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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
桜の姫君
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桜の姫君 9

  9


 なるほど、と大輔は納得した気分で、その戦いを眺めていた。


「――たしかに、こいつは強いや」


 マサルとイオリの一騎打ちである。


 本来なら大輔はイオリの手助けをしなければならないが、その隙がないようなふたりの攻防で、迂闊に近づくとその分イオリの邪魔をするだけになってしまう。


「イオリ、おまえには何度も稽古をつけてやったが、あれがおれの本気だと思うなよ」


 マサルはずんぐりとした体型で、両手で刀を構えているだけでなにか安定感と重量感のようなものがある。

 一方イオリはすらりとした体型だったが、柳のような柔軟さがあり、同じく刀を構えていてもまったく雰囲気がちがう。


 すでに何度か打ち合ったあとだ。

 イオリの呼吸はすこし上がっているが、マサルは汗の一滴もかいていない。


「それで終わりか、イオリ」

「む――まだまだでござる、兄上!」


 イオリが地面を蹴る。

 前ではない。

 斜め上へ、五、六メートルも飛び上がって、マサルに真上から迫る。

 マサルはかわすのではなく、むしろ自分も飛び上がった。


 ふたりの引き絞られた息が野原を走った。

 速度はイオリが勝っている。

 イオリの刀が鋭く空気を切り裂き、重力と遠心力を含んで重たくマサルに迫った。

 マサルはそれを、片手で握った剣で悠々と止め、空いたもう片方の手でイオリの腕を掴んだ。


「しまった――」


 イオリは短く叫び、空中でマサルの身体を蹴る。

 そのまま離脱し、空中でくるりと一回転して体勢を整えて着地した。

 マサルもどさりと野原に下り、片手で刀をぶんぶんと振り回しながら笑う。


「イオリ、防戦一方だな。それでおれに勝つつもりか? おれにはまだ奥の手も残っているぞ」

「やはり兄上は強い――しかし拙者も負けるわけにはいかぬ!」

「こい、イオリ!」


 今度は地上戦である。


 イオリが地面を蹴り、またたく間にマサルとの距離をゼロにする。

 お互い、刀を振りかぶるような仕草はなかったが、ぎいん、と骨が震えるような金属音が野原に響いた。


 一瞬の鍔迫り合いになる。

 イオリは間近からマサルの目を覗き込み、マサルもイオリの覚悟がみなぎった瞳を見た。


 どちらからともなく刀を振り、距離を取る。

 しかしそれも一瞬である。

 マサルが前に、イオリに向かって突撃し、攻撃を仕掛けた。

 イオリが柔の剣なら、マサルはまず間違いなく剛の剣だった。


 刀が空を切る音からしてちがう。

 イオリは鋭く一瞬だが、マサルのそれは強風でも吹いたように、ごうごうと長く響く。


 マサルの丸太のように太い腕が細い刀を振り下ろした。

 正面から受けては刀が負けると判断し、イオリは後ろに下がりながら受け流したが、受け流した先からすぐさま手首を返し、斜め下から斬り上がってくる。


「ぬう――」


 まずい、とイオリは刀の峰に手を添え、その豪剣を受けようとした。

 しかしイオリの刀に刃が触れる一瞬前、マサルは腕の筋肉をぐっと隆起させ、その勢いを完全に止める。


「甘い!」


 刀ではなく、足である。

 イオリはマサルに蹴り飛ばされ、後方へ大きく飛んだ。マサルはそれに追いすがり、イオリが野原に倒れ込んだそこに、刀の先端をざくりと下ろした。


