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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
修道院にて
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修道院にて 5

  5


「はあ、はあ――」


 女の息遣いが響く。


 広々とした部屋である。


 床、壁、天井はすべて漆黒の石材で、唯一人間の手が届かないはるか高い天井の四隅に四色のステンドグラスがはめ込まれ、西の黄色、東の赤、北の青、南の緑とそれぞれに色づけされた光が部屋に降り注ぎ、床ではそうした色たちが混ざり合い、融け合って、一種独特な名前もつけられていない色の光となっていた。


 そんな光のなかに、汗が輝く。


 部屋にいるのはふたりの女だった。


「ほら、どうした、これでおしまいか?」

「ま、待ってください――あっ、あっ」

「休むにはまだ早いぞ。男ならこんな激しさではない。ほら、これはどうだ」

「あっ、ああっ――」

「もっと汗をかけ、もっと声を上げろ。自分の全身を意識するんだ。自分の肉体がどういう状態にあるのか意識し、それを理解するんだ」

「で、でも、わ、わたし、もう――あっ、んっ――」


 からん、と乾いた音が鳴った。

 女の持っていた、自分の背丈よりも長い木の棒が手からすべり落ちて床を転がったのだ。


 全身にじっとりと汗をかいた女は、そのまま息も絶え絶えに座り込む。

 もう一方の女はまだ余裕があるようにしっかり立ち、棒をくるりと回して、その尻で床をこんと叩いた。


「まだまだ鍛錬が必要だな」

「は、はい――ご指導、ありがとうございました」

「またいつでも言いなさい。向上心のある人間は好きだよ」


 棒術を指導していたらしい女は、長い黒髪を掻き上げて爽やかに笑った。

 それは女性的魅力というより男性的魅力に富んだ笑みであり、疲労で床に座り込んでいた女は言葉もなくその笑顔を見上げる。


 指導役の女は使っていた棒を壁に立てかけ、鍛錬室を出た。

 回廊までいくと、湿気のすくない風が吹いている。

 その風に髪を揺らし、うっすらと汗の浮いた首筋に当てると、身体の芯から清廉になったような、大げさに言えば生まれ変わったような気さえした。


「――院長、グロリア院長」


 回廊の果てから、白いローブの人影が駆けてくる。

 マグノリア修道院の院長、グロリアはその場で待ち受けた。


「本日もそろそろ閉門時間になりますが」

「今日はどのくらいの出入りがあった?」


 白いローブを着た女は紙をぱらぱらとめくり、


「諸事情で修道院を出ていったのが二十三人、そのうち二十人は数日中にも戻る予定ですが、残る三人はそれぞれ別の国へ行くあてをつけているようですので、おそらくは戻らないでしょう。それから、今日新たに修道院へきたのは全部で十人です」

「今日はすくなかったな。それがそのまま、革命軍の働きが鈍ったのならいいんだが。どこからきた女たちだ?」

「ふたりは東の国ルドベキアからの難民です。それから四人は西の国カイゼルから」

「カイゼルの女たちか」


 軍事大国カイゼルの名は世界中に知れ渡っている。

 とくに世界中の情報が集まってくるこの修道院には、カイゼルの女たちがどのような生活をしているのかも伝わっていた。

 男社会で生きる、強い女たちだ。

 そしてカイゼルは、二ヶ月ほど前に革命軍によって国家自体が消滅している。


「カイゼルの女たちがここへたどり着いたのははじめてだな。今後はおそらく増えていくだろう。途中はいくつか危険な場所もある。こちらから人員を派遣し、道中の安全を確保しなければならない」

