桜の姫君 4
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イオリにとって、スオウ・ミナギという人間は、ある意味では雲の上の人物だった。
イオリは代々王家に仕える近衛兵の一族である。
近衛兵とは国を守るのではなく、王家を守ることが仕事だ。
言ってみれば、それさえできればよいのだ。たとえ目の前で仲間を見殺しにしても、王家の人間さえ守ることができれば、近衛兵としての役目は充分果たしたことになる――そう言い聞かされて成長したイオリは、自分でもごく当たり前のように王家を守るのだと受け入れ、その対象としてミナギを見ていた。
スオウ・ミナギ。
第八十四代目の国王になるべくして生まれた少女。
王家はミナギひとりきりではなく、国王もいればその夫人も、その両親も兄弟もいるが、イオリはミナギ付きの近衛兵だった。
いわばミナギお抱えの兵士であり、これは兵士というより使用人に近い存在で、ミナギがなにか持ってこいというならただちにそれを持っていくし、どこかへ出かけるというなら必ず影のようについていく。
そのため、ミナギとの物理的な距離は親よりも近い。
しかし必要な会話以外は行わず、視線を合わせることもないから、関係はあくまで護衛とその対象という域を出ない。
だから、という部分もあるのかもしれない――人間らしい心情とは関係なく、業務上の必要性かもしれないが、イオリは、ミナギのためならいつでも命を投げ出せると考えていた。
なんの躊躇もなく、必要であれば、そうするだろうと。
やはりその根底には、信頼関係がある。
近衛兵だから命を投げ出さなければならないという使命感ではなく、もしミナギがそう望むときがあるとするなら、それがどうしても必要なときなのであり、そこで死んだとしても無駄死にはならないだろうという信頼があるのだ。
ミナギが言うことに間違いはない。だからイオリは家臣としてそれに従う。
それは、ふたりが城を抜け出す前日もそうだった。
イオリはいつものように、ミナギの部屋の近くであたりを監視していた。そこに部屋のなかから、
「イオリ、いるんでしょう」
とミナギの声がかかる。イオリはすかさず襖の前に移動し、そこに跪き、答える。
「なにかご用でしょうか、姫さま」
「あなた、明日はどうするの」
襖は開かず、その奥から声だけが響く。
「は、どうする、というのは?」
「別になにも予定はないんでしょ」
「はあ、それはもちろん、明日も警護につかせていただきますが」
ミナギはいったいなにが言いたいのだろう、とイオリは内心首をかしげる。
明日も、明後日も、警護につくのは当然のことだ。
近衛兵のなかでも特別なイオリには時間交代などなく、一日二十四時間、常にミナギの警護についている。
ミナギもそれも知らないはずはなかった。
「明日、出かけるわ」
ミナギは、それだけを言う。
「は、承知いたしました。どちらまで?」
「どこか遠く」
「は?」
「どこか遠くよ」
「それは、町の外ですか? では殿の許可も取らなければ」
「許可なんかいらないわ」
部屋のなかでとんとんと足音が響き、襖が左右同時に、豪快に開く。
顔を出したミナギは跪いたイオリを見下ろし、はっきりと言った。
「わたし、この国を出て行くことにしたから」
「……はい?」
ミナギが突拍子もないことを言い出すのは、決してはじめてではない。
以前には町が盛り上がりに欠けると突然大規模な祭りを計画したり、交易を盛んにするにはもっと名物や特産が必要だとあれこれ手配したりと、思いついたらなんでもやってみる性格はイオリも重々承知している。
しかし「国を出て行く」は、いままでの次元を超えていた。
「そ、そそ、それは姫さま、また、殿のけんかでもされたのですか?」
「まあ、そんなとこよ」
ミナギはふんと鼻を鳴らし、腕を組む。
「もうこの国にはうんざりしたから、出て行くことにしたの」
「し、しか、しかし姫さま! 姫さまはこの国の姫さまでございますから、国を出て行くなど」
「それがうんざりだって言ってるの! とにかく、国を出て、とりあえずはとなり町を目指すわ。そのあとのことはとなり町に着いてから考えるから」
「そ、それはもう決定事項なのですか?」
