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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
桜の姫君
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桜の姫君 3

  3


 町の周囲は、ほとんどすべて野原になっている。


 しかし東側にだけ森があり、町の人間はその森を「ティアーズの森」と呼んで、神域として扱ってきた。


 町に住む子どもなら、必ず一度は聞く文句――そんなことをしていたらティアーズに連れ去られてしまうよ、という文句は、まさにその森に由来している。


 曰く。


 森には、ティアーズという妖精が住んでいるのだという。


 それがどんなものなのかは、だれも知らない。

 姿を持つものなのか、そうではないのかもわからない。

 ただ、ティアーズというものが存在する、ということだけはだれもが信じていた。


 ティアーズの森には、決してだれも近寄らない。

 つまり、だれひとりとしてティアーズの正体を突き止めようとした者はいないのだ。

 なぜならばティアーズというのは「実在する」のであって、正体などというものはなく、妖精である、実際するものである、という認識だけで充分なのである。


 もちろん、森に住んでいるというティアーズは、人間たちから自分たちがそう呼ばれていることも知らないし、恐れられていることも知らない。

 人間とティアーズは、ごく狭い範囲ではあるが、完全に住み分けされ、お互いに干渉もなく暮らしていた。


 ティアーズは、よほどのことがないかぎり住処としている森の外へは出ない。

 食料は森のなかにいくらでもあるし、野原へ出ていってもなにがあるというわけでもないから、それは必然的な選択である。


 そもそもティアーズは、妖精と呼ばれているからといって一日中ふわふわと宙を漂って暮らしているわけでも、なんの不安も恐れもなく陽気に日常を送っているわけでもない。

 ティアーズにも生きていくための食料は必要で、人間と同じように一日の大半を食料集めに費やしているし、明日への恐れもあれば、信仰すら存在する。


 人間がティアーズの森を神域としているように、ティアーズたちもまた、森のなかの一部を神域とし、そこには自分たちを超えるものが生息していて、自分たちはその庇護のもとにあるのだ、と考えていた。


 ティアーズが神域としているのは、森の西側、木々があまりなく、なにやら意味ありげに巨岩や土くれが詰まれている一角だった。


 同じ森の、ほかの場所には巨岩などひとつもないのに、なぜそこにだけそんなものがあるのかはティアーズも知らない。

 ただ、ほかとはちがう、という一点でティアーズはその場を神域として、その巨岩群を一種の神として崇め、毎日森で採れた食料のいくらかを巨岩群の前に供えていた。


 ――そんなある日のことである。


 一体のティアーズがいつものように神域へ赴き、その日採れた食料を一抱え巨岩群の前へ置いたとき、ティアーズは普段とはちがう気配のようなものを感じた。


 なにがどう、というわけではない。

 奇妙な姿が見えたわけでも、物音を聞いたわけでもなかったが、そこになにかいる、という直感が働き、ティアーズはあたりを見回す。


 神域に入るティアーズはいつも決まっていて、ほかのティアーズがいるはずはないし、森で暮らしているほかの動物たちも不思議とこのあたりには近寄らないため、神域はいつも静まり返っている。

 今日も物音はなく、普段と様子が変わらないのに、ある種の重圧のような、巨大ななにかがこのあたりに潜んでいるような気配がするのだ。


 ティアーズはともかく食料を供え終えて、そそくさと立ち去ろうとした。

 しかし巨岩群に背を向けた瞬間、今度は明らかにはっきりとした物音を聞いた。


 ぎぎ、とまるで硬い石をこすり合わせたような音である。


 ティアーズはびくりと立ち止まった。また背後で、がらん、と岩が崩れるような音がする。

 聞き間違いということはあり得なかった。

 なにしろ音は途切れず、がらがらごとごと、と続いているのだ。


 振り返るべきか、立ち去るべきか。

 ティアーズは背中に物音を感じながらじっと考え、もしここでなにも確認せず逃げ帰れば仲間から臆病者といわれるかもしれず、そんなふうに思われたくはないから、ここで確認しておこうと決める。