「は、手配しておきます」

「それで、残りの四人は?」

「残りの四人は――異世界、とあります」

「異世界?」


 グロリアはすこし目を細める。


「自分たちでそう言ったのか」

「はあ、おそらくは――それをそのまま担当者が記入したのだと思いますが、しかしなにかの間違いか冗談のつもりなのかもしれません」

「いや、異世界人がやってきたということはあり得る。いままでやってきていなかったのが不思議なほどだ。その四人はいまどこにいる?」

「おそらくは自室かと思われますが――会いに行かれますか?」

「うん、すこし顔を見てこよう」


 グロリアは回廊から奥の廊下へと入った。

 そこには当然風は抜けず、一瞬爽やかな風が名残惜しそうに振り返ったが、すぐにこれも仕事だという顔になって、ローブの女を引き連れて修道院のなかへと入っていった。



  *



「ここがあなた方の部屋になります。四人部屋で、すこし手狭ですが、どうかご了承を。それから服装に関してですが、基本的に修道院内を歩くときは服装も自由です。しかし修道女として修道院の外へ出るときはなるべくこのローブを着用してください。そうすればだれの目にもマグノリア修道院の修道女だとわかり、あなたたちの身も安全ですから。また、食事は一日二回、決まった時間に行います。そのときにはおそらく近くの修道女たちが誘いにくると思いますから、それに従って食堂へ移動してください。基本的に修道院はどこでも自由に出入りできますが、修道院のいちばん奥にある院長室と武器倉庫だけは立ち入りに許可が必要ですので、ご注意を。ではゆっくり旅の疲れを癒してください」


 ローブを着た女はぺこりと頭を下げ、丁寧に扉を閉めた。紫は部屋のなかを見回し、たしかに手狭だが、生活できないというほどではないとうなずく。


 部屋そのものはせいぜい七畳、八畳というくらいだが、そこに二段ベッドがふたつ並んでいる。

 家具といえばそのベッドのみで、あとは外壁と同じ漆黒の石材が露出しているだけの味気ない室内である。

 しかし野宿に比べればはるかに居心地はいいし、ベッドのシーツも清潔で、寝起きする分には不自由も一切ないようだった。


「立派な修道院ですよね。いったいどうやって経営が成り立っているのかしら。これだけの人間を養うとなったら、食事代だけでも相当になると思いますけど――先生?」

 紫は返答がないことを怪訝に思い、大輔のほうをちらりと見た。大輔は二段ベッドの下の段に腰を下ろし、俯いたままなにかぶつぶつと呟いている。

「ぼくは男だ。いまは事情があってこんな格好をしているのだ。やんごとなき事情があって、これは仕方ないことなのだ。羞恥を捨てろ。冷徹になれ。目的のために手段を選ばない男になるのだ」

「男っていうか、まあ、いまの見た目は女ですけどね」

「う、うるせえ! っていうかフードで顔隠すなら化粧までする必要ないじゃん!」


 ばっと顔を上げた大輔だが、その顔は、決して派手ではない程度に女っぽい化粧を施した顔なのである。

 燿と紫が同時にぷっと吹き出す。

 化粧でごまかしている分、顔の一部を見るくらいなら男だとはばれないが、やはり顔全体を見れば明らかに女とは思えない。

 せいぜい小綺麗に化粧をした男で、事実そのとおりなのだから、シリアスな状況であればあるだけおかしかった。


「うう、なんてひどい話だ。下手をすれば人権問題だぞ、これは」

「まあ、よかったじゃないですか、先生。こうやって無事修道院のなかにも入り込めたんだし。男のままなら絶対に無理ですよ」

「う、た、たしかにそれはそうだけど。成功と引き換えになにか大切なものを失ってしまった気がする」

「本当に大切なものは捨てようとしても捨てられるものじゃありませんよ。はじめからなくなってしまう程度のものです。でもフードなしで出歩くのはやめたほうがいいでしょうね。たぶん、修道院内が爆笑に包まれるか、あっという間に追い出されるかのどっちかですから」

