叩いた。
「ひゃうっ」
「きゃっ――」
ここにいることがそもそも後ろめたい大輔がびくりと身体を震わせると、叩いたほうも驚いて声を上げ、同じ廊下を歩いていた修道女たちが何事かと振り返った。
大輔は慌ててフードで顔を隠し、そっと振り返る。
後ろに立っていたのは、同じく白いローブを着ているが、フードまでは被らず、その豊かな金髪を背中へ流しているソフィアだった。
ソフィアは驚いた顔で大輔を見て、それからすこし申し訳なさそうに眉をひそめる。
「ごめんなさい、そんなに驚かれるとは思わなくて」
「い、いや、ぼくが勝手に驚いただけだから――とにかくここは人目があるから、どこか別の場所に」
「ええ、向こうの回廊ならだれもいませんでしたよ」
ふたりして中庭に面した廊下を出て、修道院の外周をぐるりと取り囲んでいる回廊に向かった。
その回廊は風通しもよかったが、すぐ目の前に高い塀があることと、その回廊からは修道院内の部屋には入れないということがあって、昼間でも人通りはほとんどない。
そこなら大輔も安心して声を出すことができた。
「驚かせてしまってごめんなさいね」
ソフィアは改めて言って、吹き抜ける風に髪を揺らす。
「図書館の前で見かけてはいたんですけれど、顔がよくわからなくて、本当にダイスケさまかどうか確信がなかったものですから……」
「ああ、そりゃ一応顔を隠しながら生活してるからね。ここ三日くらいは、七五三たちにしか顔を見られてないし」
大輔も周囲にだれもいないことを確認し、フードを外した。
そうして顔に風を当てると、なんとなく生き返ったような心地になる。
ソフィアはそんな大輔の顔を覗いて、
「今日はお化粧していらっしゃらないのですね」
「あ、あれは初日だけ! しかもめちゃくちゃ不本意だったんだよ」
「よくお似合いだったのに」
ソフィアはくすくすと笑う。
「でもまあ、案外ばれないものだよ。まさか男が入り込んでるとは思ってないせいもあるだろうけど」
「それか、ダイスケさまが本当に女の子っぽいとか?」
「それだけはないね。男のなかの男というならまだしも。まあとにかく、ここの暮らしはそんなに悪くない。あなたたちは?」
「わたしたちもなに不自由なく暮らしています。食事も、寝る場所もある。修道院というからにはもっと規律が厳しいのかと思っていましたけど、そんなこともありませんし。一日の大半は自由に使えますから、むしろなにをしていいのかわからずに困っているくらいです」
「それはよかった。いっしょにここまでやってきたかいがあったってもんだ」
「ダイスケさまは? 調べ物のほうは、順調に進んでいらっしゃるの?」
「まあね。三日かかって、ようやく道筋が見えてきたところだ。さすが、マグノリア修道院の蔵書は膨大だよ。本当にすべて調べようと思ったら何年かかるか――」
あまりにも膨大な蔵書のなかから自分にとって有用な書物を見つけ出すだけでもひと苦労なのだ。
さらにそこから重要な書物を読み込み、さらに行為範囲にまで調査の手を広げるとなると、ひとりではもはやどうにもならない。
「古代文字を勉強しといてよかったよ、まったく。こんなところで本当に古代文字を読むとは夢にも思ってなかったけど」
一部の遺跡でしか発見されていない古代文字「踊り文字」を地球で解読し、勉強したときは、あくまでだれもやっていないことをやってやった、という満足感だけだった。
まさかそれがいまになって役に立つとは、と大輔は自分の先見性に感心し、やはりぼくは天才だなとひとりでうなずく。
ソフィアはそんな大輔の横顔を眺めながら、風に揺れる髪を耳のあたりでそっと押さえた。
「ダイスケさまは――なんのために旅をしておられるんですか?」
「ん、ああ、そういえば言ったことなかったっけ。ぼくは地球では教師なんだよ、一応。で、あいつらは教え子。こっちの世界に研修できたんだけど、ちょっと事故があって帰れなくなっちゃってね。旅の目的は単純で、向こう側へ帰る方法を見つけるってことだ。いま図書館でやってる調べ物もそのことなんだよ。なにか地球へ帰る確実で安全な方法はないかと思ってね」
「地球へ――それは、教師としての意見なんですか?」
「ん?」
「それとも、ダイスケさまも地球へ帰りたいと思ってらっしゃるんですか?」
「ぼくは――」
痛いところを突かれたような気がして、大輔は言葉に詰まる。
燿たちを無事地球に送り届けなければ、というのは、疑いなく教師の努めだ。
教師だからこそそう思うし、仮に教師という立場を捨てたとしても、少女三人を地球へ送り届けるというのは一種の義務だと感じる。
