洞窟の人々 6
6
学生服を着た叶が立っている。
なにもない、がらんとした部屋だ。
つい数日前まで部屋にあった家具はすべて処分され、清掃も終わって、人間が住んでいた気配は念入りに消されている。
大輔にとっては、両親と姉がいなくなってから二週間ほど経ったある日だ。
ダブルOへの所属が正式に決まり、それまで住んでいたマンションを引き払ってダブルOの管理する施設に移ることになって、その引っ越しもすっかり済んでしまったあと。
いなくなったはずの叶が、なにもなくなったリビングにぼんやりと立っていた。
「なにしにきたんだよ」
大輔は叶の後ろ姿に言った。
叶は振り返り、やわらかく微笑む。
「引っ越すんでしょ。最後に家を見ておこうと思ってね」
「どこ行ってたんだよ。こっちは、大変だったんだ」
「なにが大変だったの? 引っ越しが? それとも、お父さんとお母さんが死んだこと?」
「――どっちもだ。なんで帰ってこなかった? 新世界に行ってたんだろ」
「あら、話はまだ聞いてないの?」
――そういえば、なぜ叶は学生服だったのだろう。
大輔はふと疑問に思う。
あのとき、叶が学生服だったはずはない。
もう何週間も家には帰らず、学校にも行っていないはずなのに、あの日、あのとき、叶が学生服で立っているはずはないのだ。
これは夢だ、と大輔は気づく。
あるいは、幻だ。
現実にあったことではない。
現実にあったことを基にして、自分の頭のなかで作り上げられた架空の物語。
「新世界でなにがあったのか、聞いてないのね」
「聞いたよ。戦争だろ。地球側と、新世界側と」
戦争、という響きが空虚なのは、それがまるで実感できていないせいだ。
そのころの大輔は、新世界とはまるで無縁だった。
両親のおかげでそういう世界があるということくらいは知っていたが、まるで作り話のようにしか思えなかった。
魔法使いとしての才能がなかった大輔には、新世界というのはなにか都合のいい、すべての状況に有効な言い訳のようにしか感じられなかったのだ。
「そう、戦争」
叶の言うそれは、大輔の呟いたものよりもはるかに重たく、鮮やかな色彩を帯びている。
叶は知っているのだ。新世界も、戦争も。
「その結果、お父さんとお母さんは死んだ。でも、不思議よね、いったいなにを守ろうとしたのかしら? たとえば、国と国の戦争なら、自分の国を守るって大前提があるわけでしょう。でもあの戦争には、そんなものはなにもなかった。新世界のひとたちが地球へ攻め込もうとしわけじゃない。地球が新世界へ攻め込んだわけでもない。新世界はただ、自分たちの領域を確保したかっただけ。地球側は自分たちの土地でもないのに、それを認めようとしなかった。ばかばかしいと思わない? 自分の国を守るのならまだしも、よその世界が独立するのを認めたくないから死んでいくって」
「――ばかばかしいかもしれない。でも、ぼくには関係ない話だ。新世界も、戦争も、ぼくには全然関係ない」
新世界と地球の戦争が正しいことだったのかは、大輔にはわからない。
もしかしたらそれは、一種の罪だったのかもしれない。
しかし新世界にも戦争にも関係がなかった大輔にとっては、その出来事は両親の死でしかなかった。
どんな理由にせよ、父親と母親はそこで死んだ。
それだけが大輔にとっての真実で、死の理由までは考えが及ばない。
「そう、あなたはどうせ出来損ないだから、なにもかも関係ないでしょうね」
蔑むように叶は言う。
「もしあなたに魔法使いとしての才能があればもう新世界へも行っていたでしょうし、戦争にも関わっていたかもしれない。そこで、真実を見たかもね」
「真実?」
「わたしが、お父さんとお母さんを殺すところを――そんな真実を見たかもしれないわ」
それは、衝撃というほどではなかった。
そうだろう、と推測していたことを告げられただけのことだ。
だから大輔は、ゆっくりと首を振った。
「ぼくにはあんたのことが理解できない」
「だれにだってそうでしょう。わたしのことを理解できる人間なんていない。理解した気になる人間はいるかもしれないけど、本当のところはだれにも、わたしにだってわからない」
「じゃあ、なんのためにあんたは生きてるんだ。なにがしたくて生きてる?」
叶はすこし考えて、笑いながら言った。
「そういう意味じゃ、わたしは生きてないのかもね。そう、死んでいるわけじゃないけど、生きているわけでもない。なにかの目的があって、そのために存在することを生きているというなら、わたしはなんの目的もなくここに立っているだけだから、生きてもいないし死んでもいない」