「もちろん。あなたも準備しておきなさいよ」
「へ?」
「なによ」
むっとした顔でミナギはイオリに詰め寄る。
「わたしだけで行けっていうの? 近衛兵のあなたは、当然ついてくるわよね」
「え、う、あ、その」
「ついてくるわよね?」
口調以上に有無を言わせぬ瞳がイオリを射抜いていた。
ミナギが言うことは絶対である。
ついてこい、というなら、イオリはついていく以外に選択はない。
しかし一応、ミナギはイオリの意志を聞いていた――多少それが脅迫的であったとしても。
いやだ、と断ることも、イオリにはできた。
そもそもイオリは国の兵士であり、ミナギが国を出て行くと言った以上、それに付き合う理由はないのだ。
しかしイオリは、無意識のうちに国かミナギかを問いかけ、ほとんどためらいもなく、ミナギを選んでいた。
「わ、わかりました、お供させていただきます――しかし姫さま、本当に国を出て行かれるおつもりで?」
「当たり前でしょ。一回言ったことは絶対にやり遂げる。わたしの性格、わかってるでしょ?」
そう言って、ミナギはにこりと笑った。
イオリはただその笑顔に、曖昧にうなずくことしかできなかった。
*
ティアーズたちは、突如目覚めた「神」について何度も話し合いを繰り返した。
まず、神との意思疎通は可能か、という基本的な問題について、彼らは森のなかで葉擦れにまぎれて話し合った。
その議題についてまず問題になったのは意思疎通の大前提で、つまり、意思疎通というのは相互確認によってなされる、ということだった。
たとえば、こちらが「あ」と言って向こうが「い」と言ったとき、こちらの呼びかけに対してなんらかの答えを返してきたとは理解できても、それがすなわち意思疎通というわけではない。
極論、それは反応ですらないかもしれず、こちらが「あ」と言おうが言うまいが、向こうはただ自分の気分で「い」と発しただけなのかもしれないのだ。
意思疎通の確認手順としては、まず「わたしが『あ』と言ったら、あなたは『い』と言ってください」という注釈をつけなければならない。
そして「あ」と言い「い」が返ってくる。
しかしそれでもまだ意思疎通が完了したとは言いきれない。
やはり、偶然その瞬間に向こうが「い」を発したくなっただけかもしれないのだから、それに続いて「では今度はわたしが『う』と言いますので、あなたはそのあとに続いて『え』と言ってください」と言わなければならない。
もちろんそれですべての問題が解決したというわけではなく、向こうは単に「いえ」と言いたかっただけかもしれないという可能性は常に残るが、ともかく現実的というごく限られた見方をすれば、ひとまずそれで意思疎通が可能だと判断してもよかった。
そこでティアーズの一匹が、そもそも意思疎通とは個々の抱く幻想ではないか、と言い出した。
つまり、意思疎通なるものが通用する、と思っていること自体がすでに幻であり、いかなる形にせよ他者との意思疎通など不可能なのではないか、という問題提起である。
一方が「あなたにはわたしの言葉が理解できますか」と言い、もう一方が「はい、わたしはあなたの言葉が理解できます」と答えたとき、それで意思疎通が完了したとだれが言えるだろう。
すべての生物には感覚があり、感覚というのは内側から外側を覗くための唯一の窓であるから、意思疎通も当然感覚に依存するわけだが、その感覚というやつが絶対正確などということはあり得ないことはだれもが理解している。
存在しないものを幻視したり、幻聴したり、反対に存在しているものを見落としたり、聴き逃したりすることは日常的に存在し、それは感覚の不完全性を表しているが、その不完全な感覚によってしか成立し得ない意思疎通もまた不完全であり、「はい、わたしはあなたの言葉が理解できます」と自分には聞こえても、相手が本当にそう言っているという保証はどこにもないのだ。
つまり、とティアーズの長老は紛糾する議論を収めるために、老人らしく妥協案を探った。
いま問題としているのは神との意思疎通であり、つまり神に意志があるかどうかを確かめてみてはどうか、という老獪なやり口に、だれもがひとまず納得せざるを得なかった。
そしてティアーズたちは場所を神域へと移し、目覚めた神の前にひれ伏して、口々に言った。