しかし、もし燿たちがこの場にいなかったら。
もし保護者としてではなく、ひとりの人間としてこの新世界に立っていたら、それでも地球へ帰りたいと感じ、実際地球へ帰るために長い旅をしてその方法を探し求めるか。
おそらく、そうはしないだろうと大輔は思う。地球へ帰りたいとは思うかもしれないが、叶がすべての「扉」を破壊した時点で諦めたかもしれない。
叶なら本当にすべての「扉」を破壊できる、それなら地球へ戻る手立てはなにもなくなったということなのだから、そう望んでも無駄だと考えたかもしれない。
地球は、大湊大輔にとって絶対必要なものではない。
つまりはそういうことだ。
地球が消滅するかなにかで自分自身と完全に切り離されてしまっても、さほど感傷と呼べるものは浮かんでこない。
大湊大輔は地球に依存し、地球が存在しているからこそ生きていられるわけではない。
大湊大輔の存在理由は別にある。
それはもしかしたら、地球よりも新世界で生きるほうがふさわしいかもしれない理由だ。
「ごめんなさい、くだらないことを聞いて」
ソフィアはゆるゆると首を振った。
「もちろん、故郷へ帰りたいと思いますよね。それが当たり前の感情ですもの」
「まるで当たり前以外の感情があるみたいな言い方だ」
「わたしは、いまの暮らしが好きです。こうやってこの修道院で暮らすことが好きになりつつあります。平和で、なにも起こらない世界。戦争もないし、夫が留守のあいだは家を守らなければならないという義務もない。それに、夫が戦争から帰ってくると聞いて、恐ろしいような気持ちになって自分を責めることもない」
ソフィアは大輔を振り返り、ちいさく笑った。
「わたしは妻失格でした。ろくな女じゃなかったんでしょうね」
「ぼくは、そうは思わないけど」
大輔は、ソフィアからすこし目を逸らす。
「ぼくが見たところ、あなたは立派なひとだ。ただ、ほかのひとたちより潔癖なだけで」
「潔癖?」
「自分の汚れが許せないんだよ。普通、人間っていうのは汚れてるもんだ。外からはどんなにきれいで清廉に見えても、本人しかわからない、行動に移さなかった悪事の企みや表に出さなかった負の感情でできた心の汚れが絶対に存在する。普通は、それを認めるしかない。人間はみんなこういうものだ、と。でもあなたはそうやって自分を許せなかった。自分にしかわからない自分の汚れを許せなかったから、そう思うだけだ。ぼくから見れば、あなたは清廉潔白、まったく汚れていないけどね」
自分の言葉はおそらく無意味だし、空虚にしか響かないだろうと大輔は理解している。
なぜなら、もし自分が同じように言われたとしても、そうか、それなら悩む必要はない、とは思わないだろう。
それは所詮、他人の意見にすぎない。
自分で自分が醜く見える、というのは自分自身の問題で、他人からどう見えるかというのは次元がちがう、的はずれな意見にすぎない。
自分の心は汚れている。それは、自分は自分である、と認識するところに由来する汚れだ。
自分が自分である以上、その汚れは決して消えないし、薄くもならない。
唯一の対処法は、見ないようにする、ということだけだ。
そうしてやり過ごす以外に、その汚れから遠ざかる方法はない。
「ダイスケさまは――お若いのに、ご立派ですね」
「まあね。ぼくは人類的に見ても稀有の大天才だから、そりゃ立派さ」
「本当に」
ソフィアはくすくすと笑う。
そうすることで自分の醜さから一歩遠ざかることができるのだ。
「ダイスケさま、この修道院にはどのくらい滞在なさるのですか?」
「さあ、興味深い文献がたくさんあるから、できればいつまでもいたいけどね。でもぼくの正体がばれる前には出ていかなきゃいけないから、あと十日くらいだと思う」
「十日――そう、ですか」
「まあ、状況によってはそれより短くもなるし、長くもなると思うけど。なんにしてもぼくたちもあてがない旅だからね。それに、今日中庭のところで雑談してるのを聞いたんだけど、革命軍の影はぼくが考えてるより早く世界中に広がってる」
それは、昨日この修道院へきたらしい女たちが話していたことだった。
――革命軍は世界のほとんどを支配してしまって、まだその支配の外にあるのは、このマグノリア修道院と北にある国グランデル王国だけらしい。
もちろん、それが本当の情報かどうかはわからない。
しかし革命軍の進行速度を考えれば、あり得ない話ではない。
革命軍は本当に世界のすべてを支配するつもりでいるのだ、大湊叶は。
