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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
桜の姫君
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桜の姫君 13

  13


 紫は、至近距離からミナギの顔をじっと見つめ、ふと呟く。


「なかなかかわいい顔してるわね、あなた」

「いま言うこと? あ、あなたやっぱり――」

「冗談よ。ほら、暴れないで。解けなくなるから」


 狭い繭のなかである。


 ふたりはひとつの繭のなかで、ほとんど抱き合うような格好で閉じ込められていた。


 ミナギは繭に閉じ込められていて、なおかつ身体を糸で拘束されていたが、紫は身体はともかく自由で、ただ内側から殴っても蹴っても繭は破れず、仕方なくミナギの身体を拘束している糸をほどいてやっているのだ。


「ねえ、あの気持ち悪い生き物、いったいなんなの?」


 と紫が言うと、ミナギはふんと鼻を鳴らす。


「知らないわよ、そんなの」

「このへんにいる生き物じゃないの?」

「たぶん、そうなんでしょうね。見たことはないけど」

「じゃあ珍しい生き物なのかしら――ほら、ちょっと解けたわ」

「あなた、この繭をどうにかできないの?」

「さっきからいろんな感情を込めて蹴ったりしてるんだけど、ぜんぜんだめ。硬いっていうか、やわらかいんだけど破れないのよね」


 でも、と紫はすこし声を低くして呟く。


「ある意味、破れないほうがいいかもしれないけど」

「どういうことよ?」

「だって、考えてみなさい――わたしたちは繭に詰められてどこかに運ばれたでしょ。それって、あいつらの巣だと思わない?」

「う――」

「つまり、繭を開けて出てみたら、あの生き物がぞろぞろと……それこそ、一万匹くらいびっしりいたりしたら」


 ミナギはびくりとして身じろぎをやめる。

 その光景を想像したのか、顔色も悪い。

 紫はすこしおどかしすぎたかな、と思いつつ、ミナギの身体にまとわりつく糸を解く作業を続ける。


「で、でも、きっとイオリが助けてくれるわ」


 強がるようにミナギは言った。


「あんなやつら、何万匹いたってイオリなら一瞬で倒せるはずだもの」

「ふうん。戦いの様子はよく見えなかったけど、あのひとってそんなに強いの?」

「当たり前よ。国でいちばん強いわ」

「へえ、いちばん。すごいわね――ま、たぶん、わたしたちのほうが強いけどね」

「む……あなたのどこが強いのよ。あなたみたいな女にイオリが負けるはずないでしょ」

「さあ、どうかしらね。たぶんわたしたちの能力と自称大天才さんの作戦があれば、わたしたちが圧勝すると思うけど」

「ふん、それこそ買いかぶりじゃないの。あの男、そんなに冴えた感じには見えなかったけど」

「見た目はね。ま、中身もだいぶんあれだけど、でもまあ、たしかに頭はいいわ。頭が変ともいうけど」

「イオリのほうが絶対強いわ。絶対に」


 強調するミナギに、紫はふうんと笑った。


「な、なによ? なんか言いたいことでもあるの?」

「別に――あなた、イオリさんが好きなの?」

「は、はあ? ばば、ば、ばか言わないでよ。なな、なんでわたしがイオリのことを」

「あー、ごめんごめん、触れちゃいけなかったみたいね。でも隠すんならもっとうまくやれば? 態度でばればれよ」

「べ、別にイオリなんか好きじゃないわよ! あいつはわたしの部下で、ただそれだけよ――そ、そんなの、あんただってそうじゃないの」

「なにが?」

「あの男――ダイスケが好きなんでしょ」

「は、はあ? それこそばかよ、そんなわけないでしょ」

「嘘ね、態度でばればれ」

「あんたそれ言いたいだけ――きゃあっ」


 繭のなかでわいわい騒いだせいか、不意にずんと低い地鳴りのような音がして、繭がぐらぐらと揺れた。

 ふたりは抱き合って息をひそめる。


「……いまの、なに?」

「なんか、でっかいやつが動いたっぽい感じだったけど」

「や、やめなさいよ、そんないやな想像」

「でも、ほんとに――」


 再び、地面がぐらりと揺れる。

 同時に繭がぐんと空中に引っ張られ、振り回される。


「ちょ、ちょっと待って――きゃああっ」

「わっ、う――」


 まるで洗濯機のなかに放り込まれたように、ふたりは繭のなかでぐるぐると動きまわった。

 なにが起こっているのかはわからないが、ただなにかとてつもないことが起こっていることだけは理解して、ふたりはひしと抱き合い、ただただ悲鳴を上げていることしかできなかった。



