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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
桜の姫君
43/109

桜の姫君 2

  2


「姫さま、しっかり掴まってください。落ちたら怪我じゃ済みませんから」

「わかってるわよ」


 スオウ・ミナギは、傍らの男、イオリの首に腕を回し、きゅっと抱きついた。

 イオリはふわりと香るミナギのなんともいえない匂いに一瞬どきりとしたが、その心情は隠し、じっと真下を見る。


 場所はこともあろうに天守閣のてっぺんである。


 最上階よりもさらに上、ずらりと並び、夏の熱い日差しに熱されて黒光りする瓦の上にふたりは立っていた。


 イオリは全身黒ずくめであり、ミナギは派手好きのこの国の人間にしては地味な、薄い青色一色の着物を着ていた。

 もちろん帽子はない。

 それだけでも外出する格好ではないとわかる。

 もちろん正規の外出で天守閣の屋根に登ることはないから、これは本来あり得るべきではない外出なのだ。


 イオリは、天守閣の天井から遥か下の地面で蠢いている影を見ていた。


 ひとりやふたりではない。

 十人、二十人――時間を追うごとにその数は増えていく。

 騒ぎが広がり、捜索の手が増えているのだ。


「さあ、あとどのくらい時間が保つか……」


 普通の追っ手なら何十人集まろうが構わないイオリだったが、騒ぎが広がればやがては自分の兄たちにも伝わるだろう、そうなったらことは容易ではない、とイオリは全身に力を入れる。