だからこそ、もう時間的猶予も、空間的猶予もない。
「ぼくたちはちょっと事情があって革命軍と敵対してるんだ。だから革命軍が支配してる町には寄れないんだけど、そうなってくるともういける場所が限られてくるからね」
「革命軍が支配していない町、ですか。それじゃあ、この世界のすべてが革命軍に支配されてしまったら、どうするのですか?」
「この世界がすべて革命軍に支配されてしまったら? そうだなあ、それこそ、地球へ引っ込むくらいしかないだろうな」
あるいは、と大輔は思う。革命軍の、叶の最終的な目的はそこなのかもしれない。この新世界のすべてを手中に収めるのは、あくまで地球文明に対抗する手段、つまり兵力を集めるためだけではないか、と。
叶は地球まで支配してしまうつもりなのかもしれない。
しかし地球では、魔法は使えない。いくら叶が比肩するもののない、桁違いに強力な魔法使いだとしても、その魔法が使えない地球ではひとりの人間でしかないのだ。独力で地球を支配することなどできるはずがない。
だからこそ、新世界で自分の配下となる人間を集め、その人間を引き連れて地球へ戻り、支配していくつもりなのかも――いや、そんなはずはないと思い直す。
叶は、そもそも、なにかを支配するということにそれほど情熱は感じていないだろう。
昔から支配欲など皆無だった。
支配欲だけではなく、叶はすべての欲望から切り離されていたようだった。
子どものころ、叶が喜んで食事をしていた記憶がない。
かといって食べないわけではなく、身体を維持するために仕方なく、つまり事務的な作業として食べているような表情だった。
食事というのは、変わり者の心理学者が言ったように、ひとつの快楽である。
そもそも人間は、生きるためにしなければならないこと、その必須事項を快楽として感じる性質がある。
食事というのは人体の維持に必要不可欠なものであり、食事をする、満腹になる、というプロセスには必ず充実感や快楽が伴うはずだが、叶はそうした快楽から切り離され、生きているということすべてに喜びを見出だせないようだった。
では、なぜ生きているのかといえば、惰性や習慣にすぎないのだろう。
目的があって、喜びがあって生きているのではなく、今日死ななかったから明日も生きる、明日も死なないなら明後日も生きていく、というだけのことにすぎない。
そんな人間が、なにかを支配するということに喜びを覚えるはずがない。この新世界を支配するというのも、叶にとってはなんの満足も喜びもない行為なのだろう。
目的はおそらく別にあるか、目的などはじめから存在していないかのどちらかだ。
新世界を支配する目的。
ナウシカ。
叶は、その名前を口にしていた。
ナウシカとはいったいなんなのか。
叶は、どうしてその名前を知っているのか。
叶が知っているということは、人間が閲覧できるものに記されていたか、だれかがその知識を持っていたということだろう。
つまり、この修道院内の図書館にナウシカの情報がある可能性もある。
「なにを考えていらっしゃるんですか?」
ふと気づけば、ソフィアが顔を覗き込んでいた。
大輔は首を振って、
「別に、なにも」
「またそうやってごまかすんですね」
「ごまかしてるつもりはないんだけどな。ほら、あれだよ、男は謎があるほうが魅力的だってね」
大輔が気取ったポーズを取ると、ソフィアは笑いもせず、まじめな顔でうなずいた。
「たしかに、そうかもしれませんわ」
「い、いや、あの、いまのはつっこみどころだったんだけど」
「でも、本当のことじゃありません? 男も女も、すこし謎があるほうが魅力的です」
「う、そ、そうかな、ぼくはあんまりそうは思わないけど――さ、さて、そろそろ部屋に戻るとするか。だれかに見られたらえらいことだし」
大輔はなにかを察して、そそくさとフードをかぶり直し、踵を返した。
ソフィアはなんとなくすねたように唇を尖らせたが、仕方ないと諦めるようにため息をつき、大輔の後ろから回廊を出る。
だれもいなくなった回廊に、ふと風が抜けていった。
その風を感じるものはだれもいない――と思いきや、回廊にずらりと立ち並ぶ黒い柱の影から、白いローブを着た人影がふらりと現れる。
フードを目深に被り、すこしうつむくようにして顔を隠しているその影は、先ほどまで大輔とソフィアが並んで立っていた場所を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「あの男――敵か、味方か」