  *



 大輔たちは深い森の奥へと進んでいたが、すでに道を見失い、どちらへ進むのが正しいのかわからない状態になっていた。


「だ、ダイスケ殿、本当にこの方向で合っておるのか?」


 イオリは立ちはだかる蔦を刀で切りながら焦ったように言う。


「早くしなければ、姫さまが――」

「この道が正しいのかはわからないけど、森の奥へ行くしかないだろ――ああくそ、鬱陶しい。大丈夫か、七五三、岡久保」

「な、なんとかー! わっ、でっかい虫」

「きゃああっ」

「ダイスケ殿、通れそうな場所がふたつあるぞ。どちらへ行くのでござる」

「ちょっと待ってくれ、人間が通ったような痕跡はないか。それか、なにか引きずったような跡とか」

「むう、薄暗くてよくは見えぬが――」


 イオリはじっと森のなかに目をこらす。


 そのとき、向かって右手のほうから、ずん、と低い衝撃を感じた。


 大輔とイオリは顔を見合わせ、即座にその方向へ向かう。


 衝撃は一度ではなかった。

 さらに二度、三度と続き、まるでそれは、巨人が暴れているような物音だった。


「いやな予感がする――神小路のやつ、無事ならいいけど」


 大輔は低く呟き、邪魔な枝を払いのけて前へと進んだ。


 それでも、深い森である。

 進もうにも邪魔をするものがあまりに多く、まっすぐ進むことはほとんど不可能といってもよかった。

 焦れば焦ればだけ木が、蔦が、草が邪魔をする。

 薄暗い足元では根が張り出し、それに足を取られて転ぶことも何度かあった。

 しかし物音が続くかぎり、方向は見失わず、やがて前方がぱっと開ける。


「む、ダイスケ殿、どこかに出るぞ!」

「気をつけろ、なにがいるかわから――」


 わからないぞ、と言いかけた言葉を、最後まで言うことはできなかった。


 開けた空間に出た瞬間、目の前に現れたものに、さすがの大輔も呆気に取られて口をあんぐりと開ける。


 それは、石の塊だった。


 そう見えたが、すくなくとも石の塊は動いたりはしない。


 その石の塊は、ずんぐりとした二本の足で立ち上がり、恐ろしく太い腕をだらりと垂らして立ち上がっていた。

 人型のようだが、頭部に当たる部分はちいさく、全長は十五メートル近くあった。


「な、なな、なんだこいつは」


 石の塊、ゴーレムともいえるようなそれは、片足をゆっくりと上げ、地震のようにあたりを震わせて足踏みをする。

 すこし距離があっても、その衝撃は立っているのがやっとというくらいだった。


「いやいや、いやいや! さすがにこいつはでかすぎるし、戦うとかそういう段階突破してるだろ――」

「だ、ダイスケ殿、あれを! やつの右手を!」


 イオリが刀の先でぴっと指し示すゴーレムの右手に、なにか白いものが握られていた。

 大輔もそれを確認し、もしや、と思う。


「神小路! 神小路、聞こえるか!」

「姫さま! どうかお返事を!」


 ふたりが同時に叫んだ。


 それに応えるように、くぐもった声がその白い繭のようなものから返ってくる。


「先生――なんとか無事――」

「イオリ――助け――」


 そんな断片的な声である。

 しかしそれだけでイオリにとっては充分だった。


「ダイスケ殿、頼みがある!」


 イオリは大輔に向き直り、持っていた刀を大輔にぐいと押しつけた。

 大輔は反射的にそれを受け取ったが、怪訝そうに、


「どうした、イオリ、いまはそんな場合じゃ――」

「いまだからこその頼みでござる。拙者、これから姫さまを助ける。ダイスケ殿は姫さまを連れ、ここを脱出してくださらぬか」

「――イオリ?」


 イオリの瞳には、異様な覚悟の光があった。


「どういうことだよ、イオリ――なんでぼくにそんなことを」

「ダイスケ殿にしか頼めぬのだ。ダイスケ殿なら、姫さまを安心して預けられる。頼んだぞ――どうか無事に、ここを逃げ出してくれ。拙者のことには構わずに、だ」

「おい、イオリ――」