 物音は続いていた。


 ティアーズはゆっくりと振り返った。


 ティアーズたちが神と崇める巨岩群が、もぞもぞと蠢いていた。


 ひとつの巨岩をとってみても、十メートル近くある。

 それが五つ、六つと並んでいるが、それぞれがまるで生物のようにぶるぶると震え、互いにぶつかり合い、連結し合って、なにかひとつの形を取ろうとしているのだ。


 ティアーズはそれを見た瞬間、一目散に神域を飛び出した。岩が動き出した――そのことを仲間たちに伝えなければならない。


 一方、ティアーズが逃げ出したあとも巨岩は動き続け、やがて六つの巨岩がすべて連結された。


 真上から見れば、人間が大の字になって横たわっているような形になる。

 実際、連結されてひとつになった巨岩は、両腕に当たる部分で身体を支え、上半身をむくりと地面から起こした。


 長らくこの場で眠っていた巨大な岩の生命体は、いまようやく目覚めたのである。



  *



 で、と大輔は切り出した。


「思いっきり不本意ながら巻き込まれたぼくたちに対しての説明を要求したいのだが、どうかね、空からぼくめがけて降ってきたきみたち」

「う、そ、それはこちらとしても不本意な出来事でござったが……ひ、姫さま、いかがなさいますか」


 イオリと呼ばれていた男のほうは二十代半ばの若い男で、もうひとりの女は、だいたい燿たちと同じ年ごろだった。

 どちらも黒髪に黒い瞳、日本人に似た顔立ちをしている。


「別に、説明してもいいんじゃない」


 女はつんとした態度で言って、大輔をじろじろ眺めた。


「よその国の人間でしょ? だったら話しても害はないわ」

「では――まず、自己紹介からさせていただく。拙者、イオリと申す者。この度は拙者の問題に巻き込み、申し訳なく思っておる」

「これはまたご丁寧に……ぼくは大湊大輔、まあ、旅人ってことにしといてくれ」


 燿たちもそれぞれ名乗ると、イオリはうむとうなずき、傍らの女を見た。


「こちらにおられるお方は、スオウ・ミナギさまでござる。詳しくは言えぬが、高い身分にあるお方でござる、そのようにご理解いただく」

「詳しくは言えないって、姫なんだろ?」

「な、なぜそれを!?」

「いや自分で姫さまって言ってたし」

「し、しまった! まさか無意識のうちにそう呼んでいたとは、不覚でござった」

「呼んでるのも一回や二回じゃなかったけどな」

「と、とにかく、これは極秘でござる。なにとぞ他言なされぬよう」

「わあ、あなた、お姫さまなの?」


 姫と聞いて、持ち前の社交性でもって燿がとことこと近づく。

 姫、スオウ・ミナギはそれを一瞥したが、ふんと鼻を鳴らし、にやりと笑って言った。


「あなたのような身分の低い人間がわたしに話しかけるとはなかなかの勇気ね。この上なく無礼だけれど、わたしは心が広いから許してあげるわ」

「え、あ、う、うん、ありがと……?」


 なぜ許されたのかはわからないが、とにかく燿は曖昧に礼を言った。

 そのとなりで、大輔はじっとイオリを見つめる。

 イオリはうっと視線を逸らし、


「さ、さて、なぜわれわれがあのような形で追われているかという話でござるが」

「イオリくん、無視するにはちょっと彼女の性格が派手すぎやしないか」

「な、なんの話でござる? 拙者にはわからぬなあ、ひゅーひゅー」

「口笛吹けてないし。いやまあ、別にいいけど。で、なんで人間の言葉をしゃべる犬っころに追いかけられてたんだ」

「あれは、犬っころではござらん」


 イオリは真剣な顔で首を振る。


「あれは、兄上でござる」

「あにうえ?」


 大輔はもちろん、燿たちも不思議そうにイオリを見た。

 大輔はふむふむとうなずいて、


「遺伝子の妙だよなあ。犬と人間が同じ遺伝子から生まれるとは。いや、言われてみればたしかに目のあたりに面影が」

「嘘でござろう、拙者犬と同じ目はしておらぬ。いや、あれは犬ではない、兄上なのだ。わけあって、兄上があのような姿になっておられたが、実際の兄上は拙者と同じ人間でござる」