「この先もずっとそうやって、ただ存在していくつもりなのか。ひとに迷惑ばっかりかけて、まわりを振り回して」
「振り回されるまわりが悪いんでしょう。わたしは振り回す気もない。みんながわたしを無視すればいいだけのことよ。わたしはなにも、だれかに自分の存在を認めてもらいたくて肩を叩いてるわけじゃないんだから。ちょっと視線を逸らせばいいだけのこと。本当にわたしに関わりたくないなら、ね。あなただってそうよ。昔からわたしには関わりたくないって言ってるくせに、こっちを見てる」
「あんたが目の前に出てくるんだろ。今日だってそうだ」
「でも、なにも見ないふりをして通り過ぎればいいじゃない。わたしからあなたに声をかけたわけじゃない。あなたがわたしに声をかけたのよ」
それは強者の理屈だと大輔は思う。
見たくないなら無視すればいい、というのはあまりに一方的な、まるで勝ち誇るような言葉だ。
そう言いながら本当は、無視なんてできるはずない、と確信しているのだから。
大湊叶という人間を無視するのは、だれにとっても難しい。
その存在はあまりに巨大すぎるし、あまりに鮮やかすぎる。
だれでも目を止め、じっと見つめてしまうようななにかがある。
それは美しさとはちがうものだ。
もっと独特の、一種の歪みのようなものかもしれない。
ただ美しいだけの絵では、長いあいだひとの目を引きつけておくことはできない。
美しい絵でありながら、なにか変だ、と思わせることで、その奇妙な部分を探し出そうとする人間の本能を刺激して長いあいだ注目させられる。
叶はまさにそのような人間だった。
美しいが、歪なのだ。
その歪さがひとを引きつけている。
叶は薄く微笑みながら、大輔に近づく。
なにもないリビングを、もう二度と家族の笑い声が響くことのないリビングを横切り、大輔の頬に手を添えた。
「あなたはかわいそうな子ね、大輔」
「うるさい――ぼくは、あんたが嫌いだ」
「あの両親から生まれなければ、あなたは劣等感を覚えることもない、普通の人間として生きられた。あなたにはなんの欠点もない。魔法が使えないという以外、なにも。でも、あの両親から生まれ、新世界を知り、魔法使いばかりの社会においては、あなたは存在していないにも等しい。かわいそうに――あなたにとってこの世界は、ただ苦しくてつまらないものでしかないんでしょう。なんなら、わたしが壊してあげましょうか」
「なに?」
「なにもできないあなたの代わりに、わたしがこの世界を壊してあげる。人間をすべて殺し尽くして、文明の息遣いもすべて消し去ってあげる。わたしならそれができる」
「ばかだな――そんなこと、無理に決まってるだろ。あんたにだって不可能なことはある。魔法使いにも、だ。それとも、魔法使いは正真正銘なんでもできるのか? だれかを殺すだけなら、魔法なんかなくたって簡単にできる。町を破壊したいなら爆弾を落とせばいい。そんなことで魔法に頼る必要はない」
叶はすっと目を細めた。
それは微笑んでいる余裕を失ったということだった。
大輔はにいと笑い、先を続ける。
「魔法なんて、所詮科学には敵わない。科学が達成したことを、ただ別の方法でなぞっているだけだ。炎を生み出す、雷を生み出す、なにかを破壊する、なにかを創造する、ただそれだけのことで優越感を抱いてるんだとしたら、それこそ『かわいそう』だね」
「――科学では決して不可能なことは、魔法でも実現不可能だと言いたいの?」
「さあ、ぼくは魔法使いじゃない。魔法がどんなものなのかも知らない。でも話で聞くかぎり、別に魔法なんか使わなくたって済むことばっかりだ」
「じゃあ、科学では不可能なことってなにかしら」
「この世界を破壊するくらいなら、科学でも可能だろうね。核兵器が二、三十発あれば、世界中を放射能で汚染できる。人間も生物も全滅だ。あとは放っておけば人間が築いた都市も土に還るだろう。そうだな――反対に、世界を創造することは、科学では難しいかもしれないな」
「なるほど――惑星を破壊することはできても、惑星を作り上げることはできないってことね。魔法でそれができたら、魔法は科学を超えたことになる」
「惑星を作り上げるなんて、絶対に不可能だ。どうやってやるのかもわからない」
「いいわ、おもしろそうじゃない」
叶はくるりと踵を返し、リビングの中央まで進んだ。
「科学が不可能なことを魔法で達成する――どうせやることもないし、その可能性を探ってみるのもおもしろそうね」
「できるものなら、やってみればいいさ」
大輔はからかうように言った。
「成功したらぼくにも教えてくれよ。そのときは『おめでとう』くらい言ってやるからさ」
