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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
桜の姫君
52/109

桜の姫君 11

  11


「ぬおおっ」


 巨大な犬もとい狼と化したマサルは、野生の脚力でもって大輔に飛びかかった。

 口がかっと開き、鋭い牙が目の前に迫る。大輔は慌てて地面を転がって回避し、這々の体で逃げた。


「どうした、さっきまでの威勢はどこへ行ったのだ」


 マサルはぐるぐると喉を鳴らし、牙を剥く。

 大輔はよろよろと立ち上がり、服の汚れを払った。


「やっぱり野生の犬は強いな。とても力では敵わんぞ」

「狼である!」


 再びマサルが飛ぶ。

 まっすぐ大輔に向かうその射線にイオリが割り込み、マサルの巨体と絡まるようにして地面を転がった。


 マサルのうなり声に、イオリの噛み殺したようなうめき声が重なる。

 見れば、マサルの太い牙がイオリの腕に深々と食い込み、そこからじわりと血が滲んでいた。


「ぐう――拙者は負けぬ!」


 イオリは力任せにマサルの巨体を弾き、距離を取る。

 その右腕にははっきりと噛まれた跡が残っていたが、イオリはまるで戦意を失っていない目でじっとマサルを睨んだ。


「イオリ、大丈夫か」


 大輔が並びかけると、イオリはこくりとうなずく。


「なんということもない。ダイスケ殿、いったいどう戦う?」

「なんとか二対一で押し切るしかない。見ろ、これを」

「それは――兄上の折れた刀?」

「そうだ、さっき逃げるふりをしてこっそり拾ったのだ」

「なぜこっそり……」

「細かいことは気にするな。これで武器ありの二対一になる。前後から挟み撃ちにするぞ」

「む、了解でござる」

「さて、相談は済んだか?」


 灰色の獣はぐるぐると喉を鳴らしたまま、じっとふたりを見つめた。

 大輔はふふんと鼻を鳴らし、柄から半分ほどしかない、いまやいびつな棒と化した刀を振った。


「さあ、どこからでもかかってこい、犬め。野生は人間の知恵に敵わないってことを見せつけてやるぜ」

「これが最後の訂正だ。おれは犬ではない、狼である!」


 わう、と吠えて、マサルが飛び出す。狙いは大輔だった。

 それを察し、イオリは左へ移動し、大輔はその場で刀を構えた。


 マサルは大輔の足を狙った。

 低く身を伏せたまま、口をぐっと開き、血で濡れた鋭い牙で左足に食らいついてくる。

 大輔は慌てて飛び上がり、棒となった刀でマサルの背中をしたたかに打った。


「ふはは、どうだ、人間の力に恐れいったか!」


 マサルはしばらく動かなかったが、やがてくるりと振り返り、言う。


「いま、なにかしたか? なにも感じなかったが」

「な、なに――」

「訓練もしていない素人の一撃が野生の筋肉を凌駕するはずはないのだ! 喰らえ――いや、喰らってやるっ」

「ぎゃああ、こっちきた、やばいぞ、に、逃げろっ」

「待ていっ」

「こっちくんな、イオリのほう行け! いやマジで!」

「な、だ、ダイスケ殿、それはないでござる!」

「だって攻撃効かないんだもん! そもそもこれはおまえの問題だろ、無関係のぼくを巻き込むなよ!」

「いまさら!?」

「安心しろ、どちらも叩きのめしてやるわ!」

「ぎゃあああっ」


 騒がしいが、この戦いもそろそろ佳境に差し掛かっている。



  *



 泉は草むらのなかに座り込み、荒く息をついていた。


 そのあたりの草は、泉の姿を完全に隠すほどは背も高くない。

 座り込み、せいぜい胸のあたりまで隠れる程度で、一見はわかりづらいが、空から眺めるならどこにいるのか一目瞭然だろう。

 泉はまるでその視線を気にするように空のあちこちを忙しく見回していた――事実、重要なのは空からの視線であり、攻撃だった。


「はあ、はあ――」


 泉の服は、ところどころにほころびができている。

 とくに肩のあたりは大きく服が破れ、白い右肩があらわになっていた。

 それでも泉は、乱れた服も髪も気にせず、空をぐるぐると見回している。


 雲ひとつない、抜けるような青空だった。

 大きさのちがう太陽がふたつ、その空に浮かんでくる。


 泉は、ふたつある太陽のどちらかにちがいないとあたりをつけていた。

 しかし不幸にもふたつの太陽は空のずいぶんと離れた位置にあり、同時にふたつを監視することはできない。