「人間が、犬になるのか?」

「自称狼でござるが」

「まあ、犬だろ。へえ、人間が犬にねえ……着ぐるみには見えなかったけど。じゃあ、兄貴に追いかけられてたってことでいいんだな。あとの事情は、まあ、あのやり取りを見てたらだいたいわかる。あれだろ、きみがそこの姫を誘拐して、兄貴に追いかけられたんだろ?」

「む、むう、まあ、そう言えぬこともないというか、まさにそうなのだが、そう認めるにはいささか抵抗を禁じ得ぬところもあるのだが、そういうことでよい」


 大輔はふと視線をミナギに向ける。

 ミナギは大輔の視線を受けてもふんと鼻を鳴らしただけだったが、拘束されているわけではないのに、逃げ出そうという気配もない。

 そもそもイオリのほうがミナギに気を遣っているような雰囲気だった。


 ただの誘拐でないことは明らかだ。

 なにか事情があり、誘拐という形を取っているにちがいない。

 そしてその事情というやつは、状況を見るに、ごく少数の人間しか知らないのだろう。

 イオリの兄はその事情を知らないからこそこれを誘拐だと思い、追ってきたのだ。


「ねえねえ、なんでお姫さまを誘拐したの?」


 燿が無邪気に聞く。イオリはすこし困ったように眉をひそめて、


「それはまあ、その、いろいろと理由があってだな」


 その理由、というのが問題になるわけだ、と大輔はため息をついた。


「本当なら別に教えてもらわなくてもいいんだけど、いまはもう、そういうわけにはいかないだろうなあ」

「む、どういう意味でござる」

「推測すると、きみは姫を誘拐した容疑で国から追われてるんだろ? それとも追いかけてきてるのは兄貴ひとりなのか?」

「いや――おそらくは、国を挙げて追っ手を出してくるであろう」

「つまりお尋ね者ってことだ。で、ぼくたちはそのお尋ね者といっしょにいるところをがっつり見られたわけだな。とくにきみの兄貴は、ぼくたちを仲間だと思ってるらしい」


 つまり、だ。

 問題はこれからやってくるのではなく、大輔たちはすでに問題のどまんなかに、引き返そうにも引き返せない位置にいるのだ。


「先生、もしかして、わたしたちもお尋ね者になったってことですか?」


 泉が言う。大輔はため息をつき、うなずいた。


「たぶん、そういうことになると思うね。あーあ、せっかくのんびりできそうな平和な町だったのになあ……どこかのだれかが空から降ってきたせいで妙なことに巻き込まれちゃったよなあ」

「う――そ、それに関してはすまぬとか言いようがないが、しかし、ダイスケどの!」


 イオリは、ばっとその場に膝をついた。


「厚かましいことは承知でござる。しかし、どうか、われわれに手を貸してくださらぬか」

「手を貸す?」


 と大輔は首をかしげ、


「誘拐に協力しろってことか」

「これはわけあって誘拐という形になっているが、しかし、拙者は決して罪とは思っておらぬ。家臣としてすべきことをしておるまででござる。しかし兄上たちに言わせれば、拙者は反逆者、必ず追ってくるでござろう。ただの兵士なら拙者ひとりでどうにでもなるが、兄上たちの相手をひとりでするのは不可能でござる。ここで会ったのもなにかの縁、こうして打ち明けるのもなにかの縁、どうかわれわれに、いや、拙者に力を貸してくださらぬか」