 イオリは刀を預けたまま、ずんずんと石の巨人に近づいていった。


 刀もなく、なにをするつもりなのか大輔にはまったくわからなかったが、その鬼気迫るイオリの表情を見ては、止めることなどできなかった。


 イオリは巨人の足元に立つ。

 そして巨人を見上げ、叫んだ。


「われは四人衆のひとりなり。王家に仇なすものはわが敵とみなす!」


 そしてイオリは、その場にどかりと座り込んだ。

 両手を合わせ、じっと全身に力を込めはじめる。

 大輔はその姿でイオリの目的を察したが、疑問なのは、なぜミナギの安全を大輔に頼んだかということだった。


 本来であれば、ミナギの安全はイオリが確保すべきである。

 いままではイオリもそのつもりでいたはずなのに、なぜいま大輔にミナギを預けたのか――それではまるで、自分にはそれができないとでも言うようではないか。


 しかしなにか、予感のようなものはあった。

 いやな予感というより、イオリの雰囲気からもたらされる緊張のようなもので、燿や泉も緊張した顔でイオリの背中を見つめていた。


 と、イオリの背中が奇妙に変化をはじめた。


 背筋をぴんと伸ばし、あぐらを組んでいたのだが、なにか服のなかで小動物でも暴れているように、背中がぼこぼこと蠢いているのだ。


「――なんだ?」


 イオリの背中から、なにかがむくりと隆起し、服を突き破ってさらに巨大化する。

 それは肌色の瘤のようなものだった。

 しかし瘤はひとつではなく、むき出しになったイオリの背中はそうした瘤だらけになっていて、それが揃って隆起し、巨大化していくのである。


 大輔は、ふと気づいた。


 イオリの背中から瘤が隆起しているのではなく、イオリの身体自体が巨大化しようとしているのだ。


 大きな変化は、またたく間にやってきた。


 イオリの背中がひと回り、ふた回りと大きくなり、さらに手足がぐんと太く、長くなる。

 イオリは低くうめき声を上げ、さらに全身に力を込めた。両手足、胴体、頭部が、さらに風船のようにむくむくと膨らんでいく。


「あ、あ――」


 すらりとして柔軟だったイオリの身体は、瞬きのうちに石の巨人と大差ない、文字どおりの巨人に変貌していた。



  *



 イオリだった巨人は、苦痛に呻くように大きく鳴いた。

 その声はあたりの木々を強風のように震わせ、森からは鳥たちが一斉に飛び立つ。


 石の巨人はそこでようやくイオリに気づいたように、ゆっくりとした動作でイオリに腕を振り上げた。


 地面さえ断ち割ってしまいそうな一撃が、イオリの肩にどんと強烈な衝撃を与える。

 イオリは獣じみた声を上げ、石の巨人に体当たりした。

 ふたりの大きさはほとんど同じだが、力は明らかにイオリが勝っている。

 石の巨人は直立したままずるずると背後へ押し戻され、上体がぐらりと揺らいだ。


「倒れるぞ!」


 足元にいた大輔が叫び、衝撃に備える。


 石の巨人は真後ろへ向かってどさりと倒れ、巨大地震のような揺れがあたりを襲った。

 イオリはそのまま石の巨人にまたがり、硬い石の表面を力任せに殴りはじめる。


 それは、攻撃といえるようなものではなかった。

 怒りに任せて、あるいは憎しみに任せて、急所も狙わずにただ手当たり次第に殴りつけているだけだった。

 大輔はその様子を見て、イオリにはろくに意識がないのだと悟る――もしイオリが明確な意識を持っているなら、石の巨人を倒すよりも先にミナギを救出しようとするだろう。


「七五三、岡久保、おまえたちはここにいろ!」

「先生は?」

「ぼくは神小路とお姫さまを助けてくる」


 大輔は森から出て、ふたりの巨人が戦う空間へと飛び出した。


 そうしてふたりの巨人に近づいてみると、まるで大輔のほうが小人になったようだった。

 大輔の身長はふたりの巨人の足の裏ほどもなく、もし巨人がその気になれば簡単に踏み潰されるだろうが、ふたりの巨人は背後で動きまわるちいさな影には気づいていないようだった。


