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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
洞窟の人々
56/109

洞窟の人々 1

   万象のアルカディア



  0


 もうかりまっか?

 ぼちぼちでんなあ。

 ――ある洞窟の住人たち



  1


 地図というものは、世界そのものである。


 世界とはその薄い紙の上に表されるものであり、それが世界の本質的性質である以上、当然のように地図はひとの心を魅了する一種の魔力のようなものを有している。

 地図を見下ろしていると世界すべてを見下ろしている気になるのは、決して気のせいではない。

 その瞬間、世界はたしかに地図を見下ろす人間のものであり、ただ世界の所有者は複数存在するというだけのことなのだ。


 しかし大湊叶は、地図にはなんの興味もなかった。

 それはそのまま、世界にはなんの興味もないということでもある。


 場所は大陸の西、カイゼルというかつての軍事大国の宮殿である。


 いまから二百年ほど前、その圧倒的な軍事力で他国を圧倒し、またたく間に周辺を支配したカイゼルという国は、もうこの世界には存在しない。

 つい数時間前、カイゼルはこの世界から消え失せ、二度と蘇ることはなくなったのだ。


 兵士のひとりが、地図に描かれたカイゼル王国を黒く塗りつぶしている。

 叶は王座に腰掛け、それを眺めるともなく眺めていた。


 黒く塗りつぶされているのは、カイゼルだけではなかった。

 ほかにも、地図のほとんどの範囲が黒く塗られている。

 その黒は、革命軍を意味する黒だった。


 ちいさな村も、軍事大国も、区別なく黒く塗りつぶされて地図上から消えていく。

 叶はその様子を無感動に眺め、退屈そうにため息をついた。


 そこに、


「叶さま、叶さ――わっ」


 白い襟以外はすべて漆黒のワンピースを着た少女がとことこと謁見の間に入ってきて、地面に転がっている死体に驚いて立ち止まる。

 それは髭を生やした男の死体だった。

 少女は慎重に死体の横を抜け、王座の叶に近づく。


「叶さま、あれは?」

「カイゼルの王よ。元、だけど」


 叶の無感動な瞳は、ひとりの男の死体に向けられても変化しなかった。

 まるでなにもない床を見つめているような目で死体を眺め、兵士にそれをどこかよそへ運び出すように指示する。


「ばかよねえ、まったく。敵わないと知って、自分で毒を飲んだのよ。そんなことしなくても、こっちで苦痛なく殺してあげるのにね」

「理性がないんですよ、ああいう人間には」


 少女は眉をひそめて言った。


「この新世界の住民は、みんなそうです。理性的じゃない」

「そうね――でもあの男は、もともとは新世界の生まれじゃないわ」

「え、そうなんですか?」

「正確には、あの男の祖先は、ということだけど。二百年くらい前に地球からやってきた男が、地球の知識を使ってこの国を興したのよ。だから新世界ではまだ発明されていない武器を使って、まわりの国をあっという間に支配できた。いまの王はその子孫ってわけ」

「なるほど……昔からいたんですね、そういうひと」

「わたしと同じような人間が?」


 いたずらっぽく叶が笑うと、少女は慌てて首を振る。


「叶さまは別です。叶さまはその、強いし、きれいだし」

「でもまあ、ある意味では当然でしょうね。文明水準が異なるから、地球ではなんの変哲もない一市民に過ぎなくても、この新世界ではだれよりも科学や理論を知る者になれる。地球での生活が満ち足りなければ満ち足りないほど新世界への要求は大きくなるわ。だから政府は扉を管理して勝手な出入りを禁止しているけど、それならいっそ、扉ごと壊してしまったほうが楽だわ」

「政府にそんなことができるとは思いませんけどね。あれは叶さまの力があったからこそできたことです。普通の魔法使いじゃ、世界中の扉を一気に破壊するなんてできません」

「それもあなたの改良魔術陣があってこそだけどね」


 少女はくすぐったそうに目を細めた。

 それから照れたように視線を投じて、大半が黒く塗りつぶされた地図に気づく。


「――もう、世界のほとんどは叶さまのものですね」

「でもまだ見つからないわ。支配した国をどれだけ探しても、手がかりはあってもナウシカそのものはどこにもない」

「まだ残っているのは――グランデル王国とマグノリア修道院くらいですね。どちらかにナウシカがあると。どちらから攻めますか。なんなら、あたしが行ってどちらかを落としてきますけど」

