洞窟の人々 4
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森のなかは至って静かだった。
ときおり、鳥が鳴き、風が木々を揺らすほかはなんの物音もしない。
大輔は朦朧とする意識のなかで、その静寂を聞いていた。
目を開ける気力はない。
あたりを探る体力もなく、しかし妙な苦しさと気だるさがあって眠ろうにも眠れず、じっと目を閉じ、浅く呼吸を繰り返しながら聴覚だけを働かせていた。
――前にもこんなことがあった、と思う。
それは、熱に浮かされた脳が見せる偽りの記憶だったかもしれない。
本当はそんな経験などなく、ただ、まどろむような悲しみが、いまの静寂と寄り添ってあたかも記憶のなかから生まれたような顔をしているだけなのかもしれない。
しかしその記憶が本当なのだとしたら、いまから十年ほど前、まだ大輔が中学生だったころの記憶だ。
そのころの大湊大輔という人間は、どうしようもない少年だった。
すべてにおいて自信がなく、すべてにおいて後ろ向きで、自分にも他人にも世界にも興味がないような少年。
たとえ明日世界が滅びても、自分が死んでも構わないと思っていたから、ほかのあらゆることに興味を持てなかったころ。
同じ年ごろの少年たちが漫画やゲーム、部活動や勉強に時間を費やすあいだ、大輔はなにもせず、ただ自分の部屋で眠ってばかりいた。
正確には、眠ったふり、である。
本当に眠るのではなく、目を閉じ、まるで全身が拘束されているかのようにぴくりとも動かず、ただ意識だけを弄ぶのだ。
しかし静寂を聞いたのは、そのときではない。
そんなある日、一本の電話がかかってきて、両親が死んだことを、そして姉が失踪したことを聞いたとき――そのとき、いまと同じような静寂を聞き、ほかの一切の感覚が死んだようになるなか、聴覚と意識だけが生き残ったような感覚を覚えたのだ。
あの日から、大輔の生活は大きく変わった。
もともと両親ともに新世界で活動するダブルOの隊員だったし、姉も一時期はその一員だったが、大輔には魔法使いとしての才能が生まれつきなく、新世界とも、ダブルOとも関わりのない毎日を送っていた。
しかし両親と姉がいなくなったことで、生活の基盤をダブルOに頼るしかなくなったのだ。
まわりの人間がなにかを言ったというわけではなく、大輔は自主的に、ダブルOの一員になるのであれば魔法や魔術で組織に貢献しなければならないと考えた。
魔法は、自分では不可能だと思っていたから、没頭したのはいまや「古い学問」と呼ばれている魔術学だ。
魔術は魔法の基礎になるが、あまりに複雑なため、普通の魔法使いでは手が出せない。
古代は魔法使いとは別に魔術師という職業が存在し、魔術師は魔術だけを専門的に研究し、あるいは活用していたが、なぜかそうした魔術師たちは失われてしまっている。
それなら、と大輔は魔術師の復活と魔術の追求を目標とし、ダブルOでの活動をはじめたのだ。
はじめのうちは右も左もわからないことばかりで、進展どころではなかった。
しかし五、六年もすれば現在一般的に使われている魔術の大半を精査し終え、それを改良した新しい魔術陣の開発をはじめることができた。
そうした功績を認められ、大輔は魔法使いとしての能力を欠きながら、ダブルOの隊員として新人教育を任せるほどになった。
「――そうだ、あいつらは」
大輔はゆっくりと瞼を押し開ける。
それは身体を起こす以上に体力を必要とすることで、瞼を開け、わずかにかすんだ景色を見るだけで精いっぱいだった。
「七五三、神小路、岡久保――無事か」
「先生、目が覚めたんですか?」
かすんだ視界のなかに、泉の顔が現れる。
やがて紫もそこにやってきて、ふたりは不安げに大輔を見下ろした。
「先生、体調はどうですか?」
「まあ、よくはないな」
大輔は苦笑いする。
「でも、死ぬほどじゃない――七五三は?」
「燿は――」
