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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
桜の姫君
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桜の姫君 12

  12


 大輔は脇目もふらず逃げていた。


「ぬおおっ、イオリのほう行けってば! ぼくばっかり追いかけてくんなよ、この犬っころめ!」

「狼であるっ、わおおん!」


 逃げる大輔を、灰色の巨大な狼が追っている。

 人間と狼、その脚力には雲泥の差があるはずだが、大輔も必死なのか、その距離は徐々にしか縮まっていなかった。


 しかしやがては追いつかれ、その牙が大輔の背中をかすめる。


「わわっ」


 大輔は飛び上がるようにしてそれを躱したが、マサルはそのまま大輔の背中に飛び乗り、鋭い爪をぐっと肩に食い込ませて押し倒した。


 ぐるぐると喉を鳴らし、鋭い牙が大輔の首元を狙う。

 しかしそれをばくりとひと噛みする前に、マサルはひょいと大輔の上から飛び退いた。

 その一瞬後、ぎらりと光る白刃が先ほどまでマサルが立っていた場所を通過する。


「くっ、見破られていたか」


 大輔が囮になり、イオリが完全に死角となる場所から仕掛けた攻撃のはずだったが、マサルは瞬時にそれを察知し、身軽に逃げ去ったのだ。


 マサルはふさふさとした尻尾を振りながら、ぐっと牙を剥く。


「甘いぞ、イオリ。おれはいま、まさに狼になっているのだ」

「犬だろ」

「狼である! 強化されたのは脚力だけではないぞ。貴様らがどこにいるかというくらい、目で見るまでもなく鼻でわかるわ!」

「くそう、まったく野生ってやつは厄介だな――」


 大輔は起き上がり、爪が食い込んだ肩を押さえる。

 そこからはうっすらと血が滲んでいたが、その程度の怪我はすでに大輔、イオリともども全身に負っていた。


「どうする、ダイスケ殿」


 イオリが荒く息をつきながら、刀を構え直す。


「このままではじりじりと押し込まれてしまうでござる」

「こっちは全身傷だらけ、向こうはまだ無傷だからな。状況は決してよくないけど、でもまあ――」


 大輔はにやりと笑い、挑発するようにマサルを見た。


「こっちの勝利は揺るがないところだけどな」

「ふん、その口がいつまで続くか見物だな」

「わっ、またきた――イオリ、散開!」

「む、了解でござる」


 ふたりは左右へ飛ぶ。

 どちらを狙うかはマサル次第だが、マサルは迷わず、大輔を選んでいた。


「な、なんでこっちくんだよ! ああもう疲れた!」


 大輔はまたどたどたと逃げ出すが、あっという間に距離は詰まる。

 マサルは大輔の背後に迫り、低くうなり声を上げて飛びかかった。


「わっ――」


 大輔はとにかく左へ飛んで攻撃を交わし、ばっと起き上がり、あたりを見回した。


 声が聞こえた気がしたのだ。


 一瞬、気のせいかとも思ったが、もう一度はっきりと聞こえる。


「せんせー、こっちは終わったよー! 泉ちゃんも終わったみたいー!」


 明るい燿の声だ。

 大輔はよしと声を上げ、悠然と立ち上がった。


「ふははは、おまえの命運も尽きたようだな、犬よ!」

「狼である――命運が尽きたとな」

「おまえの弟ふたりは、ぼくの弟子ふたりがあっという間に、これ以上ないくらいばっさりきっぱり始末した。いまや残っているのはおまえひとりだ。降参するならいまのうちだぜ」

