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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
修道院にて
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修道院にて 6

  6


 ベロニカはマグノリア修道院が一目見たときから気に食わなかったが、その蔵書はさすがといわざるを得なかった。


 それはまさに一大図書館である。


 この世のすべてが収められているというのも決して過言ではないと思わせるような、とてつもなく巨大で充実した図書館である。


 図書館はマグノリア修道院の中央、入り口から見れば、中庭を超えた向こう側にあった。


 図書館自体、マグノリア修道院からは独立した建物になっていて、図書館は修道院のどの建物からも直結した廊下がない。

 入るためには中庭を通り、正面の入り口を利用するしかなく、それ以外には窓を除いて出入り口はなかった。


 その閉ざされた空間は、しかしあまりに巨大で、閉ざされているとはなかなか気づけない。


 天井は十メートル以上あり、奥行きはその何倍あるかわからず、その巨大な空間はすべて本棚で埋め尽くされていた。


 一歩入れば、古い紙の匂いに包み込まれる。

 それはやさしいような、懐かしいような匂いだった。

 ベロニカは入り口に立ったまま、ぐるりとなかを見回す。

 くすんだ色の古い本棚が壁際といわず迷路のように入り組んで配置され、全部で三階あり、天井までは吹き抜けだが、その周囲は完全に本で覆われている。

 本という巨大な生物の胃袋にでも飛び込んだような感覚だった。

 それがこのマグノリア修道院の図書館なのだ。


 本棚のほかに、一階部分には机がいくつか置いてあった。

 そして思ったより利用者が多く、あちこちで白いローブの裾がはためいている。

 修道院のなかに入ったとき、その出身地と名前をすべて記録していたことにも驚いたが、ほかの国や地域に比べ、このマグノリア修道院の識字率は恐ろしく高い。


「修道女、なんて保守的な存在じゃないみたい。それより、学者のほうが似合いそうだもん」


 ベロニカはぽつりと呟き、図書館の奥へと進んでいった。


 図書館は、もちろんのように静寂に包まれている。

 ときおり、だれかの足音や、紙をめくる音が聞こえてくるくらいで、話し声のたぐいはすこしも聞こえてこなかった。

 それだけこの図書館は神聖化されているのか、学問というものがほかの国では考えられないほど重要なものとして扱われているのだろう。

 ただそれだけでも、この修道院は侮れないとわかる。


 学問をないがしろにするような国、人々は、恐るるに足りない。

 なにも手を下さなくても自然消滅していくだろう。

 しかし学問の重要性を、つまり人類の発展性を理解している人間たちは厄介だ。

 たとえ危機に瀕しても決して諦めることがなく、その意志は、ある意味では死をもってしても断ち切ることができない。


 そういう意味では、学問と宗教は同じものを目指しているといえる。

 つまりどちらも死後の世界を想定し、そこから現在の自分の在り方を規定しているのだ。


 宗教は、人間の根本的恐怖を和らげる、という目的のためだけに存在している。

 崇高とされるものはすべてそこから発生したもので、宗教の根源は常に死への恐怖であり、存在の消滅に対するひとつの防御策でもある。

 学問も同じだ。


 本来、自分という存在が消滅してしまえば、自分を構成していたあらゆるものが失われる。

 そこには自分の肉体のほか、自分の精神、思想というものも含まれる。

 つまり、死んでしまえばすべてが終わり、というわけだ。

 それまでどれだけ偉大な発想を持ち、偉大な仕事を成し遂げてきたとしても、死んだ瞬間にそのすべてが失われるのでは悔しい、だからこそ死のあとも自分の存在を残さなければならない。


 学問は、功績として過去の人間の存在が残る。

 自分が閃いた問題を、次の世代へ託すことができる。

 そうすることで肉体は死んでも精神は死なず、だれかの新しい発見の基礎となり、やがて社会を作る礎石となる。


 宗教ではそうした功績を魂と呼ぶ。

 魂は決して消滅しない、魂というものはいま現在の在り方によって左右されるものだ、だからいまをしっかりと生きなければならないと説き、自己のすべての消滅という悲劇から人間の精神を守っているのだ。