「どっちも地獄だよ、ぼくにとっては……」


 しかしこれも重大な任務を帯びているからこそだ。

 大輔はこの修道院内にある図書館で、この世界に関する情報を手に入れなければならないのである。


 あまり長居をすれば、その分だけ男だと気づかれる可能性が高くなる。

 それならすぐにでも行動をはじめ、ばれる前に逃げるのがいちばんで、大輔は自分を慰めるようにこれから仕事だと気合いを入れて立ち上がった。


 そこに、こんこん、とノックが響く。

 大輔は慌ててフードを目深に被り、扉に背を向けた。

 紫もそれを確認し、扉を開ける。


「はい――どなたですか」

「きみたちが異世界からきたという新人か」


 入ってきたのは、長い黒髪を背中に流した、すらりと背の高い女だった。

 修道女の衣装である白いローブを着ているが、身体の輪郭がまるでわからないローブ越しにさえ、その肉体の奥から生命力があふれ出しているように感じられる、いかにも溌溂とした女である。


 女は薄く開かれた扉から身体をすべり込ませ、狭い室内を見回した。


「わあ、きれいなひとー」


 燿は感じたことをそのまま呟き、泉もその言葉にこくりとうなずいている。

 大輔はもちろん、男だということがばれないように背中を向けているが、女は振り向きもしないその影に視線を止めた。


「どうした、壁を向いて? なにかあったのか」

「いえ、あの子はちょっと人見知りなんです」


 紫はもっともらしく言って息をつく。


「知り合い以外とはまったく喋れないし、顔も合わせられなくて」

「ふむ、そうなのか」

「いろいろとつらい経験もありますから、できればそっとしておいてあげてください」

「なるほど、わかった――しかし、問題というのは立ち向かい打破しないかぎり、いつまでも目の前に居座り続けるものだ。先送りにする、ということはできない。健全に、そして力強く生きたいというのなら、自らの重大な問題に率先して取り組み、それを乗り越えなければならないぞ」

「ごもっともですね、まったく」


 そう呟いた紫は、なんとなく説教じみた女の言葉に反感を抱いているようだった。

 女はそんな紫にちらりと目を向け、


「異世界からやってきたというのは本当か?」

「はあ、一応」

「ふむ、それは興味深い。わたしは異世界についてまだあまり知識が豊富とはいえない。よかったらまた、異世界のことを教えてくれ。異世界人のこと、つまり魔法使いのことも」


 女は口元に笑みを浮かべる。

 それは女っぽい笑みというよりはきざな男っぽい笑みで、男がやるならきざで鼻につくのだろうが、顔立ちが整った女がやると不思議なほどさまになっていた。


「あの」


 と紫は、用事を終えて踵を返す女の背中に言う。


「あなたは、どなたですか?」

「む、言い忘れていたな――わたしはこの修道院の院長、グロリアだ」

「院長――」

「わたしはいつも院長室にいるから、いつでもきてくれ。まあ、修道院だから、ろくに歓迎もできないがね」


 グロリアはそう言って笑みを浮かべ、部屋を出ていった。

 ずっと背中を向けていた大輔はふうと息をつき、前を向く。


「まったく、いちいちが命がけだよ――ほんとにこんなことで見つからずにやっていけるのかな」

「まあ、見つかっても女だって言い張れば大丈夫のような気もしますけどね」


 紫は他人事のように言って、けらけら笑う。


「女って言ってもいろいろなんですから、先生みたいな女のひとも――ぷぷっ――まあ、いなくはないでしょうし」

「その笑いでいろいろ台なしだよ……」


 大輔は深々とため息をつく。

 その大輔を心配しているのは泉だけのようで、元気を出してください、と励ます泉の横で燿と紫は大輔のため息をまったく無視し、うーんと伸びをする。


「ね、ゆかりん、お風呂行かない? ここおっきいお風呂あるって言ってたじゃん」

「いいわね、たまにはお風呂でゆっくり休みましょうか。泉も行きましょ」

「え、う、うん、でも先生は?」

「あら、先生もいっしょに行きます?」

「行くかいっ。いやいっそ嫌がらせでついていってやろうか」

「そのときはすぐ男だってばれると思いますけど?」

「あはは、やだー、ゆかりん」

「うう、女の集団のなかでは男って無力だなあ……」


 嘆く大輔を尻目に、三人は風呂のために部屋を出ていった。

 ひとり残った狭い部屋のなか、大輔はベッドにごろんと寝転がり、ようやくなにかほっとしたような、肩の荷が下りたような気分になる。

 そして無意識のうちに胸ポケットを探り、煙草などもう一年近く吸っていないのだと思い出して、やはり憂鬱になる。


 もともと大輔はヘビースモーカーである。

 一日のうち、ほとんどの時間を煙草に費やしているのではないかと自分で思うほどだったが、この新世界で煙草の調達などできるはずはなく、必然的に禁煙生活を強いられていた。