「ほう――マサムネとムサシがやられたか」


 狼はぴくりと耳を動かしたが、それ以上の反応は見せなかった。


「あいつらも修行が足りん。姫さまの確保もできんとはな。まあ、いい。おれが貴様らすべてを排除し、姫さまを無事城へお連れする」

「あくまで任務を全うするってことか。そういうところはきらいじゃないけど、敵には回したくないな。でも、逃げまわるのはここまでだ。これからは反撃に転じる」

「できるものならやってみろ!」


 マサルは大きく吠え、一気に大輔との距離を詰めた。

 大輔はにやりと笑ってポケットからちいさな黒い玉を取り出す。


「これでも喰らえ!」


 大輔はそれを、思い切り地面に投げつけた。

 瞬間、ぽんと音がして、煙が上がる――イオリからもらった煙玉である。

 その煙はまたたく間にマサルの視界を塞ぎ、大輔とのあいだに立ちはだかった。


 しかしマサルは、足を止めようとはしなかった。

 マサルははじめから視力には頼っていない。

 まっすぐ煙に突っ込み、大きく口を開ける。


「貴様の匂いは、すでに覚えておるわ!」


 大輔はちょうど、煙に乗じて逃げようと背中を向けたところだった。

 マサルは火薬のなかに漂う大輔の匂いを辿り、その左腕にしっかりと食いつく。

 大輔は大きくうめき声を上げた。


「や、やられた――なーんちゃって」

「――なに?」


 マサルは、ひゅん、とかすかな音がするのを聞いた。

 しかしその音を聞いた瞬間には、背中に凄まじい衝撃を感じ、食らいついた大輔の腕も離して、ぐらりと揺らいでいた。


 巨大な狼が、どさりと野原に倒れる。

 それでもまだマサルにはなにが起こったかわからなかった。

 たしかに大輔の腕に食らいついたはずだが、まさか大輔がその体勢からなにかしたわけではあるまい――腰も入っていない一撃など、撫でられた程度にしか感じないのだ。

 もし大輔が全力でマサルの身体を打ちつけたとしても、一撃で倒すにはまだ足りないだろう。


 では、なにが起こったのか。


 煙がゆっくりと晴れていく。


 背中から全身を伝わる痛みに意識が遠のきながら、マサルは、煙のなかからイオリが現れるのを見た。


「イオリ――おまえ」

「兄上、どうかお許しくだされ」


 マサルはなぜそこにイオリがいるのかわからないまま、ゆっくりと意識を失った。



  *



 動物への変身は、意識が続くあいだしか持続しないらしい。

 意識を失うと、マサルの身体は狼から人間へと戻っていった。

 それは進化を早回しで見ているような、奇妙な光景である。

 体毛が抜け、手足が伸び、最後には最初に見た人間のマサルに戻るのだ。


 大輔はその様子を見て、ふうと息をついた。

 さすがに全身傷だらけになって疲れたのか、その場にどっと座り込む。


「イオリ、うまくやったな」

「うむ――まさか本当にうまくいくとは思わなかったが」


 イオリは懐を探り、ちいさな袋を取り出した。

 死角から近づいても匂いでそれに気づいてしまうマサルへの対処法として、戦いがはじまる前に大輔から受け取っていたものである。


 イオリは、その袋を顔に近づけた。

 すこし酸っぱいような、強い匂いがする。

 イオリもその匂いの正体は知っている――この野原にも群生しているミカサという植物の匂いだ。

 香水にも使われるそのミカサの花を細かく潰し、強い匂いを放つようにしたものを袋に入れてあるのだ。


 大輔ははじめから、マサルが匂いに頼って行動するだろうということを見抜いていた。

 それはイオリがマサルやほかの兄弟の「奥の手」について詳しく説明したからだったが、匂いに頼って行動しているのであれば、ほんの一瞬でもその匂いを消すことでまったく死角からの攻撃が可能になるのではないか、というのが大輔の作戦である。


 合図は、煙玉だ。


 大輔自身が逃げるためと見せかけて、本当はイオリが近づくため、そして視界を煙ですべて隠すために使用したにすぎない。


 煙が上がると同時にイオリはそれまで封をしていたミカサの袋を切り裂き、その匂いで自分の匂いを隠し、大輔の腕に食らいついているマサルに近づいたのだ。


 大輔の作戦は最初から最後まで、ほとんど完全に作動していた。

 イオリは、大輔以下異世界人たちが奇妙な能力を使うことは事前に知っていたが、いちばん奇妙なのは、未来を覗いたかのような大輔の予測能力だった。


「ダイスケ殿――まったく、すごい男だ」

「そうだろう、そうだろう」


 うんうんと大輔はうなずき、それから明るく笑う。


「なにせぼくは超絶大天才だからな。ぼくにかかればこんなもの一週間前の昼飯前――」

「せんせー、勝ったよー!」

「ぐふっ――な、なぜ駆け寄ってきた勢いのまま突っ込んでくる? 鳩尾を思いきりやられたぞ」


 燿はえへへと笑い、その後ろでは泉も控えめに笑顔を浮かべていた。

 大輔は教え子ふたりを振り返り、うむとうなずく。


「ふたりとも、よくやったな。怪我はないか?」

「だいじょうぶっ」

「はい、わたしも――怪我はしてません」

「そうか、よかった。ま、それでこそこの大天才さまの教え子というところだな。いやあ、今回も完全勝利で終わってよかった。さて、そろそろ避難させておいた神小路とお姫さまを迎えに行くかな」


 と大輔が言ったときだった――野原の風を引き裂くように、鋭く女の悲鳴が響いたのは。


 他人の悲鳴は、本能的に身をすくませるものがある。


 大輔たちはびくりとして顔を見合わせ、それから野原を見回した。


「姫さま――ミナギさま!」


 イオリが声を上げる。

 しかし返答はなく、代わりに、ざあざあと波の音のようなものが聞こえてきた。

 それに合わせ、野原ががさがさと揺れる。


「姫さま、どこにいらっしゃるのです!」

「イオリ!」


 草むらから、それだけ声が返ってきた。

 イオリたちは声だけを頼りにそこへ駆け寄ったが、もう姿はなく、ただ前方の草むらががさがさと不気味に揺れている。


「何者でござる! 姫さまをどこに――」

「待て、イオリ――どこかへ逃げるつもりらしいぞ」


 大輔が言うとおり、何者かが草むらのなかを這い、一直線にイオリたちから離れていく。

 そのずっと先には、ロスタムでは神域とされているティアーズの森があった。


「追うぞ、ダイスケ殿!」

「わかった――七五三、岡久保、おまえたちもこい。ここに残るのは危ない」

「う、うん――」


 イオリ、大輔、燿、泉の四人は、森へ向かって逃げ去っていく何者かの気配を追い、駆け出した。



  *



 そこに、まったく無防備なふたり組の人間がいたのはティアーズたちにとって幸いだった。


 ティアーズは数人の捕獲隊を出し、音もなく人間たちに近づく。

 ふたりはまるで気づかず、なにか会話をしているようだったが、人間の言葉はティアーズには理解できず、また、ティアーズの言葉、波音のように聞こえるそれを人間も理解できない。