 イオリの青白い顔の、ほんの一、二センチ横である。

 イオリはぞっとして刀に目をやり、そこに反射した自分の怯えた顔を見た。


「稽古ならこれで終わりだな、イオリ」


 マサルはイオリを見下ろしてにやりと笑った。

 それはイオリに、やはりマサルには敵わないと植えつけるのに充分な勝利だった。


 稽古なら、たしかにこれで終わりだ。

 しかしこれは稽古ではない。

 実戦なのだ。

 実戦では、最後まで生きている人間が、最後まで戦う意志がある人間が勝つ。

 イオリは懐に手を入れ、指で煙玉を押し潰した。


「むっ――」


 たちまち立ち上った煙にマサルが身を引いた瞬間、イオリは立ち上がって距離を取る。


 灰色の濃い煙が、そのままの形で風に流れていく。

 イオリは刀を構え、マサルもそれに倣って身構えた。


 マサルが先に地面を蹴る。

 しかしイオリに向かってではなかった。

 傍らで見ている大輔に向け、一気に距離を詰める。


「しまった――ダイスケ殿!」


 イオリが叫んだときには、マサルはすでに大輔の目の前まで迫っていた。

 もちろん大輔もよそ見をしていたわけではないが、身構えるにはあまりにマサルが早すぎる。


「ぬおっ――」


 マサルの刀がぶんと宙を薙いだ。

 慌てて屈んだ大輔の、ほんの数センチ上である。

 もし屈んでいなければ完全に首を飛ばしていたであろう豪剣に、さすがに大輔は口元を引きつらせた。


「あ、あっぶねえ――」

「ほう、よく躱したな」

「接近戦でどうにかなる相手じゃないぞ、こいつは――」

「兄上、お覚悟を!」


 大輔に向かっていたマサルの背中に、イオリが斬りかかる。

 マサルはまるで悠然と伸びをするように片手を背中に回した。

 そんな体勢で手にしっかり力が入るはずもないが、ぎんと音を立て、イオリの渾身の一閃は背中に回されたマサルの刀で押し止められていた。


 そのまま、イオリは力で押し切ろうとするが、マサルの刀はびくともしない。

 まるで壁に向かって刃を立てているようなものだった。


「貴様、なぜイオリに協力しておるのだ」


 マサルは大輔に言った。


「他国の人間であるなら、イオリや姫さまとはなんの関係もないはずだが」

「たしかに、ぼくは通りすがりの天才だけどね」


 大輔はにやりと笑ってみせる。


「お互い、いろいろ事情がある。それを聞くのは野暮ってもんじゃないか」

「ふむ、それは失敬――では力で聞こう」


 マサルの太い腕に、さらに力がこもる。

 それはイオリの渾身を弾き、そのまま大輔を真上から狙った。大輔は限界まで自分に向かってくる刀を見つめた。

 もう間に合わないというぎりぎりまで粘って、身体をわずかに左へずらす。

 マサルの刀は大輔の身体をなぞるように地面まで振り下ろされ、すかさず大輔はその刀の峰を踏みつけた。


 日本刀というのは極限まで刀身を薄く、軽くしたものである。

 その分、想定されている以外の方向から加えられる衝撃にはもろくできている。

 大輔は峰を片足で押さえつけたまま、もう片方の足で思い切り刀身の平を蹴り上げた。


「むっ――」


 ぴん、と針を弾いたような音が響き、マサルの刀がその真ん中あたりからぽきりと折れた。

 大輔はすぐさま距離を取り、哄笑する。


「わーはっはっは! 見たかこの見事な作戦を! ぼくの狙いは最初から武器破壊にあったのだ! たしかに接近戦では敵わないが、武器さえ破壊してしまえばこっちのものよ。おとなしく降参したら許してやらんこともないけどなあ、わーっはっはっは!」

