桜の姫君 10
10
草むらから顔だけ出し、あたりの様子を窺っていた紫は、すべて順調に進んでいるようだと再び草むらに隠れた。
イオリ、大輔組はいまだに交戦中で、泉対マサムネでも泉はうまく相手の「奥の手」を誘い出している。
燿対ムサシも、燿がどこまで意識しているのかはわからないが、大輔の説明どおり相手の「奥の手」を出させることには成功しているようだった――ただ時折、作戦を完全に忘れたようにけらけらと燿が笑う声が聞こえてくるのは不可解ではあったが。
そもそも、燿が大輔の作戦を正しく理解しているか紫には疑問だった。
燿の性格を考えれば、すくなくともなにかひとつの目的を持ちながら別の行動を取れるような器用さはない。
露骨に動き過ぎて相手に作戦を気取られなければいいが、相手もどうやら直情型のようだし、おそらくは大丈夫だろう。
すべては問題なく進んでいる。
このままいけばそう遠くなくすべての戦いが決着するだろう。
それもこれもこの少女のためなのだ、と紫は自分の後ろを振り返った。
スオウ・ミナギは、紫と同じように草むらに身を伏せていたが、拗ねたような顔は隠そうともせず、ひとりでなにやらぶつぶつと不満を呟いていた。
「なんで姫のわたしがこんなところで寝なきゃいけないのかしら。服も汚れるし、草が邪魔だし。王族にこんなことさせていいと思ってるの? ばかじゃないの」
「独り言は別に言ってもいいけど」
と紫はため息をつき、
「ちいさい声で言ってよ。向こうに気づかれたら大変だから」
「気づかれるわけないでしょ、これだけ距離があるのに」
「普通の人間なら気づかないでしょうけどね。なにせ相手は動物だから、聴覚がどこまで優れてるのかわからないわ。わたしたちは向こうに気づかれないためにここにいるの。わかってる?」
「ばかにしないで。それくらいわかってるわ」
つんとした態度でミナギはそっぽを向く。
紫は再びため息をついた。
よくこんな態度で姫などやっていられるものだ、と思う。
あるいは、姫だからこそこういう厄介な性格に育ったのかもしれないが。
「あなた、わたしのことをばかにしてるでしょう」
後ろから、じっとミナギが紫をにらんだ。
「隠しても無駄よ。そういうの、わかるんだから」
「別に隠さないし、ばかにはしてないわよ。ほんとめんどくさい性格してるなとは思うけど」
「ほら、ばかにしてる――ふん、まあ、平民にばかにされようと別にどうでもいいけど。結局、わたしは王族だし、あなたとはちがうんだから」
「そういうところがめんどくさいって言ってんの」
「なにがめんどくさいのよ」
「だから――まあ、いまはいいわ。それどころじゃないし」
「なによ、言いなさいよ」
ふん、とミナギは鼻を鳴らす。
紫はそれを見て、苦笑いした。
「な、なんで笑うの?」
「別に――ねえ、あなた、なにか勘違いしてるんじゃないの?」
「なにを勘違いしてるって?」
「わたしが、あなたを嫌ってるとか」
「……そうなんでしょ。いいわ、別に。嫌われることには慣れてるし」
「だからそれが勘違いだって言ってんの」
紫はすこし身体を起こし、ミナギのとなりまで移動した。
そこで再び草むらに身を伏せ、ミナギの頭をぽんぽんと撫でる。
「な、なによ、やめなさいよ。わたしは姫よ。平民がそんなことしていいと思ってんの?」
「わたし、あなたのこと好きよ」
「う……ま、まさかあんた、お、女が好きなの?」
「まあ、男よりはね」
びくりとしてミナギが距離を取る。
紫は声には出さず笑った。
「嘘よ、冗談。ま、ある意味ほんとだけど」
「ど、どっちよ」
「異性的な意味で好きって言ってるわけじゃないわ。友だちとか、そういうこと。まあ、ほんとはあなたみたいな性格の女は嫌いなんだけど」
「ほら!」
「でも、あなたはまた別。なんていうか、ちょっと、わかる気がするから」