「そのふたつは、いわばデザートよ」


 叶は足を組み、うっすらと笑った。

 それはぞっとするほど美しく、蠱惑的で、また冷徹な笑みだった。


「おいしいものは最後まで取っておくほうなの。だから、そのふたつはまだ攻めない」

「じゃあ、次はどこに?」

「そうねえ――このあたりかしら」


 叶の指先がつつと地図を伝った。

 ぴたりと止まったのは、国もない、ただの森である。

 少女は首をかしげ、


「この森に、なにかあるんですか?」

「なにかあるといえばなにかあるし、ただの深い森といえばそのとおりだけど、デザートの前にすこしつまむくらいにはちょうどいいわ」

「はあ――じゃあ、兵をそこに」

「いえ、わたしが行く」

「え、か、叶さまが?」

「兵士は連れていかないわ。ひとりでちょっとお散歩してくるから、そのあいだこっちのことはよろしくね、ベロニカ」


 叶は王座から立ち上がり、少女の頭にぽんと手を置いて、そのまま部屋を出ていった。

 少女は感触を思い出すように自分の頭を自分で撫でたあと、ちいさく笑って、叶が座っていた王座にぴょんと飛び乗った。



  *



 大湊大輔、七五三燿、神小路紫、岡久保泉の四人は、昨日から深い森のなかに迷い込んでいた。


 あたりは見渡すかぎりすべて木であり、蔦であり、植物の葉で、あたりには濃密な土と木の匂いが漂っている。

 足元は腐葉土でぐにぐにと沈むし、頭の上では四六時中鳥や虫が鳴いているしで、まさに大自然まっただ中である。


 なぜそんな森に迷い込んだのかというと、


「あっちのほうになんかありそうな気がする!」


 という燿の発案によるのだが、その前提として、行くあてがどこにもないということもあった。


 四人がロスタム王国を出たのは、かれこれ三週間ほど前のことだ。


 そこからとなりの町までの道のりは教わっていたから、迷うことなくとなり町に到着し、そこで何事もなく一泊して、またとなり町の場所を聞いて歩き出したのはよかったのだが、このまままっすぐ西へ行く、と教わったその西には大きな森が広がっていた。

 さすがに道もない森のなかを突っ切るということはないだろう、と森を迂回しながら歩いていたのだが、どこまで歩いても森は終わらず、最後にはとなり町の位置を完全に見失い、最終手段として燿の勘を信じるということになったのである。