「う、だ、ダイスケ殿、まるで悪役のようでござるな……」

「なるほど、たしかにしてやられた」


 マサルは折れた刀をぽいと捨てた。


「その見切りといい、見事なものだ。おれは貴様を甘く見ていたようだな」

「ふははは、ぼくはあんたのことを正確に見てたぜ。過大でも過小でもない、相手の能力を正確に見抜くことが勝利への第一歩だからな」

「ふむ、とてもおれの実力をちゃんと評価しているようには見えんがな」

「なに?」

「おれが、刀がなければなにもできないと思ったか?」


 マサルは羽織っていた着物をばっと脱いだ。

 筋肉がいびつに浮かび上がる全身もさることながら、その背中に青く刻まれたものに大輔は目を惹かれる。


「それは――」

「四人衆の証である!」


 大きな背中に、円形を基本とした複雑な図形が刺青のように彫り込まれていた。


 それはどう見ても、魔術陣だった。


「奥の手を見せてやろう――ぬう!」


 マサルはぱしりと両手を打ち鳴らし、全身に力を込めた。

 すると、背中の刺青が薄く発光をはじめる。青白い、清廉ささえ感じさせる光だった。


 マサルの全身がぶるぶると震えはじめる。

 まるでその内側から、なにかが皮膚を食い破って表へ飛び出そうとしているようだった。

 そしてそれは、あながち間違いではない。


 硬い筋肉を覆う皮膚に、灰色の硬い毛がぶわりと現れた。


 それはまたたく間にマサルの全身を覆い、マサルの顔さえ灰色の毛で見えなくなって、ほとんど苦痛のようなうめき声が響く。

 マサルはそのまま身体を前に倒した。四つん這いのような格好である。

 そうなってしまえば、マサルの身体は、もうほとんど四足歩行の生物に変化してしまっている。


 人間らしい顔はなくなり、鼻先がぬっと伸びて、灰色の毛の奥から黒く大きな瞳がぎらぎらと覗いた。

 手足もまた人間ものとはかけ離れ、腕や足は短く縮んで動物の前足、後ろ足となる。

 そして大きな尻尾が現れると、マサルは完全に一匹の巨大な獣となった。


 マサルだったものが吠える。

 太く尖った牙がその口から覗いていた。


「どうだ、これがおれの奥の手!」

「……やっぱり犬だな」

「犬ではない、狼である!」

「ちょっと吠えてみ」

「うう、わおんっ」

「犬じゃんか」

「狼である! 貴様、おれを犬っころといっしょにするとは、まずは貴様から葬ってほしいようだな!」


 犬、ならぬ狼は前足で土を蹴り上げた。

 大輔はそれを見て、にやりと笑う。


 ここまではすべて計画どおりだった。



  *



 時間をかけるということは、それだけ相手の情報を得られるということでもある。


 こっちがこう動けば、相手はどう対処するか。

 それを繰り返すことで、相手のくせや目的を探っていく。

 そして相手自身が気づいていないようなわずかなくせさえも見抜き、作戦に組み込むことで、その作戦はより完璧なものとなっていくのである。


 マサムネは、泉とともに野原を移動しながら着実に泉の情報を手に入れていた。


 まず泉は、さほど体力があるほうではない。

 すこし走ればすぐに息切れし、速度が落ちる。

 そこをさらに追い回せば、酸素が足りなくなってついには足を止める。

 そしてマサムネが近づくと、例の炎の玉でそれを追い払い、また呼吸を整えて走り出す、という繰り返しだ。


 たしかに、炎の攻撃は厄介だ。

 直撃すれば一撃でやられかねない。

 その業火は、すぐ近くをかすめるだけで肌が焼けるような熱を感じる。


 しかし反対に言えば、当たりさえしなければなんの問題もないということだ。

 炎の速度自体は大して早くもないから、相手が炎の玉を放ってからでも、ある程度距離を取っていれば充分に回避できる。

 攻撃の仕方も工夫がなく、紙を使い、腕を突き出して、まるでいまから撃つから気をつけてくださいといわんがばかりの動作である。

 これでは、たとえ一撃にどれだけ力があってもまったく無意味だ。


 結論として、泉は戦いには慣れていない。

 戦闘手段はあるが、絶望的なまでに経験が足りていない。


 もっと言えば、泉は戦いというものをまだ知らないのだ。

 命がけの戦い、つまり殺し合いというものを理解していない。


 そこへきて、マサムネは剣士である。

 兵士である。

 常に戦いに身を置き、そこで生き死ぬ覚悟を持つ者である。


 ロスタム王国は平和な国で、現実的に戦争などめったにあることではないが、もしそれが起こったときのために訓練や稽古は毎日欠かさず行なっている。

 訓練や稽古は決してお遊びではない。

 それも一歩間違えば大怪我を負う戦いだ。

 その戦いに日常を置くマサムネにとって、泉の戦い方はまるで児戯に等しかった。


 だからこそマサムネは、相手を傷つけるのではなく、完全にその力を封じることによって勝利してやろうと考える。