「な、なにがよ。平民のあなたに、わたしのなにがわかるの」
「そういう意地っ張りの理由とか。でもわたしは、あなたみたいにはなれなかった。もうちょっとわたしが強かったらあなたみたいになってたんだと思うけど、わたしは弱かったのね。だから――簡単に言えば、あなたのことを尊敬してるのよ。どうせもうすこし時間があるし、そのへんの話でもする?」
紫が誘うと、ミナギはしばらくむずかしい顔をしていたが、結局ぷいとそっぽを向いて言った。
「ま、まあ、たまには平民の話に付き合ってあげないこともないわ」
*
スオウ・ミナギは、生まれたときからロスタム王国の王になることが決まっていた。
ロスタム王国では男女問わずもっとも長子が王位を継ぐことになっていて、ミナギの誕生はすなわち未来の王の誕生であり、まだ泣くことしかできないうちからミナギは国中から祝福を受けて育った。
年を重ねるにつれ、ミナギは直接間接問わず、自分の役割を知るようになった。
それはつまり自分の振る舞いは王族の代表としての振る舞いであり、王というものは常に国のことを考えていなければならない、という精神論を含んだ役割で、ミナギはごく自然とそれを受け入れ、姫として、将来の王として、成長していった。
その過程で、ある年寄りの家臣から言われた言葉がいまでもミナギの頭から離れない。
それは問題というほどでもない些細な出来事で、まだ幼いミナギが町中で転び、泣いただけのことなのだが、その家臣はミナギを慰めるためか、こう言った。
「ミナギさま、王族ともあろうお方が、そう簡単に泣いた顔を他人に見せてはいけませんよ。王族の弱みは、国の弱みになるのですから――」
幼かったミナギが正確にその意味を理解できたかはわからない。
しかしミナギはそのとき以来、人前では一切涙を流さず、弱音も吐かなくなった。
ミナギがわがままだと言われたはじめたのはそのころからである。
家臣に言われ、ミナギは気づいたのだ。
自分は常に堂々としている必要があり、だれよりも王族であるという意味を理解し、象徴として、また実際の支配者として、町民には人間らしい顔など見せるものではない、と。
自分が迷えば、国が迷う。
自分が泣けば、国が泣く。
それではだめなのだ。
国は強くあるべきである。
すなわち、自分もまた強くある必要がある。
だれかに弱音を吐くような弱い人間では、だれかに批判されたくらいで意見を撤回するような考えなしではだめなのだ。
だれよりも強くなければならない。
弱みを見せてはならない。
それが王族の努めである。
だからミナギは、自分の考えを他人に話し、理解を求めたりはしない。
理解されるかどうか、というのは、突き詰めれば、単に嫌われたくないというだけのことに過ぎない。
嫌われようが好かれようが関係なく、王族はやるべきことをしなければならないのだ。
極論、王族は人間である必要などない。
冷徹に国を動かす、国を繁栄させるための機械でさえあればいい。
ミナギは、自分にはそれが求められているのだと思った。
涙も流さず、わめきもせず、非人間的なまでに国のために行動するひとつの動物であることを求められているのだと思ったからこそ、そう実行するようになった。
――唯一、ミナギに別の顔を求める人間もいたにはいたが、それはごく少数派であり、ミナギの周囲はだれもがミナギに王族であることを求めた。
みんなが求めるなら、そう振る舞ってやる――ミナギはそう考えて、歳相応の少女であることをやめ、わがままで不遜な王であり姫であることに決めたのだ。
*
「わたしんちってね、昔からうちの組織にいたのよ」
「組織?」
「あー、なんていうか、まあ、国みたいなもの。兵士、かな。戦ったり、いろんなところに旅してたりしたわけ」
「ふうん、さすが平民ね」