 紫とミナギが閉じ込められた白い繭は、まだ石の巨人がその手に握っている。

 助け出すなら、倒れているいましかない。

 大輔は巨人ふたりの様子を窺いながらそっと近づき、石の巨人の手にしがみついた。


「おい、神小路、聞こえるか!」

「――先生」

「ちょっと待ってろ、いま助ける。イオリがこいつの動きを止めてる間に――うおっ」


 石の巨人が、倒れたまま腕を軽く振り上げた。

 大輔は振り落とされそうになるのをなんとかしがみつき、再び手が地面に落ちたところで、しっかりと握られた繭を掴む。


「う、ねとねとしてて気持ち悪い――」


 人間ふたりを包み込んだ巨大な繭である。

 大輔はそれを、なんとか巨人の手のなかから引っ張り出した。


 イオリが雄叫びを上げる。

 さらに力を込め、石の巨人を殴りはじめるが、硬い岩を素手で殴っているのだ、その両手は自らの血で赤く染まり、それがあたりにも雨のように散らばっていた。


 大輔が繭を引っ張りながらその場から離脱すると、なにも言わないうちから燿と紫がやってきて、三人で森のなかへ運び込んだ。

 そして大輔はイオリを振り返り、


「イオリ、お姫さまは助け出したぞ! もういい、撤退だ!」


 その声が聞こえていないわけではないはずなのに、イオリはまったく意に介さず、ひたすら石の巨人をがんがんと殴り続けていた。


「――イオリ?」

「無駄よ」


 燿と紫が力任せに引っ張り、なんとか破れた繭のなかから、ミナギが言う。


「無駄って、どういうことだ?」

「イオリは、もう正気を失ってるの。あの、ばか――その手は使っちゃいけないって言ってあったはずなのに」


 ミナギは眉をひそめ、まるで恨むようにイオリの大きな背中をにらんでいた。


「正気がないって、それじゃあ、どうすれば元に戻るんだ」

「元には戻らないわ」

「は、はあ?」

「四人衆の変化は、自分で解くか、体力がなくなるまで解けないのよ。イオリはもう意識がないから自分では解けないし、体力がなくなって変化が解けるっていうのは、要は死ぬ間際ってこと――だから、もうイオリは、元には戻らない」


 自分の言葉を噛み締めるようなミナギの口調だった。

 しかし大輔は、すぐに首を振る。


「そんなことはない。元に戻す方法は絶対にある」

「ないわよ、そんなもの――なにも知らないあなたが、どうしてそう言い切れるの」

「イオリの兄貴、マサルを倒したときに、その意識が途切れると同時に犬から人間に戻ったんだ。あれは自分で戻ったわけでもないし、死んだわけでもない。たぶん、意識をなくせば元に戻るはずだ」

「――あのイオリを、倒せるっていうの?」

「イオリにはさっさとお姫さまを連れて逃げろって言われたけど、ま、そういうわけにはいかないからね。七五三、岡久保、ふたりを森の奥へ避難させて、おまえたちもそこで待っててくれ。物音が止んだら、回収を頼む」