「そんなことは言わなくてもいいけど――そうね、じゃあ、こういうのはどう?」
いたずらっぽく笑って、叶はぴっと人差し指を立てた。
「もしわたしが成功したら、わたしのことをお姉ちゃんって呼ぶこと」
「は、はあ?」
「だってあなた、昔からお姉ちゃんって呼んだことないでしょう」
「あんたのことを姉だとは思ってないからね」
「だから、よ。あなたが嫌々お姉ちゃんって呼ぶ様子を見てみたいわ。あなたのその無駄に大きなプライドがへし折れる瞬間をね」
くすくすと笑う声に、大輔はぞくりと身体を震わせる。
「あ、相変わらず歪んだ性格してんなあ……」
「それはお互いさまでしょう」
叶はからかうように言って、そしてまったく唐突に姿を消した。
大輔はそれを不思議とも思わず、ひとりになったリビングでぽつりと呟いた。
「ほんとに親父とお袋は、あいつに殺されたのかな」
叶がそこまでする人間かどうか、と疑問を抱いたのではない。
叶にその必要があったのか、という問題だった。
もし叶の進む道に両親が立ちはだかるなら、叶はそれを殺してでも排除するだろう。
よくも悪くも、叶は親というものに興味を抱いていなかった。
それこそ、まるで無視するのと同じだ。
いてもいなくてもいい、あえて排除するほどでもないが、必要でもない――その程度の存在でしかなかった親を、わざわざ選んで殺すような叶ではない。
もし本当に叶が両親を殺したなら、それなりの理由、つまり必然性があるはずだった。
おそらく父と母は叶を止めようとしたのだろう。
大輔はぼんやり思う。
歪んだ娘を止めようとして、立ちはだかったにちがいない。
それが愛情だったのか、それとも世間に対する一種の贖罪だったのかはわからない。
どちらにせよ、叶は道端の小石を蹴るような気持ちで、立ちはだかった両親を殺したにちがいない。
叶は非道だ。
感情がないわけではないのに、なにを考えているかまったくわからないし、じっと観察していてもその心がまったく見えてこない。
自分の両親さえためらいなく殺すかと思えば、名前も知らない子どもを気まぐれで助けたりする。
叶には善悪の境界線がないのだ、と大輔は気づく。
いい、悪い、という人間ならだれしも無意識で行なっている判断を、叶は行なっていない。
そのようなものの見方で世界を見ていない。
おそらくは、その場の気分で行動しているだけなのだろう。
一本貫かれた信念というものがなく、だから、その気分にさえなればなんでもやってのける。
ある意味、叶は意識を持たないロボットのようなものだ。
感情で動いているだけのロボット。
ロボットの言葉にはなんの意味もない。
それは自分の信念、善悪によって決定された言葉ではなく、そのように発言しろと命じられて発言するのであり、もし正反対の発言をしろと命じられても、どうしてそんなことを言わなければならないのか、と悩んだりはしない。
結局、ロボットの言葉は、ロボット自身の言葉ではない。
叶の言葉はただその場の雰囲気、あるいは流れで吐き出されるだけで、叶の心理や精神を現したものではない。
だから叶と話すのは無駄なのだ。
叶は、だれの意見も聞かず、自分のやりたいことをやり続けるだろう。
それが善か悪かは関係ない。
どちらにしても、叶を止められるような人間は存在しないのだから、叶はなにをするのも自由ということだ。
一方で大輔は、なにをするにも自由がない、ただの人間だった。
なんの能力もないせいで、自力ではなにもできない。
「――魔法使い、か」
大輔はぽつりと呟き、そして深々とため息をついた。
*
ゆっくりと夜が訪れようとしている。
分厚い雲は太陽の光を通さないが、幻のようにぼんやりと灰色に輝いていた雲が時間を追うごとに薄暗くなっていく。
日が暮れはじめると、森のなかが暗くなるのはあっという間だった。
森に残り、燿の帰りを待つ紫と泉は、まだ明るいうちに魔術陣を描き、それで枯れ枝で作った小山に火を灯した。
いまは太陽よりもその赤々と燃える炎のほうが明るく、暗闇に沈みゆく森を照らしている。
「――燿ちゃん、もう洞窟に着いたかなあ?」
泉は焚き木のそばで体育座りをして、ぽつりと呟く。
「それとも、まだ見つかってないかな」
「洞窟にはたどり着いてるんじゃないかしら」
紫も焚き木に向かいながら、ときおりぱちりと爆ぜて飛び散る火の粉の行方をぼんやり眺めている。
「問題は、洞窟のなかにほんとにどんな病気でも治る苔があるかどうかだけど。なんか、いかにも嘘っぽいじゃん」
「う……い、言われてみればそうだよね」
「だって地球でも治らない病気はいっぱいあるのよ。治る病気でも、治療が手遅れってこともある。なのに医学も発展してない新世界でそんな都合のいいものがあるとは思えないけど」