泉はなにか言い淀んで、紫を見る。紫は大輔から目を離さず、
「燿は、いま薬をもらいに行ってます。すぐ帰ってくるはずです」
「町までか。おまえたちが残ってるってことは、七五三はひとりで行ったのか――大丈夫か、あいつひとりで」
「燿もやるときはやりますよ。大丈夫です。先生は心配しないで寝てください」
そう言って紫は微笑んだ。
大輔はじっとその顔を見る。紫は首をかしげ、
「なんですか?」
「いや……神小路がこんなにやさしいなんておかしいから、偽物じゃないかと思って」
「む――じゃあいつもみたいに厳しくしたほうがいいですか?」
「う、い、いまのままでいい」
大輔はゆっくりと寝返りを打つ。
身体のどこが痛いというわけでもないのに、全身にひどい倦怠感がつきまとい、体力と気力を奪うようだった。
「そういえば」
と大輔はふたりに顔を背けたまま言う。
「なんか、おまえたち三人のほかにだれかいなかったか? 声を聞いたような気がするんだけど――」
「気のせいですよ。熱のせいで幻聴でも聞いたんじゃないですか?」
「そうかな――」
「とにかく、寝てください。いま先生ができることは寝る以外なにもないんですから」
「わかったよ、おとなしく寝ることにする。ぼくが寝てるからって、なんかいたずらすんなよ」
「顔に落書きしたり、ですか?」
紫の笑い声が背中越しに聞こえる。
「元気になって鏡でも見て驚いてください」
「される前提じゃないか――」
しかしたしかに、それ以上は話すことも億劫だった。
大輔は言葉の代わりに熱い息をつき、腐葉土の上に頭を置く。
土の匂いがすぐ近くにある。
まるで土のなかに寝ているような気さえした。
土のなかに寝ているのなら、もう埋葬されているわけだ、と大輔はぼんやり考え、その連想として死を考えた。
死。
それはまだ若い大輔にとっては遠くに見える、しかしいつかは必ず目の前でやってくる悪魔にすぎない。
他人の死は見たことがあったが、それはあくまで他人に襲いかかった悪魔にすぎない。
死にはいろいろな形がある。
事故や他殺、自殺、病気、老衰、おそらくそれぞれ形がちがうものだろう。
自分の死の形は、自分の死が目の前にやってきたときにしかわからない。
自分はいま死ぬのだ、と確信したときにしか。
大輔には、まだ死の形はおぼろげにしか見えなかった。
逆説的に言えば、死が見えていない以上、まだ死なないということだ。
人間とは案外しぶといものだと大輔は感心し、そのまま、ゆっくりと眠りに落ちる。
その眠りは、夢を一切伴わない、奈落のような夢だった。
*
大輔が寝息を立てはじめたのを聞いて、紫と泉は顔を見合わせてほっと息をつく。
「やっぱり、お姉さんのことは黙ってたほうがいいよね」
泉は大輔を見下ろしながらぽつりと言った。
紫はうなずいて、
「先生、あのひとのこと嫌いそうだったしね。まあ、わたしも大っ嫌いだけど」
「う……紫ちゃんは、あのひとのなにがそんなに嫌いなの? 先生はいろいろ知ってるのかもしれないけど、わたしたちはまだ何回かしか会ったことないし……」
「別にどこが嫌いってわけでもないけど――強いていうなら、やっぱり全部かな」
「ぜ、全部?」
「見た目から性格からなにからなにまで嫌いなの。合わないのよ、ああいう女は」
それはおそらくすべての面で負けているからだろうと紫は思う。
叶と自分を比べて、自分のほうが確実に勝っている、といえるようなものはひとつもない。
魔法使いとしての能力はもちろん、下手をすれば女としての魅力まで負けている可能性があって、相手はそのことを充分に理解し、現実どおりに勝ち誇ってくるのだ。
それに腹が立って仕方ない。
しかし負けているのは事実だから、反論することもできない――結果として、「嫌い」という理由もなにも必要ない一言に集約されるのである。
「それに、あの女はわたしたちの敵よ」
「うん――そういえば、わたしたちって地球に戻るためにいろんな町を回ってるんだよね」