「先生――どうするつもりなんですか?」

「ふははは、ぼくは超絶天才にして人類叡智の到達点なのだ。理性をなくした巨人なんぞに負けるか。行け!」


 大輔は再び巨人たちの広場に出ていく。


「先生!」

「泉ちゃん、早くふたりを奥へ運ぼ」

「でも、燿ちゃん――先生が」

「せんせーは大丈夫だよ、きっと」


 燿は、まるで心配などしていない顔でにっと笑った。


「せんせーなら大丈夫。あたしたちは、先生に言われたことをちゃんとやらなくちゃ」

「う、うん――」


 泉は不安げな視線を一瞬大輔に送ったが、ここに残ってなにが手伝えるわけでもないことは泉自身がいちばんよくわかっていた。

 それなら、大輔の指示に従うのがいちばんの協力になるはずなのだ。


 ふたりは、まだ繭から完全に出られないふたりを繭ごと森の奥へと運び込んだ。

 大輔はちらりと振り返ってそれを確認し、満足げにうなずいたあと、さて、と腕を組む。


「ああは言ったものの、どうしたもんかな、こいつは――この巨人を倒すってか」


 イオリは、まだ一心不乱に石の巨人を殴り続けていた。

 石の巨人のほうは、もう息絶えたのか、あるいは破壊されたのか、まったく動かなくなり、石同士の連結も解け、すっかりただの石の塊になってしまっている。

 イオリはそんなことにも気づかず、ただの巨岩を、血まみれになりながら殴っているのだ。


 人間の力では蚊ほども衝撃は与えられないだろう。

 それを一撃で、意識ごと刈り取るようなダメージを与えなければならない。

 大輔はちいさくため息をついたが、やらなければならないことは明らかだし、やらなければならない以上、ともかく全力でやるしかないのだ。


「全力でやるのはザーフィリス以来か――魔術陣ができるまでこっちには気づかないでくれよ、イオリ」


 大輔はそう言って、近くにあった枝を広い、地面に魔術陣を描きはじめる。

 まず巨大な円を描き、そのなかに複雑な図形を、一センチも違わず描いていく。


 そのかりかりと地面を削る音に気づいたのか、それとも単に石の巨人を殴ることに飽きたのか、巨人と化したイオリはふと手を止め、後ろを振り返った。


「げっ――」


 黒々とした巨大な目が大輔を見つける。そして、のそりと立ち上がった。


「ちょ、ちょっと待て! もうちょっとでいいから待てってば――わっ」


 イオリは大輔に向かい、ぶんと腕を振る。

 大輔は横に飛んでそれを回避したが、イオリはすかさず足を振りぬき、大輔をボールのように蹴り飛ばした。


 大輔はトラックにはねられたような衝撃を覚え、森のなかへ吹き飛ばされる。

 しかし幸いやわらかな腐葉土に守られて大した怪我はなく、すぐに起き上がり、イオリの身体の下を抜けて魔術陣に最後の円を描き足した。


「よっしゃ完成! かなり痛いと思うけど、恨むなよイオリ!」


 大輔は魔術陣の中央でぱしりと両手を合わせた。


 本来、大輔には放出可能な魔力がごく少数しかない。

 魔法を使うにはふたり以上の魔力がほぼ同量必要で、それらがぶつかり合い、空気中の魔力と連鎖反応を起こすことで巨大な奇跡を起こすが、大輔の魔力ではその連鎖反応を起こすことができないのだ。


 しかし大輔が独自に考え出した魔術陣は、体力を強制的に魔力へ変換し、周囲の魔力も巻き込んで巨大な反応を起こす。

 その代わり、使用した場合の体力低下が著しく、乱発はできない一種の裏技のようなものだった。


 イオリは魔術陣の中央に立つ大輔をじっと見下ろし、踏み潰そうとするように片足を上げた。


 しかしそれが、空中でぴたりと止まる。


 大輔がなにかをしたというわけではない。

 わずかに残った理性が、身体を押しとどめたようだった。


「大丈夫だ、元に戻してやる」


 大輔は低く言った。


 同時に魔術陣が薄く発光をはじめた。

 その光は、ある瞬間に臨界を突破し、あたりにぱっと眩しく広がった。イオリも低くうめいて目を覆い、後ろによろめく。

 その蹣跚した隙に、大輔はイオリの巨大な身体に向かって手のひらを突き出した。


 ふわりと風が舞った。


 はじめ、それはそよ風のようだったが、あとを追うように強風が吹き、またそのあとを追って、さらなる強風が押し寄せる。


 イオリは、人間なら立っていられないほどの強風になり、ようやくその風の存在を感知したようだった。

 長く伸びた髪が舞い上がり、目を細めている。

 しかしその身体が揺らぐ様子はまったくなく、むしろ風に逆らい、大輔に向かって手を伸ばそうとしていた。


「まだまだ!」


 風がもう一段階強くなる。

 イオリの手がぴたりと止まった。

 強風から身体を守ろうとするように、背中を丸めて前かがみになる。

 それでもまだ倒すには遠く及ばない。


 大輔は、身体のなかから恐ろしい速度で魔力と体力が吸い出されていくのを感じていた。

 このままでは保たないと考えて、一気に最大出力まで持っていく。


 全身をめぐるエネルギーを、すべて手のひらから風に変えて排出する。

 その強風は直接当たっていない周囲の木々を大きく揺らし、そのうちの何本かは深く張った根ごと持ち上がり、土といっしょに宙を飛んだ。


 イオリの身体がすこしぐらつく。

 それでもまだ足りない。

 大輔は腹の底から声を上げ、すべての力を振り絞った。


 あまりに強まった風は、悲鳴のような風音を立てて空へと立ち上った。

 イオリの巨体はその風に翻弄され、後ろへぐっと反り返り、足が地面を離れる。


 全長十五メートルはある巨人の身体が、完全に宙に舞い上がった。


 そのまま風に押され、森のほうへ吹き飛ばされ、地鳴りを起こして地面に落ちる。

 周囲の木々はすべてなぎ倒され、対象がなくなった強い風はその進む先にあるすべてを根こそぎ舞い上げて、やがて力を失い、最後にはまたそよ風となって消えた。


 風に舞い上げられたイオリは全身をしたたかに打ちつけ、声も上げず意識を失っている。

 大輔もまた、魔法が途切れるや否やすべての力を使いきって、その場にぱたりと倒れた。


 しばらくして燿と泉、そして救出された紫とミナギがその場にやってくると、大輔の真正面の森には幅五、六メートルの、なぎ倒された木々でできた道が開いていた。


「これが魔法の力――」


 ミナギは呆然と呟き、そして、それだけのことをたったひとりでやってのけた男を、地面に倒れた大輔をじっと見下ろした。


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