 だからこそ、宗教施設に学問の空間があることは決して意外ではない。

 ただ、この新世界、まだ社会という観念自体が確立されていないこの新世界において、それだけ宗教と学問を理解している人間がいるのだ、というのは意外だった。


「――もしかしたら」


 ベロニカは本棚を見て回りながら、ふと思いつく。


 もしかしたら、このマグノリア修道院には地球人が関わっているのかもしれない。


 マグノリア修道院が設立されたのは、噂によればいまから千年近く前だという。

 それが本当かどうかはわからないが、仮に千年ではないにしても、相当古い施設だということはわかる。

 その創立に地球人が関わっていたとすれば、千年前の地球人、あるいは数百年前の地球人に、それだけの知識があったかどうか。


 一部の賢人は、二千年も前から人間と社会と宗教と学問の本質を見抜いていた。

 そうした賢人が新世界へやってきて、修道院という形で自分の存在を残したのだとすれば。

 この修道院は、ある地球人を始祖とする宗教をいまでも色濃く残しているのだ。


 そういう意味でもこの修道院は興味深い、と思いつつ、ベロニカは本棚から何気なく一冊取り出してみる。

 それはどうやら歴史の本らしく、かっちりと製本されていた。

 ほかには製本どころかそのまま巻物として残されているようなものも多くあって、製本されているのは比較的新しく、また知識や学問というより一種の嗜好品として作られたのだろうとわかる。

 中身は嘘か本当かもよくわからない歴史書だ。


 現在流通している書物のほとんどは宗教に関係するものである。

 まだ印刷技術が未発達な新世界において、その苦労をしてまで印刷する必要があるものは宗教における聖典に限られているのだ。

 創作物はほとんどなく、あったとしても宗教の聖典に物語をつけ、理解を易くしたもので、歴史書も個人の研究家が執筆したもの、それをだれかが転写したものがほとんどで、書かれている事柄の真偽には不明な点が多い。


 まだこの世界には、万人に認められた歴史、というものがあまりない。

 もちろん大きな国の流れはだれもが知るところだが、よその国の歴史まではわからないし、つまり社会全体として見たときの歴史、国同士の相互関係が欠如していて、そもそも歴史というのは書く人間、書かれた環境によって異なるものだから、複数の歴史書で矛盾点があることも珍しくはないのだ。