 いろいろあったせいで煙草まで気が回らず、禁煙がつらいと思ったことはなかったが、こうしてなにもやることがなくなり、気分を弛緩させたいときには、やはり煙草が恋しくなる。


 煙草を吸いたいという欲求というよりは、煙草が吸えないというストレスのほうが大きい。

 あるいは、胸ポケットに一本でも残っていれば「吸う」という選択肢がある分、気分は楽だ。

 しかし一本もない状態、どれだけ吸いたくても吸うという選択肢そのものが出てこない状況は、憂鬱としか言いようがない。


「だめだだめだ、もっと気合いを入れないと。地球ならまだしも、ここは新世界だぞ」


 いくらマグノリア修道院のなかとはいえ、絶対安全とは言いきれないだろう。

 修道院のなかに危険はないかもしれないが、だれかが修道院を襲撃しないとも限らない。

 それこそ、革命軍がここを襲わないとも限らないのだ。


 考えてみれば、革命軍がこの修道院を狙う可能性は大いにある。

 革命軍の目的は、その名前とはちがって、革命などではない。

 ただこの新世界にある勢力という勢力を潰すこと、あるいは配下に入れること。

 ほんのちいさな修道院なら革命軍もわざわざ狙うことはないだろうが、王国のように巨大で団結している「勢力」であれば、革命軍は決して見過ごしはしないだろう。


 マグノリア修道院には、原則的に女しかない。

 女ばかりの集団の戦闘力とはどれほどだろう。

 革命軍に対抗できるほどだろうか、と考え、そんなことはないだろうと思う。

 もしここが革命軍に狙われれば、ひとたまりもない。


 ここは一種の駆け込み寺だ。

 革命軍に追われ、家族を失った女たちが最後の希望としてすがってくる場所なのだ。

 叶があえてそこを潰そうとすることは、大いにあり得る。


 大輔は、できるならその前に修道院を立ち去りたいと考えたが、すぐに本当にそれでいいのかと自問した。

 革命軍がくる前に修道院を立ち去るということは、言い換えれば革命軍の危険から修道院を見捨て、自分たちだけ助かるということでもある。

 本当にそれでいいのだろうか。


 おそらく、そうするしかない問題なのだろう。

 だれかを守りたい、という気持ちには偽りがないとしても、その気持ちだけですべてが守れるわけではない。

 たとえば、どんな正義の味方でも、地球の両端で起こっている問題を同時に解決することはできないし、地球の両端でいままさに殺されようとしているふたりの人間をどちらも助けることなどできるはずもない。


 ひとはみな、選択をしながら生きている。

 右と左、どちらを選ぶのか。

 片方を選ぶということは、もう片方を捨てるということでもある。

 右にいる人間を助ければ、左にいる人間が助からない。

 それは物理的に助けることができない、という意味だ。

 地球上のすべての人間を脅威から守ることなど、たったひとりの力では絶対に不可能なのだ。


 修道院を守るか、自分たちを守るか。

 それは決して両立し得ないことなのだろうかと大輔は考え、あるいはそうではないのかもしれないと思う。

 修道院のなかに自分たちを置けば、修道院を守るということは自分たちを守るという意味になる。

 そうすればどちらも守ることは、理屈では可能になる。

 もしこのまま修道院に居座り続ければ。


「――女装云々はともかくとして、でも、ここにずっといるってわけにもいかないんだよな」


 もしこの場所で地球へ戻る手がかりや、その方法そのものが見つかればいいが、そうでなかったら地球へ戻る方法を探してまた旅をはじめなければならない。


 大輔はベッドに横たわったまま、ぽつりと呟いた。


「あー、煙草、吸いたいなあ……」

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