「もしあなたに意志があるなら、われらの前にお示しください」
神は答えなかった。
なにも答えず、岩のように黙りこくり、あるいは岩のように鎮座し、身じろぎもしなかった。
しかしティアーズたちが諦めて立ち上がりはじめたころ、不意に神は地響きのような音を立てて動きはじめた。
「おお――神は意志をお示しになった!」
長老は叫び、両腕を天に振り上げた。
そのすぐ上を、神の岩のように硬い――というより本物の岩なのだが――腕がぶんと音を立てて薙いだ。
長老の体毛が揺れ、その後ろにあった木が轟音とともに弾け飛ぶ。
静寂は一瞬だった。
「神はお怒りである、神はお怒りになられておられる!」
ティアーズたちは慌てて神域を飛び出したが、その背後でまだ神が暴れる音が聞こえていた。
危うく命を失いかけた長老はふうとため息をつき、それからまじめな、ほとんど悲痛ともいえる顔つきで仲間たちを見回す。
「これは、われわれにとってかつて経験したことがないほど重要で巨大な問題である。いかにして神のお怒りを鎮めればよいか?」
ティアーズたちはまた議論をはじめた。ティアーズという生物は議論が好きな、知的な生物なのだ。
まず問題になったのは、なぜ神が怒ったか、ということだった。
当然、怒るにはなにか理由が必要で、過程もなく感情が爆発することはない。
神がなぜ怒るのか考えるということは、他者の感情を推測することが可能か否かという問題もはらんでいた。
まず間違いなく、他者の感情を正確に理解することは不可能である。
なぜなら感情というものもまた感覚を通して起こるものであり、その感覚がひとそれぞれちがうものである以上、他者とまったく同じように感情の変化を起こすことは絶対に不可能なのだ。
しかし推測することは可能である。
自分の感覚と照らし合わせ、相手と同じ状況を考えてみれば、すくなくとも自分がどのような反応を示すかは推測できる。
それを相手に当てはめてみればいい。
たとえばこの場合、神はなぜ怒ったか。
ティアーズたちの対応に問題があったとは、ティアーズは考えなかった。
彼らは誠意を尽くしたのであり、失礼に当たることはないと理解している。
そのため、神の怒りは別の理由によるものであり、その理由をいろいろと議論した結果、ティアーズたちは普段よりもさらに多くの供え物、つまり食料を携え、神域へと赴いた。
つまり、神は腹が減っていたのだ、と結論したのだ。
神は、暴れ疲れたのか、すでに動くのをやめていた。
その隙にティアーズたちはひとりでは持ちきれない量の食料を神の前に供え、そそくさと離れた。
「これでよし。これで神も暴れはしないだろう」
長老はしたり顔で言って、事実丸一日神が暴れた気配はなかったが、二日目になると神はまた暴れ、木々をなぎ倒しはじめた。
ティアーズたちは、自分たちの推測が間違えていたのだとは思わなかった。
むしろさらに推測を拡大させ、あれでは量が足りなかったのだ、と考える。
そう考えるには正当な理由があり、神の身体はティアーズたちの何十倍もあったから、必要な食料もまたそれに比例して増えるだろうと推測したのだ。
問題は、それだけの食料が森にはないことである。
ティアーズたちは遠くに神の暴れる音を聞きながら、どうするべきか、と議論した。
森のなかにあるすべての動物、植物を合わせても神が必要な量には至らないかもしれない。
だったら、森の外から持ってくればいいのだ、と主張するティアーズが現れ、最終的に長老は、その意見を認めた。
「では、こうしよう――森の外には、ニンゲンというやつがいるらしい。そいつらは、身体が大きい。ひとつ、ニンゲンというやつを生贄にしてはどうか?」
それはいい、そうしよう、という賛成の声が多く飛び、決議された。
「ニンゲンを生贄にし、神のお怒りを鎮める。そのためにはニンゲンを捕まえなければならない。ニンゲンは決して愚かな生物ではない。だれか、ニンゲンを捕まえるために森の外へ出る勇気ある者はいないか」
「おれが行こう」
「おれもだ」
「よし、では、さらに何人かでニンゲンを確保するのだ。さすれば神も、お怒りを鎮めよう」
ティアーズたちはうなずき合い、ただちに行動をはじめた。