 片方を監視していると、どうしてももう片方に背を向ける形になる。


「どっち――どっちからくるの――」


 泉はそのふたつの太陽を交互に見回す。

 その動作のせいか、それとも暑さと疲れ、そして緊張のせいか、頭がふらりとする。

 一瞬、その浮遊感に身を任せてしまおうかという気になって、泉は慌てて頭を振った。

 いまは戦いの最中なのだ、そんなことを考えている場合ではない――しかしその一瞬が仇となる。


 ひゅん、と風を切る音がした。


 泉はふたつの太陽を交互に見たが、どちらにも影は差していなかった。


 太陽ではない。

 地表すれすれの低空である。

 そう気づいたときには、大きな羽根を持つ怪鳥は泉のすぐそばまで迫っていた。

 泉ができることといえば、背中を丸め、身を守ることだけだ。


 鋭い爪が泉の背中をかすめる。

 一瞬、服を引っ張られるような感覚があり、泉は思わず声を上げた。

 しかし衝撃が過ぎ去ると痛みはなく、ただ薄い服を一枚、爪で破かれただけだとわかる。


 怪鳥は再び舞い上がり、青空を背負ってくるりと振り返る。

 上空から泉を見下ろし、甲高い声を上げた。


「どうです、諦める気になりましたか?」


 泉は鳥を見上げ、ぷるぷると首を振った。

 怪鳥、マサムネは深くため息をつく。


「困りましたね。やはり怪我をしなければわかりませんか――もうあなたがわたしに敵わないことは明らかです。あなたの攻撃はたしかに強力ですが、わたしが速度で上回る以上、その攻撃力はまったくの無意味です。そしてあなたにはたったひとつ、炎による攻撃しかない。防御の術もなく、わたしの攻撃に為す術がないのはご自分がいちばんよく理解していると思いますがね。言ってしまえば、わたしがその気になりさえすれば、あなたはもう十回、二十回と絶命しているのですよ。この鋭い爪で、あなたの首を引き裂けばそれで終わりなんですからね」


 それでもまだ、泉は生きている。

 終わりではないのだ。

 泉はぐっと上空を見上げ、マサムネから目を逸らさなかった。

 マサムネは説得を諦めたように羽ばたき、青空を恐ろしい速度で飛び回って泉の視界から消える。


 もう一度、相手の攻撃に耐えなければならない。

 泉は息を整え、空を見回した。

 もう一度耐えれば、勝機が見えてくるかもしれないのだ。


 泉はもう、勝てるだろうか、失敗しないだろうか、とは考えていなかった。


 実際の戦いに身を置くと、そんなことは考えていられなくなる。

 勝てるだろうか、と不安に思っていられるのは、戦いがはじまるまでだ。


 戦いがはじまれば、もう、勝つしかない。


 泉も勝つ以外のことはなにも考えていなかった。


 ひゅんと風鳴りが聞こえて、泉は振り返った。

 再び低空である。

 羽根を水平にし、羽ばたかず、滑空するように怪鳥が泉の背中めがけて迫ってくる。

 攻撃は間に合いそうになかった。

 泉はとっさの判断で、手に持っていたものを守るように丸くなる。


「そう何度も同じ展開にはなりませんよ!」


 マサムネは甲高く叫び、鋭い爪ではなく、その巨体で泉に体当たりした。


「あっ――」


 泉の身体は冗談のように簡単に吹き飛ばされ、野原に倒れ込む。

 身体のあちこちが傷んだが、怪我といえるほどのものは一箇所もなかった。

 泉がすぐさま起き上がると、マサムネは空に飛び上がらず、野原の、泉のすぐ近くにぬっと立っていた。


「さて、これでおしまいですね」


 マサムネは冷徹に言って、ばさりと羽根を震わせた。

 すこし上空へ浮き上がると、その足になにか持っているのがわかる。


 それは白い紙だった。


 泉が大切にマサムネの攻撃から守ってきた、魔術陣が書かれた紙である。


 マサムネはそれを、泉の目の前で、鋭い爪でもって破いてみせる。


「あ、あ――」

「さあ、どうです。あなたは攻撃するときに、この紙が必要なのでしょう? あなたの行動はすでに完全に理解しています。あなたは炎の玉を繰り出す前、必ずこの紙に手を当てていた。例外は一度もなく、何度かはそうしないほうが早く攻撃できたにも関わらず、必ず紙を使っていました。つまり、あなたはこの紙がなければ炎の玉を繰り出せないということです。これであなたの攻撃手段は完全になくなり、防御手段もない――あなたが勝てる可能性はほんのわずかもなくなったということです」