「平民かどうかはよくわかんないけど、それでまあ、両親ともに優秀だったし、なによりふたりともそういう仕事が好きだったのね」
紫は話しながら、子どものころを思い出している。
さほど広くもないマンションに、ずっとひとりでいた記憶。
寂しい、と思うことも知らなかったが、振り返ってみればあれは寂しいという感情だったのだろうし、そう感じるのも無理はなかった。
「出かけるとき、両親はいっつもわたしの頭を撫でて、いい子にしてるのよ、あなたならできるでしょう、って言ってたわ。ま、ふたりには別に悪気もなかったし、うちに限らず共働きの家なんてそんなもんだと思うけどね」
「……それで?」
ミナギはちらりと紫に目を向ける。
「それで、ま、わたしはいい子になったって話」
「はあ? あなたの、どこがいい子なの?」
「見るからにいい子じゃない。黒髪ロングだし、こう、身体からあふれ出すいい子的な気配があるでしょ」
ミナギはじっと紫を見つめ、ふるふると首を振った。
「とてもいい子には見えないけど。なんていうか、自由奔放な平民って感じ」
「その平民っていうの、つけなきゃいけないの? まあ、たしかに平民ではあるけど。でもほんとに、そのころはいい子だったのよ。親の、大人の言うことには逆らわないし、同じくらいの年ごろの子どもが泣くようなことでも絶対に泣かなかった。ま、それは意地だったけどね」
「意地?」
「泣いてたまるかって意地。ほら、子どものころって同じ年ごろの子どもがばかに見えたりするじゃない? 自分も子どもなんだけど、あいつら子どもだな、わたしはあいつらと同じじゃないって意地張って、だれよりも先に大人になろうとしてたから」
「やっぱり、いい子じゃないわよ、あなた」
そうかな、と紫は笑う。
「まあでも、大人になれば親といっしょにいられると思ったのよ。いっしょにいろんなところに連れていってもらえるって。いまになってみれば、別にそこまでして行きたい場所でもなかったけど――そのへん、あなたも同じじゃない?」
「どうかしら……別に、早く大人になりたいって思ったことはないけど。それに、まわりにはわたしと同じ年ごろの子どもなんて、ひとりもいなかったし」
「ああ、そっか。お城で育ったんだっけ? じゃ、子どものときはなにして遊んでたの」
「なにも。読み書きの勉強とか、そういうこと」
「はあ、おもしろくない子ども時代ね」
「う、うるさいわね、別にいいでしょ、わたしの子ども時代なんだから。平民とはやらなきゃいけないことがちがうのよ」
「ま、たしかにね――でも、似てると思わない?」
「あなたの人生とわたしの人生が? 王族の人生と平民の人生よ、似てるわけないでしょ」
「そうかな――期待されて、それに応えなきゃって自分を押し殺したりするところ、似てると思うけど」
「それは――別に、無理してこうしてるわけじゃ、ないもの」
ミナギはそっぽを向いて、それから続ける。
「わたしは王族だから、王族らしい振る舞いをしなきゃいけないのは当然。わたしにそれ以外を期待するほうが悪いのよ――平民と同じように期待するほうが。それにわたしは別にいい人間ってわけじゃない。王族としても失格だし」
「へえ、そうなの?」
「そうよ。王族として失格じゃなきゃ、家出なんか、するわけないでしょ」
「たしかに――ねえ、なんで家出しようと思ったの?」
「う。べ、別になんだっていいでしょ」
「ここまで話したんだから、最後まで言いなさいよ」
「う、うるさい、平民のくせにわたしにそんなしゃべり方していいと思ってるの? そもそもあなた、頭が高いのよ」
「いま伏せてるのに?」
「身体じゃなくて、態度の話をしてるの」
紫がけらけらと笑う。
まるでこのやり取りを楽しんでいるようだった。
ミナギはふと、自分も楽しんでいるような気がして、首を振った。
――ふたりの背後でがさりと物音が鳴ったのは、そんなときだった。