 ベロニカは本を棚に戻し、さらに見ていく。

 ベロニカが求めているのは歴史書ではない。

 この図書館のどこかにある、魔術について書かれたものだ。


 歴史の不確かさでいうなら、地球でも大した違いはないのかもしれない、とベロニカは思う。

 地球では、新世界には魔術も魔法も存在しない、ということになっている。

 それが地球で一般的に認識されている新世界の歴史だ。

 しかし本当は、新世界にも魔術や魔法が存在する。

 あるいは、存在していた。

 古代の遺跡を探ればその証拠はいくらでも出てくるのだ。


 新世界人も、かつては魔術を用い、魔法を使っていた。

 しかしいつしかそれは廃れてしまって、いまでは新世界人自身も自分たちの先祖が魔法を使っていたとは思っていない。

 いったいなぜそうなってしまったのか、そして古代の新世界人が使っていた魔術、魔法とはどんなものなのか、ベロニカは知りたいのだ。


 本棚に沿って奥へ奥へと進み、一階部分にはなにもないと考えて、梯子を使って二階へ上がった。

 手すりがついた木製の細い廊下に沿って、本棚がずらりと続いている。

 どうやら上に行けば行くほど本の内容が一般から遠ざかっていくらしく、二階部分にはあまり利用者もおらず、最上階にあたる三階にはまったく皆無だった。

 それなら、とベロニカは三階まで一気に上がって、本棚を眺めて歩く。


 そのあたりは、もはや本棚というより紙やらなんやらが雑多に置かれているだけだ。

 一応本棚としての形はあるが、ちゃんと製本されているものはほとんどなく、そこに巻物が並べてあったり、黄ばんだ紙がそのままに置いてあったりするのだ。

 保存方法としては相応しくないのだろうが、これだけの蔵書を管理するだけでも大変だろうし、いずれはここも分類整理されるのかもしれない。


 ベロニカは詰まれている巻物をいくつか取って、それをさっと広げた。

 天井近くの明かりとりから差し込む弱い光に、薄く質の悪いがさついた紙が透けて見える。


 文字は、もともとそうなのか、あるいは劣化してしまったのか、ごく薄くしか残っていなかった。

 目を細めて拾い集めるように読むと、これはどこかの国のどこかの政治家が書いた、一種の自伝のようなものらしい。

 ベロニカはすぐに興味を失い、くるくると巻き直して棚へ戻す。


 自伝というのは、宗教の聖典に続いて古くからあるものだ。

 あるいは宗教そのものが神の自伝なのだと言えなくもない。

 聖典はまさに聖人自身の自伝だし、そう考えれば、ひとは古代から自分をなにかに記しておくことに大きな快楽を覚えていたらしい。


 それもおそらくは死に対抗する手段のひとつだろう。

 自分を完全に消し去ろうとする暗闇を払うことはできないが、そこに光を残すことならできるかもしれない、という人類の悲願につながる試みだ。


 自分の人生を記すことで、おれはここにいたのだ、と後世へ向かって叫ぶことができる。

 自伝にかぎらず、すべての創作物の根本はそこだろう。

 おれはここにいた、ここでこんなことを考えて生きていたのだ、と表明すること、それが創作なのだから、あらゆる仕事はその一環といえる。


 ベロニカは、自分もまたその自伝を記そうとしているのだろうか、と考えて、すこしちがうなと思う。


 ベロニカは死が怖いとは思わない。

 自分というものがまったく消えてしまうことを恐ろしいことだとは思わないのだ。


 むしろ、自分など消えてしまってもいいとさえ思う。

 自分自身の存在はいなくなってしまってもいい。

 それで世界が終わったとは思わない。

 自分が消えても、大湊叶というひとが生きているかぎり、世界は続く。


「――あ」


 棚に沿って歩いていくと、すこし前方に白いローブの人影があることに気づいた。

 一直線の通路で、そこまで近づくまでまったく気づかなかったのは、その人影がまるでうずくまるように身をかがめているせいだった。


 おまけに、ただでさえ狭い通路を、その人影は完全に塞いでいる。

 うずくまるならよそでやれ、と思いつつ、ベロニカはため息をつき、人影の後ろに近づいた。


「あの、体調でも悪いの?」

「ん、いま忙しいからちょっと――」


 と妙に低い声が返ってきたと思うと、その人影はびくりと身体を震わせ、なぜか慌ててフードを目深にかぶった。

 ベロニカは首をかしげて、


「なにしてんの?」

「い、いや、別になにもしておりませんことよ、おほほほ」

「……別にどうでもいいけど、声、気持ち悪くない?」

「ちょ、ちょっと変な声がコンプレックスなんざます」

「ざます?」


 いろいろおかしいが、まあ、これだけ女たちが集まっている修道院だ、変な女のひとりやふたりいてもおかしくはないだろうと、ベロニカはひとりでうなずく。


「あのさ、そこ、退いてほしいんだけど」

「こ、ここざますか、それは失礼。ちょ、ちょっとお待ちを」


 その人影は慌ただしく床に広げていたらしい紙を横へやり、自分も手すりにぐっと寄った。

 ベロニカはそのすき間を抜け、人影の前に出たが、人影のほうはまるでベロニカの視線を拒むように身体の向きを変えてまたベロニカに背を向ける。


 とにかく、妙な女だった。

 女とは思えない変に低いような高いような声も、その態度も変だったが、ベロニカがいちばん引っかかったのは、その女がなにやら書き物をしているらしいということだった。


 横を通り過ぎたあと、興味を覚え、立ち止まって女がなにを書いていたのか覗き込む。

 そしてベロニカはあっと声を上げた。


「な、なんざます?」

「それ――魔術陣じゃないの?」

「ち、ちがうざます、これはただの落書きで」

「そんなわけないじゃん。魔術陣でしょ、それ。あんた、魔法使いなの?」


 魔法使い、すなわち異世界人である。


 まさかこんなところで魔法使いに会うとは、ベロニカは思い、しかしそれほど意外というわけではないのだと気づいた。


 地球と新世界をつなぐ扉は叶がすべて破壊している。

 つまりそのとき新世界にいた魔法使いたちは地球へ戻る術を失ったわけで、この新世界で生きていくしかなくなったのだが、新世界で新たな住居として選んだ場所を革命軍に襲われれば、ほかの女たちと同じで路頭に迷うことになる。