「やっぱりあの選択は間違いだったような気がするなあ……だれかの勘に頼らざるを得ないとしても、七五三の勘だけは頼っちゃいけなかったんじゃなかったかなあ」


 大輔は腐葉土の上をふにふにと歩きながら呟く。

 肝心の燿は先頭に立ち、鼻歌どころか大きな声で歌いながら上機嫌に進んでいた。


「せんせー、こっちだよ!」

「ああ、わかってるよ……ちなみに聞くけど、その根拠は?」

「え、こんきょ?」


 はじめて聞いた言葉だ、というように燿は首をかしげたあと、にっと笑う。


「勘!」

「そう、勘ね、想像どおりの答えありがとう。ああ、やっぱり失敗だった。でも引き返すには遅いよなあ」


 大輔はちらりと後ろを振り返る。

 そこには泉と紫が並んで歩いているが、そのさらに後ろも深い森で、帰り道もよくわからなくなっていた。


 もちろん、森から抜けるだけなら大して苦労はない。

 空を見つつある方向を決め、まっすぐ歩くだけでいい。

 森が無限に続くものでないかぎりはその方法で出られるが、しかし大輔たちは町を目指しているのであって、森から抜け出しても仕方ないのだ。


 大輔は深々とため息をつく。

 ため息をつくと、身体がずんと重たくなり、手足に鉛でもつけているように感じられた。


「わっ、でっかいカブトムシみっけ! 見て、ほら、でかいよ!」

「や、やめろよ、ぼくは虫がこの世でいちばん嫌いなんだ――ち、近づけんなよ!」

「ゆかりん、泉ちゃん、ほら見て。あたしの顔くらいあるよ」

「え、あ、う、うん、ほんとだね――わ、ち、近づけなくていいよっ」

「あれ、泉ちゃんも虫嫌いなの? ゆかりんは?」

「まあ、普通に嫌いね。っていうかカブトムシ見つけたって素手で捕まえられる女子高生って、学校全体でひとりくらいじゃない?」

「えー、そうかなあ。結構かわいいのにな」


 燿は全長四、五十センチはある巨大なカブトムシを腕に乗せ、よじよじと登ってくるのを眺めているが、それを見ている大輔はぶるると身体を震わせた。


「知ってるか、七五三、昆虫って超古代から存在する宇宙由来の生物なんだぜ」

「え、う、うちゅー?」

「昆虫の進化を辿ると、どうもよくわからないところから唐突に出てきたとしか思えないんだ。だから、一説によると昆虫っていうのは宇宙からなんらかの方法で飛来した生物なんじゃないかって。もしかしたら昆虫っていうのは宇宙人の一種で、メキシコでいうところのチュパカブラは昆虫が進化したものだとかなんとか」

「う、き、きみ、宇宙人なの?」


 燿の腕をゆっくりと上るのんきそうなカブトムシは、長い角を上下させる。

 それはまるで燿の問いかけにうなずいているようだった。

 燿はうっとうめき、カブトムシをそっと木の幹に戻した。


「そうそう、それでいいんだ――さっきの話はほぼ全部嘘だけど」

「ええっ、嘘なの!?」

「昆虫は普通に進化の過程で現れたものだ。宇宙由来なんかじゃない――もちろん、生物の起源が宇宙だっていうなら、昆虫どころか地球上の生物はみんな宇宙由来ってことになるけどな。ともかく、昆虫には触れないのがいちばんだ。そっとしとけ、そっと」

「はーい」

「あの、先生」


 すこし後ろを歩いていた泉がとことこと大輔に近づき、その顔を覗き込んで、眉をひそめた。


「先生、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

「さっきのカブトムシのせいじゃないか? うう、考えるだけで寒気がする」

「その寒気、別の理由じゃないですか?」


 紫も、珍しく心配そうな顔で言った。


「いま、そんなに寒くないですよ。それに、すごい汗」

「ん、だって、暑いだろ」

「そんなに――ねえ?」


 紫と泉は顔を見合わせ、うなずく。


 森のなかは、蒸し暑いことは蒸し暑いが、汗をだらだらとかくほどではなかった。

 大輔はすこし立ち止まり、紫や泉の顔を見て、そういえばなにかがおかしいと気づく。


 全身が鉛のように重たいのはここまで歩いてきたせいだと考えていたが、それにしても異様に身体がだるいし、足元がおぼつかない。

 これは体調がおかしいのだ、と気づくと、もう立っていられないほど、全身がずんと重たさを増した。


「あれ、ちょっと待てよ――」


 大輔はかたわらの木に寄りかかるように座り込んだ。


「先生、大丈夫ですか――」

「燿、ちょっとストップ! 戻ってきて!」


 後ろの状況に気づかず前へと進んでいた燿を、紫が呼び止める。

 それに気づいて戻ってきた燿は、木の幹にぐったりと背中を預けた大輔を見てぎょっとした。


「せ、先生? どうしたの、お腹痛いの?」

「腹は痛くないけど――」


 と大輔は荒い息のまま言って、首を振った。


「おまえら、ちょっと離れろ」

「え、な、なんで――先生?」

「いいから、離れろって」


 燿たちが聞いたことのない、本当に怒ったような大輔の口調だった。

 三人は思わず後ずさり、大輔から三、四メートル距離を取る。


「先生――先生、怒ってるの?」

「怒ってる? ああ、そうか、悪い――ちがうんだ、その、ああ、くそ、頭が回らん」

「……先生?」

「とにかく、ぼくに近づくなよ。なにかのウイルスかもしれない。もしかしたらぼくからおまえたちに感染する可能性もある。できるだけ距離を取るんだ」

「ウイルス?」


 見れば、大輔は真っ赤な顔をして、あえぐように短い呼吸を繰り返していた。

 普段はひたすら明るい燿でさえ、そのただならぬ病魔の気配に息を呑む。


「先生、でも、病気だったら、早く町へ戻らなきゃ――」

「ぼくはどうも、町まで歩けそうにない」


 息とともに言葉を吐き出し、大輔はうつむいたまますこし笑った。


「ぼくのことは気にせず先へ行け、って言えば格好いいんだけどな。とりあえずここに放置された死にそうだから、なんとかおまえたちで町に戻って、薬をもらってきてくれないか」