「まあ、そうね」
本当に戻る方法があるかどうかはともかく、という言葉を、紫はぐっと飲み込む。
「だったら、ほんとは革命軍なんか関係ないんだよね。わたしたち、革命軍と戦うために新世界へきたわけじゃないんだもん」
「まあね。成り行き上、こうなったけど」
「その成り行きって、たぶん、ザーフィリスでの燿ちゃんの言葉がきっかけだよね。先生はどっちとも関わらないで、早く国を離れたほうがいいって言ってた。でも燿ちゃんが、国のこともスルールさんたちも放っておけないって言って――」
泉はふと視線を上げ、慌てて首を振った。
「ちがうの、燿ちゃんが悪いとかって言うんじゃなくってね」
「わかってるわよ――燿がそのへんを気にしてないかってことでしょ?」
泉はこくりとうなずく。
「燿ちゃん、いつも明るくてにこにこしてるけど、でも、ほんとはいろんなこと考えてると思うの。あんまりそういうこと、話してくれないけど……自分のせいで、とか思ってないかなあ。もし思ってたら、そうじゃないって言ってあげたいな」
「燿は、まあ、ああいう子だから、本当に気にしないって可能性もあるけどね。でも言ってあげたいなら、言葉にしてあげたほうがいいわ。そうしないと通じないもの」
「うん、戻ってきたら言ってあげよ――燿ちゃん、大丈夫かなあ」
問題はそこだ、と紫も思う。
燿は無事、この場所まで戻ってこられるだろうか。
同行者が同行者だし、情報も曖昧で、もし大輔が判断できる状態にあったら、燿と叶がふたりきりで洞窟へ行くなど許可しなかったかもしれない。
しかしそれ以外にはなんの手もなく、いまはただ、ふたりを――燿を信じるしかないのだ。
*
洞窟のなかは恐ろしく暗かった。
先に行くにつれ、すこしずつ洞窟は狭くなっていく。
燿と叶は一列になり、松明を持った燿が先に、叶がそのすぐあとに続く格好で、分かれ道もない穴蔵を進んでいく。
空気はひんやりとしている。
しかし寒いというほどでもなく、それよりも空気の出入りがほとんどない、淀んで喉の奥に引っかかるような感覚が気になった。
「ちょっとずつ下ってるのね」
叶は足元を確かめながら言った。
入り口からずっと足元は傾斜していて、下へ下へと道は伸びている。
洞窟の内側の壁は、外側と同じようにでこぼことした塗り壁のようになっている。
自然のものにしては、形があまりに不可解だった。
そもそもなぜ洞窟などというものができるかといえば、原因には様々あるが、たとえば溶岩が流れた跡だとか、地下水脈の一部が枯れ、空洞となり、そこに土が落ちるような形で地表近くに空間ができるということも考えられる。
しかし明らかにこの洞窟はそのどちらでもない。
それよりもむしろ、生物の巣に似ていた。
蟻やもぐらなどが作る穴蔵を大きくしたような洞窟なのだ。
「まだまだ続いてるよ――こんなに深いんだね」
燿の声が狭い洞窟内に反響する。
叶は洞窟のなかを見回しながら、ふと足元に穴が空いているのを見つけた。
直径二十センチ程度の穴だ。
その穴からなにかが顔を覗かせているような気がして視線を向けたのだが、そのときにはもう影も形もない。
どうやらこの洞窟にはなにかある、あるいはなにかいるらしい。
そうなれば伝説というのもあながち嘘ではないか、という気にもなってくるが、叶は「すべての病が治る苔」など所詮作り話だろうと考えていた。
地球においても古代から万病に効くという特効薬の話はいくらでもある。
珍しい動物の心臓だとか、どこかの仙人が持っている秘薬だとか、形はいろいろあるが、そのすべては嘘だとわかっている。
せいぜい、滋養強壮にいい、というくらいのものだ。
もしこの洞窟に珍しい苔が生えているとしても、それが万病に効く特効薬である可能性はほとんどない。
ではなぜ燿といっしょに洞窟までくる気になったのかといえば、特効薬よりも燿に興味があるためだった。
このまっすぐな少女のなかには、いったいどんな歪みが眠っているのだろう?