 マサムネは勝ち誇ったように泉の目の前で羽ばたいた。

 その距離は二メートルほどしかない。

 泉は不思議な気持ちで、そんなマサムネを見ている。


 不思議というのは、作戦というのはこれほどうまくいくものなのか、というところだった。

 まるではじめからすべてが予定されていたように大輔の想定通りに物事が動いている――ここまで進行すれば、あとはただ、仕上げるだけでよかった。


 泉は片手を突き出す。

 マサムネは怪訝そうな声を上げた。

 しかし自分の勝利を確信しているのか、なにか行動を取るという様子でもない。


「あの――ごめんなさい」


 泉はぽつりと言って、目の前で無防備に浮遊するマサムネめがけ、炎の玉を打ち出した。


「なっ――」


 マサムネはぎょっとしたように声を上げたが、すべてが遅い。

 たった二メートルほどの距離から放たれた炎の玉を躱せるはずもなく、炎の玉ははじめてマサムネに直撃した。


 マサムネはその灼熱に絶叫し、地面にぼとりと落ちて草のなかを転がる。


「わっ、あ、あの、ごめんなさい、でも火はすぐに消えるから――」


 もっとも、たとえ一瞬にしても意識が耐えられるような熱さではない。


 マサムネは巨大な炎の塊と化し、野原を転がったのち、意識を失ったようにぐったりと横たわった。

 その姿はすでに怪鳥ではない。

 長身痩躯の人間の姿で、泉が恐る恐る覗きこんでも動かなかった。


「――か、勝った」


 紛れもなく泉の勝利である。


 泉は、しかし自分の実力というより、大輔の作戦の勝ちだと感じた。


 なにしろ、すべては大輔の計画どおりだったのだ。


「いいか、岡久保、作戦は簡単だ――」


 いまから一時間ほど前、すべての準備を終えた大輔はにやりと笑いながら言った。


「まず、相手がきたら、とにかく逃げる」

「に、逃げるんですか」

「たまに立ち止まって、さっき予めかけておいた魔法で攻撃する。でもそのとき、絶対にこの偽魔術陣を使って攻撃するんだ。基本、相手が奥の手を出すまで逃げ続ける。そしたらきっと、相手は偽魔術陣を狙ってくるはずだ。これさえなきゃ攻撃はできないはずだって思い込んでな。ま、ほんとは予めかけてある魔法だから、魔術陣はぜんぜん関係ないけど。で、偽魔術陣を破くかなにかで始末したあと、敵はおまえの攻撃手段を全部無効化したと思って油断してるから、敵がかわせないくらいの距離から魔法を叩き込む。相手は撃沈、おまえの完全勝利ってわけだ」

「う……そ、そんなにうまくいきますか?」

「大丈夫だ。重要なのは、攻撃のたびに偽魔術陣を見せることだ。相手がいくら鳥頭でも、最後にはその魔術陣が攻撃に必要らしいってことくらいは推測できるだろう。その思い込みさえ成功させれば、絶対に勝てる」

「でも、あの、わたしを追いかけてくるのが鳥さんじゃなかったら?」

「そのときは七五三と交差するように動けばいい。七五三には猿を存分にからかってやれって言ってあるから、短気な猿は絶対に七五三を追うだろう。そうなったら鳥はおまえを追いかけてくるはずだ」

「じゃ、じゃあ、もし向こうが、偽物の魔術陣じゃなくて、わたしを狙ってきたらどうすればいいんですか? あの、わたし、自慢じゃないですけど、弱いですよ」

「それも心配はいらない。イオリの情報によれば、兄弟は三人とも、決して悪いやつじゃない。年下の、それも戦闘に慣れてもいない素人の女を直接狙って黙らせるようなやつじゃないんだ。できるだけおまえたちを傷つけないように無力化してくるはずだから、怪我の点ではさほど心配いらない。下手に暴れさえしなけりゃ大丈夫さ」