 とにかく衣食住を確保するため、この修道院に流れ着いていても決しておかしくはない。

 魔法使いといえど、本来はひとりではどうしようもないのだ。


 ベロニカは、相手が同じ魔法使いだとわかり、いよいよその奇妙な女に視線を注いだ。

 しかし女は必死に顔を隠し、ベロニカのほうを見ようともしない。

 顔にコンプレックスがあるのかもしれないな、とベロニカは考えて、それ以上は観察せず、女の手元の紙を取り上げた。


「あ、ちょっと!」

「ふーん、この魔術陣、なかなかよくできてるじゃん。ま、いろいろ甘いとこはあるけど、なんにも参考にせず描いたんならこんなもんでしょ。で、これ、なんの魔法? 見たことないけど」

「こ、これは別にそれほど大したものじゃないざまず」


 フードの下から目が覗いている。

 ベロニカがそれに気づいて視線を流すと、慌ててフードの下に隠れ、また顔をそむけた。

 代わりにベロニカは女が持っていた紙の束をひょいと持ち上げる。


「これは――」


 現存が知られているなかでもっとも時代が古い古代文字、地球の分類では踊り文字といわれている言語が、その紙にびっしりと書き連ねてある。

 古代文字にもいくつか種類があり、いまでは使われなくなったが、現代に残る文字の基礎となった古代文字くらいはベロニカも読めたが、さすがにいまではまったく名残がない踊り文字までは解読できない。

 この女は、この踊り文字を見ながら、魔術陣を描いていたのだ。


「あんた、これ、読めるの?」

「い、いや、その」

「読めたから、この魔術陣を描いたんでしょ。言われてみれば、古い形の魔術陣が混ざってる――」


 しかし基本は、いまでも使われている魔術陣と同じだ。

 そこにベロニカは違和感を覚える。

 古代の魔術陣は何度か見たことがあるが、用途や使用されていた地域によって形はまったく異なり、現代の魔術陣ともまったく異なるものが多い。

 それなのにこの魔術陣は、古い魔術陣を囲むように新しい魔術陣が描いてあるのだ。


 もしかしたら、とベロニカは白いローブを着た女を見下ろす。

 この女は、自分なりに古い魔術陣と新しい魔術陣を組み合わせているのではないか――それはつまり、ベロニカと同等に、あるいはそれ以上に魔術への造形が深く、魔術陣を改良したり、新たな魔術陣を組み上げる能力がある魔法使いだ、ということになる。

 そんな人間は、新世界を探してもふたりといないはずだった。


「あんた、いったい何者――」

「あ、あの、失礼するざます!」

「あ、ちょっと!」


 白いローブを着た女は、ばっと立ち上がるとそのまま背中を丸めるようにして廊下を走っていった。

 梯子もまるですべり落ちるように下りて、図書館のなかから逃げ出していく。

 ベロニカは手すりに捕まってそれを眺めていたが、いったいなんだったんだと首をかしげ、その女がそのまま残していった魔術陣や文献を見下ろした。


 踊り文字は一見、直線と曲線が入り混じって、人間が踊っているさまを表しているよに見えるためにそう名付けられたものだ。

 解読法は、たしか、まだ地球でもわかっていない。


「――それを、あの女は読んでたってこと?」


 およそ考えられないことだが、その証拠はいまもベロニカの手のなかにあるのだ。


 ベロニカは女が描いた魔術陣を握り潰し、それからふんと鼻を鳴らして、踊り文字が書かれた古い書物を見下ろした。


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