「で、でも、あるって思ったほうが幸せじゃない?」
「その分、なかったときに裏切られるけどね」
「う……」
泉はぐっとうつむく。
その瞳に揺らめく炎が映り込み、まるで泣いているようだった。
紫は何度か首を振り、息をつく。
「ごめん、別にマイナスに考える必要はないんだけど」
「ううん……紫ちゃんが言ってることもわかるから」
三人の性格は、まるで等間隔に並んでいる。
燿はとにかく前向きで明るく、紫は反対に物事を悪いほうへ考えがちなリアリスト、泉はその中間で、プラス思考にもマイナス思考にも傾く性格だった。
だから、燿とふたりでいるときの泉は明るいプラス思考だし、紫とふたりでいるときはマイナス思考になってしまう。
紫はそれに気づいて、これではだめだ、と首を振ったのだ。
しかしこの状況は、マイナスに考えようと思えばいくらでも考えられてしまう。
大輔の様子は相変わらず芳しくない。
たまに目覚めるが、それ以外はほとんどうなされていて、会話もろくにできない。
このまま一日、二日と経って病状が回復しそうな気配はまるでないのだ。
また、燿の様子を知ることもできないままだ。
いまどこにいるのか、洞窟は見つかったのか、万病に効くという苔はありそうなのか、なにもわからないまま時間だけが過ぎていく。
日も暮れれば、不安も募ってくる。
むしろ明日へ向けた希望を探すほうが大変なくらい、ここにはいろいろな絶望の欠片が散らばっていた。
炎が揺らめく。
その陰影が森のなかをさっと走る。
それは大きくてすばやい動物が森のなかを駆けているようだった。
「新世界にきてから、こんなに明日が不安なのははじめてかもね」
泉はすこし顔を上げ、紫を見る。
「それって、なんだか不思議な気がする。だって、授業とかで新世界はとっても危険な場所だって教わったでしょ。そんなところに取り残されて地球へ帰れなくなっちゃったんだから、もっともっと不安になってもいいと思うけど、なんか不思議といままでそんなふうには思わなかったんだよね」
「――たしかに、そうかもね」
思えば新世界に取り残されて最初の夜も、それほど不安だとは感じなかった。
これからどうなってしまうんだろう、とは思ったが、明確に不安と呼べるようなものはなく、気づけば朝になり、また次の一日を過ごして、夜になればぐったりと疲れて眠ってしまう、という繰り返しだったのだ。
はじめのうちは、すぐに地球へ帰れるはずだ思っていたから不安は感じなかったのかもしれない。
しかし旅のどこかで、地球へ帰るのはそう簡単なことではない、と気づかされて、それでもあまり不安を覚えなかったのは、仲間がいたおかげだろう。
「なんか、新世界にきてから一日があっという間よね」
紫が言うと、泉もうんうんとうなずく。
「地球にいたときって、学校に行って、訓練して、家に帰って、テレビとか見て、お風呂入って、またゆっくりして、ようやく寝る時間になって、って感じだったけど、こっちにるとほんと朝から夜まですぐに過ぎちゃうもんね」
「やってることはいまのほうが遥かにすくないはずなんだけど。地球だとテレビとか本とかあったけど、こっちはただひたすら歩くだけだし」
「それでも――やっぱり、楽しいからかな?」
「楽しい?」
「うん。いろいろあるけど、地球にいたころより、こっちにきてからのほうが毎日楽しいかも。いろんなひとに会うし、いろんなものを見られるし」
「まあ……たしかに、そういうところはあるけどね。でもやっぱり、ずっとこっちにいるのは大変よ。いいところで地球へ引き上げないと」
この四人で新世界を旅して、この四人で地球へ帰る。
だからこそ、どんな場面でも不安には思わないのだ。
この四人ならどうにでもなる、とわかっているから。
いま不安なのは、もしかしたらこの四人ではいられないかもしれないと考えているせいだった。
「先生には早くよくなってもらって、また次の町に行かなきゃね」
紫は自分に言い聞かせるように言った。
「次はどんな町かな?」
「さあね、新世界だからどんな町でもあり得ると思うけど――小人の国とかかもしれないわよ」
「わあ、それ素敵!」
「巨人の国よりはね。わたしは普通の、話が通じるまともなひとたちの国がいいな。あと、食べ物がおいしい国」
「そうだよね。それで、景色がよかったりして。そういうところでゆっくりしたいよね」
「そのためにも先生にはしゃきっとしてもらわないとね」
燿もそのためにがんばっているのだろう。
必ず燿は薬を持って戻ってくるはずだ。
紫はそう信じて、森のなかで燿の帰りをじっと待っていた。