「そ、そっか――わかった、先生、すぐ行ってくる!」

「ちょっと待ってよ、燿」


 と紫が呼び止め、


「先生ひとりだけここに残していくつもり?」

「え、あ、そっか――じゃあ、だれかが残って、ふたりで町に戻る?」

「でも、町へ行ったら、もう一回この場所に戻ってこられる? 自分たちがどこにいるのかもわからないのに」


 そう言われて、燿は頭上を見上げた。


 木々のすき間から曇り空が見えている。

 しかしここが森のどのあたりなのかは、そんな限られた情報からではまるでわからなかった。

 周囲の植物はどこを見ても同じようなものばかりで、目印になるようなものもない。

 そもそも燿は気の赴くままに進んできたのであり、一定の方向を目指していたわけではないから、もう一度森の外からこの場所を目指すことは不可能に思えた。


 どうしよう、と燿は大輔を見る。

 こういうとき、大輔なら必ずなにか名案を出してくれるはずだった。

 しかしいまはその大輔がぐったりと身体を横たえ、呼吸することさえ苦しげにしているのだ。


 大輔に頼ることができない、と理解した瞬間、燿は急に不安を覚えて、思わずとなりにいた紫の腕をきゅっと抱いた。

 紫は燿の感情を察するようにその腕を軽く叩く。


「大丈夫、なんとかなる――でも、まずは先生といっしょに森の外へ出なきゃ。もう一回ここに戻ってくるのは絶対に無理だけど、なんとか森さえ抜けられれば、先生をそこに置いて町へ戻れるかもしれないわ」

「そ、そうだよね、大丈夫だよね――じゃあ、あたし、先生を担いでいく」

「無茶なこと言わないの。そんなの、無理でしょ。もっと効率のいい方法を考えなきゃ――」

「でも、のんびりはしていられないよ」


 泉は不安げに息をついた。


「先生、つらそう――熱も高そうだし、急がなきゃ」

「やっぱり、担いでいくしかないよ。三人交代で担いだら無理かな?」

「ここまでくるのに丸一日森のなかを歩いてきたのよ。先生を担いで森を出るってなったら、どれだけかかるか――そもそもどこから森を出るのかもわからないし」

「だからってここにいたら――」

「落ち着け」


 苦しげに押し黙っていた大輔がちいさく言う。


「ぼくは、一日か二日くらいならどうとでもなる。まずはおまえたち三人が森を出るんだ。ここは危険な動物もいないみたいだし、こうやって寝てれば一日くらいすぐだから」

「でも、もう一回この場所に戻ってこられるかどうか――」

「魔法を使え。おまえたちは魔法使いだろ。それにこのあたりは空気中の魔力量が多い――方法はなんでもいいから、目印を作るんだ」

「魔法を使って、目印を……」


 紫は腕を組んで考え込んだ。

 なんとかしなければならない、と焦るだけ、思考が空転する。大輔に頼れないいま、魔法のことをいちばん理解しているのは紫で、大輔と同じ役割が求められているのだ。


 魔法を使い、木を切り倒すか焼くかして目印を作るか、と考えるが、その方法ではとても森を抜けるまで魔力が保たない。

 もっと効率がよく、わかりやすいやり方があるはずだと紫は視線を下げる。


「先生!」


 大輔が苦しげに咳き込んだ。症状は風邪のようだが、顔色を見るかぎり、ただの風邪というわけでもなさそうだった。


 もしかしたら、本当に命に関わるような病気なのかもしれない。

 三人はほとんど同時にそれを予感し、顔を見合わせた。


 そのときだった。


「あらあら、なかなかおもしろい展開になってるじゃない」


 不意に、女の声があたりに響き渡った。


 燿はぱっと上を見上げる――するといつかのように、高い木の枝に女がひとり腰掛け、なんともいえない笑みを浮かべて燿たちを見下ろしていた。


「あなたは――」

「久しぶりね、お嬢ちゃんたち」


 大湊叶は、美しい笑みを浮かべて手を振っていた。


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