まったく歪みがない人間など、決して存在しない。
だれに対しても、ひとりでいるときでさえ明るく振る舞うような人間にも、必ず暗闇はある。
だれにも見せられないそれは、気軽に自分の暗い部分を見せられる人間よりはるかに暗黒で歪んでいるにちがいない。
叶の近くでは、大輔がそうだった。
大輔は他人に弱みを話すような人間ではない。
悩みがあっても、それをひとりで抱え込み、むしろ他人に打ち明けて分け合うことを嫌悪しているような人間だ。
だからこそ、心には深い闇がある。
叶は大輔の闇の一端を知っている。燿にもそんな闇があるのなら、叶はぜひ見てみたかった。
「わっ――足元にでこぼこがあるよ。お姉さん、気をつけてね」
「ありがと、大丈夫よ。それより、こういう暗い場所にいるといろいろ考えない?」
「いろいろ?」
燿が振り返る。
赤い松明の明かりが、その横顔に深い陰影を刻んでいた。
「たとえば、こうやって前に進んでるうちに後ろが崩れて閉じ込められたらどうしようとか」
「う――」
「閉じ込められてるうちに酸素がなくなって、餓死より先に窒息死したら苦しいだろうなとか」
「そ、そんな怖いこと考えないほうがいいよ! もっと楽しいこと考えようよー」
「じゃあ、楽しいことって?」
「うーん……洞窟を抜けたら、きれいなお花畑があるとか!」
「それ、楽しいの? もし洞窟を抜けた先にお花畑があったら、わたしはそれを天国だと感じるけれど」
「し、死んでないよっ。そういう秘密のお花畑があるの! でねでね、そこにはすっごくきれいなちょうちょが飛んでて、なんかね、いろいろきれいなものとかがあって――それで、お父さんとか、お母さんもいて」
燿の表情がわずかに陰る。
それは決して松明の陰影ではなかった。
「お父さんとお母さんは、地球にいるの?」
「ううん、どこにいるのかわかんない。旅に出るんだーって言って、そのまま」
「でもダブルOの隊員なんでしょう。あそこは基本的に世襲だから。本部にも戻ってきてないの?」
燿はこくりとうなずいた。
どうやらそれが、燿の闇へつながるものらしい。
新世界へ出ていって、なんの連絡もなく消息を絶ったとなれば、それはほとんど死の宣告である。燿もその意味は理解しているだろう。
しかし燿は、自分を励ますように笑った。
「たぶん、いまもこの世界のどこかで楽しく冒険してるんだと思う。ほら、ダブルOのひとたちってみんな冒険好きでしょ? あ、そういえばお姉さんは、ダブルOとは関係ないんだっけ?」
「いまはね。昔は、わたしもダブルOの一員だったわ」
まだ幼いころ。
それこそ、いまの燿と同じくらいの年のころだ。
両親に連れられ、最初のこの新世界の土を踏んだとき、叶はまだ十一歳だった。
それから一年も経たないうちに叶は自分が天才であることに気づき、そして、ダブルOを離れた――あの戦争をきっかけに。
それからずっと新世界で生きてきた。
地球の空気は、もう十年以上吸っていない。
そもそも叶は、地球にはなんの興味もなかった。
地球では魔法も使えないのだ。
そんな不自由な土地は切り捨てるべきであり、叶は自分の能力でそれを実行してみせたのである。
洞窟の先が、ふたつに分かれている。
その分かれ道に立ち、燿はふたつの道へ松明を突き入れ、先を見た。
しかしどちらもまだ長く続いているようで、なにも様子は見えてこない。
「うーん――ねえ、どっちに行ったほうがいいかなあ?」
「さあ、どうでしょうね」
どちらの道からも風の流れは感じない。
松明の炎は、燿が動かさないかぎりはほとんど揺れなかった。
つまりどちらの道も外には繋がっていないということ、どちらを選んでも行き止まりが待っているということになる。
「まあ、どっちを選んでもいっしょなら、あなたが好きなほうを選んだら?」
「あたしが好きなほう?」
燿はうーんと悩み、結局、右を選ぶ。
右の道へ進みながら、叶がどうして右を選んだのか聞くと、燿は平然と、
「だってあたし、右利きだもん」
と答えた。
たったそれだけの理由で自分の行き先を決めてしまえるのが燿の恐ろしいところだ。
ふたりは右の道をずっと進んだ。
道の幅や高さは変わりないが、足元や壁に、妙に穴が増えてきたのを叶はしっかり認識している。
穴が増えるのに合わせ、なにかの気配もわずかだが感じるようになっている。
気配というより、視線だ。だれかに見られている気がして振り返っても、だれもいないということが何度かあった。
「さて、この道はあたりだったのかどうか――」
叶は高みの見物を決め込んで、にやりと笑った。
それとほとんど同時に、燿はぴたりと足を止めた。
叶が危うくその背中にぶつかりそうになるほど唐突で、どうしたのかと肩越しに前を見れば、燿は前方のある一点を指さしている。
叶も、そこに視線を向けた。
洞窟の奥深く、そのでこぼことした地面に横たわっているのは、全長十五、六センチの人間だった。