 その作戦を聞いたときは本当に大丈夫かと疑問だったが、すべて終わってみれば、細かなところまで大輔の予想したとおりだった。

 まるで相手は、直接戦ってさえいない大輔の手のひらで踊っているようなものだった。


 ――ともかく、泉対マサムネは、泉の完全勝利だった。



  *



 同じ種類の生物であっても、野生かそうでないかというだけでその能力は大きく異る。


 野生は、もちろん強い。

 そしてたくましい。

 生きる力に満ち溢れ、生物の根源的な強さがある。


 そういう意味では、巨大な猿と化したムサシは、野生そのものだった。


「待てえ、この野郎っ」

「わっ、わっ」


 どすどすと重たい足音を立てながら、類人猿独特の足と手を使う歩行法でムサシは燿を追っていく。

 その速度は、人間が足で逃げるのよりもわずかに速い。

 ずっと一定を保っていたふたりの距離は、ムサシが猿に変身したことにより、じりじりと縮まりはじめていた。


 燿は後ろを振り返り、猿似だった男が本当に猿になって追いかけてくるのを確認するたび、くすくすと笑う。

 それが逃げ足を鈍らせていることも否定はできず、笑われた猿のほうは燃料を投下されたように怒りで速度を増した。


 ふたりの距離は、五メートルが四メートルに、四メートルが二メートルになる。


 そこまで近づくと、猿はずんと地面を蹴って飛び上がり、燿の背中に掴みかかった。


「わっ――」


 いかに冗談めかした外見とはいえ、その腕力は人間の比ではない。

 ムサシは真後ろに燿の身体を引き倒す。

 それはとても抵抗できるような力ではなく、燿はごろんと後ろに転がって、そのまま転がることでなんとかムサシの下からは抜け出した。


「どうだ、恐れいったか!」


 ふんとムサシは鼻を鳴らす。

 燿はそれを完全に無視し、また逃げはじめた。


「何度逃げても無駄だ!」


 ムサシはすぐ燿に追いつき、また後ろから引き倒して、燿はまたすぐさま立ち上がって逃げ出す――なにかおかしい、とムサシも気づいた。


 反撃してくるわけでもなく、かといって諦めるわけでもない。

 ただひたすら逃げまわるだけだ。

 もちろん、逃げるだけで勝利など得られるはずがない。

 時間稼ぎをしているのか、とも思うが、いったいなんのための時間稼ぎなのかが疑問だった。


 考えられるとすれば、ミナギがとなりの町へ着くまでの時間稼ぎだが、それもただ逃げまわるだけの数十分でどうにかなるというものではない。

 となりの町まで、一日中歩き続けても三日以上かかるのだ。


「おい、てめえ、なにを企んでやがる」

「わっ――」


 ムサシは燿の身体を引き倒すと同時に、その腕を押さえ込み、じっと見下ろした。


「さっきから逃げまわってばっかりじゃねえか。反撃のひとつもねえ。それとも、なにも攻撃はできねえのか? おれを引きつけとくだけってことか」

「う、お猿さんなのに意外と賢い」

「意外とって言うんじゃねえよ、おれは人間だ!」

「……え?」

「え、じゃねえよ。いやそりゃいまは猿だけどよ! てめえ人間のおれの姿も見てんじゃねえか」

「え、最初から猿だったじゃん」

「てめえ!」


 燿はけらけらと笑い、ムサシの下から逃れてまた走っていく。

 ムサシも怒りのままにそれを追いかけた。


 しかし、怒り狂っているからといってなにも考えないわけではない。

 ムサシも、曲がりなりにもロスタム王国の兵士、四人衆のひとりである。

 いわば戦闘の専門家であり、怒りと同時に、頭の片隅には冷静に状況を分析している部分もある。

 ムサシの場合、ほかの三人よりも冷静な部分がちいさく、直情的な部分が大きいというだけなのだ。


 そのわずかばかりの冷静さが、燿の体力も無尽蔵ではないことを理解している。


 この炎天下、そう長く走り回れるものではない。

 なんの訓練も積んでいない若い女としてはよく体力が保っているほうだろう。

 事実、はじめよりは走る速度も遅くなっているし、余裕もなくなっているように見える。


 そもそもムサシが猿に変身し、速度に差ができたことで、もう逃げまわってどうにかなる状況ではない。

 それでも燿は相変わらずただ逃げるだけだ。

 その作戦の利点とはなんなのか。


「――ん?」


 ムサシは燿を追いかけながら、ふと、あることに気づいた。

 それは燿が走っている場所である。


 ただっ広い野原で、ほかに比較対象がないせいで自分がどこを進んでいるのかわかりづらい場所ではあるが、燿はたしかに、大きな円を描くように同じところをぐるぐると回っているのだ。