 イオリは地面に額を当てるように頭を下げた。

 大輔はさすがに困った顔をして腕組みし、ちらりとミナギを見る。

 ミナギは頭を下げるイオリをなんとなく苦々しそうに眺めていた。


 これが厄介事なのは、まず間違いない。

 それも悪くすれば国中から追われるようなことになるほどの厄介事だ。

 もちろん町でゆっくり休むなどできなくなるし、このまま二度と町には入らず、またあてのない放浪をしなければならなくなる可能性もある。


 ここまで数ヶ月歩いてきて、やっと見つけた町だった。

 まだそこでひと息つくことさえできていない。

 できれば断りたいところだったが、どのみち大輔たちはすでにお尋ね者として町から監視されているだろうし、まさか、ほとんど初対面の人間に深々と頭を下げている男を無視するわけにもいかない。


 わかった、と大輔が口を開きかけたとき、それよりも早く、


「いいよ!」


 と明るく答える声が響いた。


 確認するまでもなく、燿である。


 燿はイオリの肩をぽんぽんと叩き、笑みを浮かべる。


「どうして困ってるのかわかんないけど、そういうときはお互いさまっていうし、あたしたちが助けてあげるよ。ね、先生?」


 きらきらと光る瞳で、まったく疑いもなく見つめられて無碍に断れる人間はそうそういない。

 泉はほほえみ、紫も苦笑いして、大輔はため息をついた。


「ま、そうだな、困ったときはお互いさまだ」

「わっ――」


 大輔は燿の頭にぽんぽんと手を置き、イオリに言った。


「ぼくたちはいままでもこういうことに嘴を突っ込んできたんだ。今回もまあ、そういうわけで嘴を突っ込むことにするよ」


 イオリは顔を上げ、まじまじと大輔を見た。

 そしてもう一度頭を下げる。


「かたじけない――かたじけない!」

「気にするな、もっと気楽に生きようぜ。で、なにをどう手伝えばいいのか、教えてくれるか」

「うむ――まず、拙者の目的はただひとつ、姫さまを無事にほかの町へ送り届けることでござる。なぜ、とは聞かんでくれ、家臣としての勤めだとだけ理解してくだされ」

「ふむ、ほかの町へね――それで?」

「もちろん、道中では追っ手もかかる。先ほども申したように、ただの兵士なら追い払うこともできるが、拙者と同じ実力、あるいは拙者よりも実力が上の兄上たちが相手では、拙者ひとりではどうにもならぬ。そこで、貴殿らには拙者とともに兄上の足止めをしていただきたいのでござる」

「足止めだけでいいのか?」


 大輔はにやりと笑った。


「そのまま倒すってのは?」

「むう、それしか手がないなら、仕方ないが――しかしいまはわけあって敵対しておっても、もとは兄弟、あるいは同じ国の兵同士でござるゆえ、なるべくなら傷つけたくはない」

「なるほど――」

「拙者の計画は、単純でござる。まず、拙者、ないし貴殿らのひとりと姫さまは、まっすぐとなりの町へ行く。ほかの面々はそのあとに続き、このロスタムから放たれるであろう追っ手を食い止める。最終的に、となりの町へ姫が無事に到着すれば拙者らの勝ちということでござる。さすがに兄上たちといえど、よその町でやり合うわけにはいかぬ。町のなかにさえ入れば、手出しは不可能となる」

「追いかけっこってわけだな――でも、待てよ」


 大輔は腕組みし、にやにやと笑いながら言葉を切った。


「だ、ダイスケどの?」

「もうちょっと待ってあげたら?」


 不安げに声をかけたイオリに、紫が言った。


「いま、考え中だから」

「考え中?」

「よし、わかった」


 大輔はぽんと手を打ち、イオリを見る。

 そのときにはにやにやとした笑いは消えていて、自信に満ち溢れた、すでに勝利を確信しているような晴れ晴れとした顔をしていた。


「状況を整理しよう。まず、きみの至上目的は姫を別の町へ移動させることにあるわけだな。その手段、時期は問わず」

「ま、まあ、そういうことでござる」

「で、そのために追いかけてくる敵が邪魔なわけだ」

「うむ、まさに」

「それなら話は早い」


 大輔はイオリの肩をぽんと叩き、言った。


「この大天才大湊大輔に任せなさい。必ず、きみの目的を達成させてやろう」

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