「もうすこし近づいたほうがよさそうだ」

「捕まえたら、直接祭壇へ」


 ティアーズは草むらに隠れたまま、こそこそと相談し合い、一気に行動を開始した。


 がさり、という物音に気づき、紫がそちらを見たとき、そこにいたのは、蜘蛛のような生物だった。


 大きさは、人間の頭ほどある。

 蜘蛛のようだが、足は四本で、黒く短い毛を持ち、平たい身体をしていた。


 それが、数十匹、ぞろぞろと草むらから這い出してきたのだ。


 紫は生理的な不快感から慌てて逃げようとしたが、それよりも早く、その生物が一斉に白い糸のようなものを吐き出しはじめた。

 それははじめ、風に乗って揺れるほどに細くやわらかいが、空気に触れるとあっという間に硬く、強固な糸になって、逃げ遅れたミナギの身体にまとわりつく。


 ミナギは悲鳴を上げ、糸を払いのけようとしたが、暴れれば暴れるほど糸は身体に絡まって、とてもひとりでどうにかなるものではなかった。


「た、助けなさいよ、ユカリ!」

「いまやってる!」


 紫は逃げることも忘れ、ミナギの身体にまとわりつく白い糸を解こうとする。しかしそれは粘性を持っていて、触れるだけで紫の指や身体にもまとわりつき、今度はそれが離れなくなった。


「わっ、や、やばい――せ、先生!」


 蜘蛛のような生物たち、ティアーズはするするとふたりを取り囲み、白い糸を吐き出し続けた。

 まるで、巨大な繭でも作ろうとしているかのように。


 実際、ふたりの身体はあっという間に白く覆われ、身動きが取れなくなっていた。

 ティアーズは二体の人間を無事拘束したことを確認し、もぞもぞとその下に潜り込んで、数十体がかりで身体を持ち上げる。


 イオリたちが追いついたのは、そのときだった。


「姫さま、どこにいらっしゃるのです!」

「イオリ――」


 かろうじて塞がれていなかった口も、白い糸がぐるりと覆い隠して見えなくなってしまう。


「運ぼう」

「よしきた」

「ほかの人間たちがくる前に、森へ戻らなければならない」

「急ごう、早く神の怒りを鎮めなければ」


 ティアーズは口々に言って、白い繭のなかに封じ込めたふたりの身体を担ぎ、野原を進んだ。


 森までは、さほど距離もない。

 ティアーズは後ろから人間たちが追ってくることも知っていたが、それより神に生贄を捧げるほうが重要だと考えていた。


 ティアーズにはそもそも、戦う能力と呼べるものはない。

 鋭い牙もなければ、敵を倒すための爪も持っていない。

 ティアーズの生存戦略とは、集団化し、外敵のいない森のなかで思考すること、なのだ。


 人間と争えば、勝ち目はまったくない。

 勝ち目のない戦いをするほどティアーズは愚かではなく、また信仰心が強いわけではなかった。

 ティアーズは現実を冷静に理解し、人間たちに追いつかれては勝ち目がないとわかっていたから、ただひたすらに森のなかへ急ぐ。


 身体がちいさいティアーズにとって、二体の人間は巨大な荷物だった。

 そのため、疲弊したものから順番に脱落していく。

 ティアーズにとってそれは当然のことで、運び役が交代し、それまで運んでいたティアーズが速度についていけずに遅れていくことになんの感傷もなければ、脱落していくティアーズ自身もそれをごく自然に受け入れていた。


 そうしてティアーズは、数を半分ほどに減らしながらも、なんとか人間たちに追いつかれず自分たちの住処である森にたどり着いた。


 ティアーズの森は、人間の手がまったく入っていない深い森である。


 木が密集し、蔦が這い、植物が茂り、様々な動物や昆虫がひしめいている空間は、ティアーズにとっては慣れたものだが、人間にはこれ以上ないほど移動しづらい空間だった。


 ティアーズは地の利を生かし、一気に森を抜け、木々が開けた神域へ、石の巨人が佇むその前へ生贄を投げ出した。


「よし、あとは神が生贄を気に入るかどうかだ」

「下がれ、下がれ。離れて様子を見よう」


 ティアーズは文字どおり蜘蛛の子を散らすようにぱっと散開し、森のあちこちに潜み、そっと神域の様子を伺った。

 神域にはただ、白い繭に閉じ込められたミナギと紫だけが残されていた。

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