 戦い慣れた人間、戦うという意味を知っている人間は、たとえ攻撃手段をすべて失っても諦めはしない。

 負けることは死ぬことだと知っているせいだ。

 しかし戦うことに慣れていない人間は、勝つ手段を失った時点で負けを認める。

 それこそ、本物の戦士が力の差を見せつける勝ち方である。


 マサムネは慎重に相手の出方を観察し、攻撃の手順、その手間を見て、ふと立ち止まった。

 それまで散々追い回していたマサムネが立ち止まったのを見て、泉も不思議そうに足を止める。


「もう充分でしょう。そろそろ結末へ向かわなければ」

「結末?」

「そう。わたしが勝ち、あなたが負けるという結末にね。まあ、安心なさい、あなたに怪我はさせません。擦り傷ひとつなく、わたしが勝って差し上げましょう」


 まずは様子を窺い、決着をつけるときは一瞬で、そして全力で戦う。

 それこそマサムネの理想とする戦いである。

 だから、彼は戦いの素人相手でも容赦するつもりはなかった。


 腰に帯びた刀を下ろし、着物の上半身をはだけさせる。

 痩せてはいるが、薄くしなやかな筋肉がついた身体である。

 そしてその背中には、マサルと同様、複雑な図形の刺青があった。


 マサムネはその場にどかりとあぐらを組み、両手を合わせる。

 そして呼吸を整えた。

 自分の身体をめぐる血液と生体エネルギーというべきものの流れを意識する。

 そうすると、身体全体が発熱するような感覚が起こって、手足の感覚がすこしずつ変化していく。


「あっ――」


 その様子を見ていた泉は、思わず声を上げた。


 マサムネの身体に羽毛が生え出すのを見たのだ。


 マサムネの全身は一度羽毛に包まれたあと、それがはらはらと舞い落ち、やがてそこに、一羽の巨大な怪鳥が現れた。


 怪鳥は翼を広げれば三メートル以上になり、黒い嘴は長く尖って、ばさりと風を起こして宙に舞い上がる。鳥となったマサムネは甲高く鳴き、呆然とする泉を見下ろした。


「さあ、仕上げをはじめましょうか」



  *



 ムサシは荒く息をつき、立ち止まった。


「くそ、これじゃあきりがねえ」


 先行する燿との距離は先ほどとほとんど変わっていない。

 ふたりの走る速度はだいたい同じで、体力ではムサシが有利だったが、怒りに任せて動いた分ムサシも普段より多くの体力を消費していた。


 ムサシは呼吸を整えながら、すこし先で同じように立ち止まっている燿を見る。

 燿もふとムサシを見て、ぷぷ、と笑った。


「その顔、ほんとお猿さんそっくり。何回見てもおもしろいや、あははは」

「ぐ、ぐぬぬ、どれだけおれを小馬鹿にすりゃ気が済むんだ、あの野郎――」


 普段ならここで怒りのままに飛びかかるところだが、ムサシはそれをぐっと堪えた。

 そして自分に冷静になれと言い聞かせる。

 冷静に戦えば、決して手こずるような相手ではないはずなのだ。


「落ち着いてやれば、一発で終わるはずだ。さっさと終わらせたほうがすっきりする、そうだろ、おれ」


 ムサシは息をつき、頭を冷やす。

 そしてぐっと顔を上げた。燿はすこし首をかしげて、


「どうしたの、バナナ食べたいの?」

「こ、ここ、このやろ――あー完全にあったまきた! ちょっと待ってろ、てめえ、すぐに終わらせてやるからな!」


 ムサシはぴしりと燿を指さし、その場に座り込んだ。

 燿は不思議そうな顔でそれを眺める。


 ムサシはその場で着物をはだけ、全身にぐっと力を込める。

 はじめはただ力んでいるだけだが、その力みがうまく全身を支配すると、それはたちまち別の力へと変換された。


「わっ、すごい――」


 座り込んだムサシの全身が茶色い体毛で覆われる。

 ムサシは燿を見て、にやりと笑った。


「どうだ、驚いただろ――これぞおれの奥の手だ!」

「……あれ、もう終わり?」

「あん? なにがだ」

「なんか、変身するんじゃないの?」

「しただろ、変身。見ろ」


 ムサシは立ち上がり、ばっと手足を広げた。

 しかし燿はううんとうなり、首をかしげて、やがてぽんと手を打つ。


「ようやくわかったか。おまえ、目悪いだろ」

「眉毛がつながった!」

「そこじゃねえよ! 人間から猿に変身しただろうが!」

「……え?」

「え、じゃねえよ、よく見ろよ、ぜんぜんちがうだろ。さっきまでのおれは人間、いまのおれは猿だ! ――てめえ、ご冗談をみたいな顔で笑うんじゃねえ! あーもうてめえほどおれの神経を逆なでするやつははじめてだぜ。さっさと終わらせてやる!」


 燿はきゃっきゃっと明るい声を上げ、逃げはじめる。

 身体まですっかり猿となったムサシはきいきいと軋むような甲高い声を上げ、そのあとを追った。

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