 そして時折、燿はなにかを窺うように立ち止まってムサシを振り返る。

 ちゃんとついてきているか、と確かめるかのように。


 罠だ。


 ムサシの戦士としての本能がそう告げる。


 燿は、なにか罠を仕掛けようとしている。

 あるいはすでに仕掛けた罠に、ムサシを誘い込もうとしている。

 そのために逃げ回るだけを装って、ムサシが油断したところを一気に罠で沈めようとしているにちがいない。


 ははあ、とムサシはうなずき、すこし立ち止まった。


「ばかなように見えて、なかなか策士じゃねえか」


 たしかに猪突猛進、ただ敵のあとを追いかけるだけなら、その罠にもはまっていただろう。

 しかしムサシは冷静な部分も持ち合わせた兵士であり、決して敵の罠にはまるようなことはしない。


「――どうしたの、お猿さん。お腹でも痛いの?」


 突然立ち止まったムサシに、燿がなにか不安げに言った。

 不安げ、というのは、自分の罠が気づかれたかもしれない、という不安にちがいない。

 ムサシはあえて笑みを押し殺し、なにも気づいていないふりをした。

 相手が罠を張っているなら、こっちはそれに引っかかるふりをして、最後の瞬間でその罠を回避してやる。

 そうすれば燿も諦めるだろうと考えたのだ。


「だれがお猿さんだあ!」


 ムサシはそれまでと同じように声を上げ、燿のあとを追った。

 追いながら、燿が進む軌道を冷静に見ている。


 たしかに同じところをぐるぐると回っているようだ。

 もし罠があるのだとすれば、その円の中央だろう。最後にそこに誘い出すつもりにちがいない。


 ムサシが注意しながら追っていくと、そろそろ体力の限界と感じたのか、燿が不自然に左へと進んでいった。

 そこはいままで通ってこなかった、円の中央である。


 それも、そこにあるなにかを避けるように、慎重に足元を見ながら「なにもないはずの場所」を迂回し、その先で立ち止まってムサシを待ち構えた。


 ムサシはついに、堪えきれずに笑い声を上げた。

 燿の振る舞いは、まるでそこに罠がありますよ、と宣伝しているようなものだ。

 ムサシは燿の立ち位置、あるいはなにかを避けるように移動した輪郭から、罠の大きさを判断する。


 おそらくそれは、落とし穴のようなものにちがいない。

 縦はせいぜい三メートルほどだろう。

 その程度の距離なら、いまのムサシなら一足で飛び越えることが可能だった。


 燿には、ムサシが罠にはまった、と思わせたあと、絶望させてやる。

 ムサシは罠を飛び越えるため、助走をつけた。


 罠の寸前まで走り、それを飛び越えた瞬間、燿はどんな顔をするだろう。歓喜と驚愕が入り混じった敗北の顔にちがいない。


 ムサシは罠があると踏んだぎりぎりの位置まで駆けていく。

 その途中、


「あ」


 と燿が声を上げた。


 図らずも、ムサシも同じ声を上げていた。


 罠まで、まだ数メートルある。

 はずだった。

 しかし助走のために踏み出した足は、硬いはずの地面を踏み抜き、その下へと沈み込んでいた。


 野を駆ける大猿の姿がふと消える。


 燿は罠を仕掛けている場所を迂回し、大猿が消えた場所を覗き込んだ。


 そこは、深さ五、六メートルはある大穴だった。

 穴の底には砂が溜まって、穴を隠すために敷いてあった薄い布も見える。その布や土に埋もれるように、底に大猿の姿があった。


「な、なんだこれは! 罠はここじゃねえはずだろうが――ちくしょう、なんだ、いったい」


 ムサシはばっと起き上がり、穴の底から真上を見上げた。

 その穴の淵に燿が立っていて、ムサシを見下ろし、ぷぷ、と笑った。


「引っかかった引っかかった! 実は、穴はふたつあったのです!」

「な、なんだと――」

「せんせーがね、穴はふたつあったほうがいいって。奥のほうに穴があるって気づいたら、手前の穴には気づきにくくなるからって。ほんと、そのまんま!」

「ぐ、ぐぬぬ……」


 つまり、してやられた、ということである。


 燿が、罠を仕掛けているのがわかってしまうような仕草をしたのも、いままで走り回っていたのも、罠はひとつしかない、という根拠もない思い込みを植えつけるためだけのものだったのだ。


 ムサシは悔しさと怒りで身体を震わせ、この程度の穴くらい上ってやると壁にしがみついたが、その穴は上に行くほどちいさく、つまり壁がえぐれたような構造になっていて、上から縄でも垂らしてもらわなければ登ることは不可能だった。


 攻撃手段も一切ない小娘に負けたのだ。

 ムサシは敗者の義務として、勝者の笑い声を、薄暗い穴の底で聞いていた。

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