 それから、ちらりと自分にすがるミナギを見た。


「姫さま、その、本当にやるんですか? いまならまだ引き返せます」

「やるのよ、絶対」


 ミナギはまっすぐイオリを見上げる。

 その黒い瞳は、たとえどんな困難があっても決して伏せられそうにはなかった。

 むしろ困難があればあるだけそれを打ち倒そうと輝きを増すだろう。

 ミナギは、自分で決めたことは絶対にやり遂げなければ気が済まない性格だった。


 ひとはそれを、姫のわがままという。

 しかしイオリは、そうは思わない。

 どちらかといえば他人の意見に流されがちな自分と比べ、ミナギはだれになにを言われても自分の意見を曲げない強さがあるのだ。


 もうすこし弱ければ、ひとはミナギを庇護してやりたいと思うかもしれない。

 しかしその手を拒むミナギの強さに、イオリは憧れていた。


 ミナギがやるという以上、やるしかない。


 たとえそれがどんなことであろうと、最後まで従うのが家臣の努めである。


「では、姫さま、行きますよ」

「ええ――しっかりやりなさい、イオリ」

「はいっ」


 イオリは片腕でミナギの身体を抱えた。

 そしてそのまま、かたりと瓦を鳴らして駆け出す。


 傾斜の強い、不安定な屋根の上である。

 しかしイオリはまたたく間に加速し、屋根の端まで至ると、なんの躊躇もなく空中へ飛び出した。


 青空に、黒い影がばっと広がる。

 その影は地上にも差し、歩いていた兵士の何人かが空を仰いだ。


「なんだ、鳥か?」

「いや――ひとだ! 落ちてくるぞ!」


 わっと地上で声が上がり、ミナギを抱えたイオリはその騒ぎのど真ん中へ吸い込まれるように落ちていった。


 地上三、四十メートルの天守閣から、頭を下にしてぐんぐんと落ちていく。


 強い風圧を受け、あっという間に地上が迫るなか、イオリは瞬きもせず間合いを図り、ここぞというときに身体を反転させた。

 そのまま両膝を使い、衝撃を殺すどころか、落下の足音さえほとんど立てず、地上に降り立つ。


 ぎゅっとイオリの身体に抱きついていたミナギは閉じていた瞼を開いた。

 そして驚いた顔の兵士たちを見つけ、にやりと笑ってみせる。


「ひ、姫さま!」

「イオリ殿、なにをしておられるのか! すぐに姫さまを離せ!」

「それはできぬ」


 イオリはすっと背筋を伸ばし、空の手を軽く振った。

 すると、その手に忽然と小刀が現れる。

 イオリはそれを逆手に構えた。


 兵士たちは一瞬鼻白んだふうだったが、すぐさま腰に帯びた太刀を抜き、イオリを遠巻きに取り囲む。


 その白刃は、ひとを断ち切る白刃である。

 木刀でもなければ、模擬刀でもない。


 ぎらりと輝くその刃に、ミナギは本能的な恐怖を覚えてイオリの身体に強く抱きついた。


「イオリ殿、ご自分がなにをしておられるのかわかっておられないようだ。あなたはいま姫さまを誘拐しようとしておるのだぞ!」

「すぐに姫さまを解放せよ。さすればイオリ殿のこと、必ずや殿もご寛恕くださる」

「すまぬな。ここで姫さまを解放するわけにはいかぬのだ。おれを止めたければ、かかってくるがよい」


 その言葉に、兵士たちは思わず後ずさった。

 この城にいるだれもがイオリの実力は知っている。

 いくら多勢に無勢でも敵うものではないとわかっているのだ。


 それに、イオリがミナギの身体を抱いている以上、兵士たちには斬りかかることもできない。

 万が一ミナギの身体を傷つけようものなら、たとえ国王が許しても、彼ら自身が許さないだろう。


 兵士たちとイオリは硬直状態に陥った。


 イオリはじりじりと移動し、城の門へと近づいている。

 しかし兵士たちも包囲を解かず、刀を抜いたままイオリを睨んでいた。


 これではらちが明かない、とイオリは内心焦りを感じる。

 もし両手が空いているなら囲んでいる兵士を一掃して立ち去ることもできるが、さすがにミナギを抱え、その安全を第一に考えながらでは戦うこともむずかしい。


 さて、どうするか、とひと息ついたときだった。


「イオリ、貴様、なにをしておるのだ!」


 天地を揺るがすような恫喝が響き、イオリはもちろん、兵士たちでさえびくりと身体を震わせた。


「ま、まずい、兄上でござるっ。ミナギさま、しっかり掴まってください!」

「待てイオリ! どこへ逃げるつもりだ、貴様」


 立ち並ぶ兵士を押しのけてひとりの男が前へ出てくるのと、イオリがミナギを抱えて飛び上がるのはほとんど同時だった。


 イオリの跳躍は、まるで羽根でも生えているかのようにふわりと塀の中頃まで舞い上がり、そのままするすると塀を上っていった。

 その頂点まで上りきったところでイオリはすこし振り返り、


「兄上、申し訳ございませぬ! しかし拙者、ここで捕まるわけにはいかぬのです。どうかお許しを」

「な、なにを、許しもなにもあるか! とにかく姫さまを連れて戻れ!」

「申し訳ございませぬ!」


 ミナギを抱えたイオリの姿が、塀の向こうに消える。

 現れた男は顔をまっ赤にし、ぶるぶると震えながら周囲の兵士たちを睨みつけた。


「なにをしておるか、すぐに門を開けよ! やつを追い、捕らえる!」

「は、はっ」


 兵士たちが慌てて開門の準備をはじめるあいだに、イオリは城下町の屋根から屋根へと飛び移って距離を稼いでいた。


「ちょっと、イオリ、待って!」


 ミナギが耐えかねたように声を上げる。


「もうちょっとゆっくり移動できないの?」

「も、申し訳ございませぬ、姫さま。しかし兄上が出てきたとあっては、とにかくいまは逃げるしかありませぬ」


 足音を殺す手間さえも惜しい。

 イオリが屋根から屋根へと飛び移っていくと、瓦が激しく鳴る。

 それはまるで嵐がすこしずつ移動しているような物音だった。


 町の人間も屋根を飛び交う黒い影に気がつき、あれはなんだろうと見上げる。

 そしてすぐ、その後ろから追ってくるものに驚き、慌てて道の端へと身を避けた。


 ミナギは激しい上下動に揺られながら、幻のような町に目をやった。

 イオリは恐ろしい速度で屋根を飛び移り、あっという間に町の隅までたどり着く。


 イオリからしてれば、町の外に出てからが本番だった。

 町中ではまだ隠れる場所も多いが、町の外は、神域であるティアーズの森を除き、ほぼすべてが見晴らしのいい野原である。

 そこでは小細工が効かず、速度で逃げ切るしかないが、ミナギを抱えた状態ではそれも追っ手に劣るだろう。


 町を駆け抜けながら、どうするべきか、と考え、すこし位置がずれていたミナギの身体をもう一度ぐっと抱え直す。

 どうやら、それが悪かった。


 ミナギの身体をしっかり抱え直したとき、その手が偶然、ミナギの決してふくよかではない胸部に触れた。

 その瞬間、ミナギがぴくんと身体を動かし、


「ど、どこ触ってんのよ!」

「わっ、姫さま、いま暴れると――あっ」


 着地しようと目論んでいたのは、屋根の端だった。

 そこに足をかけ、一気に町の外まで跳躍する予定だったが、ミナギが暴れたことで位置がずれ、瓦の端をかかとがずるりとすべる。


 しかし、イオリの身体能力をもってすれば、まだ焦る必要はない。

 着地し、そこからもう一度跳び上がればよいのだ。

 すこしの時間を失うが、まさか無様に落ちるようなことはない――はずだった。


 イオリは着地の瞬間に衝撃を殺すため、じっと地面を見つめていた。

 もうすこしで着地、というときに、その真下に、突然ぬっと人影が現れる。


 どうやら下の家から出てきたらしかった。

 イオリはぎょっとしつつ、慌てて叫ぶ。


「そ、そこを退いてくれ!」

「は?」


 イオリを仰ぎ見た男との距離は、すでにゼロに近かった。



  *



 大輔は突然真上から降ってきた人影をかわすこともできず、肩から背中にかけて衝撃を感じ、そのまま地面に倒れ伏した。


「ぎゃああっ――」

「せ、先生?」


 すこし先に立っていた紫、燿、泉の三人が驚いて振り返る。

 しかし事態を理解するのには、まだしばらく時間がかかった――なにしろ先ほどまでいなかったはずの男と女が、大輔もろとも地面に倒れているのである。


 その男女がどこから降ってきたのかもわからない。

 ただ紫は、なんとなく先の展開を予想し、大輔の代わりに深々とため息をついた。


「こうやってまた厄介事に巻き込まれるわけね……」

「だ、大丈夫ですか、先生」


 泉が駆け寄ると、大輔は顔を上げ、なんとか身体を起こす。


「な、なんだ、いったいなにが起こった? 一瞬空からひとが降ってくるような幻を見た気がしたんだけど」

「それはたぶん、幻じゃないでしょうね」


 紫は冷静に言って、大輔のとなりに倒れるふたりの男女を指さした。

 大輔はそれを見て、


「おおっ、なんだこいつら?」

「さあ。でもたぶん、このひとたちが落ちてきたのに先生が巻き込まれたんじゃないですか」

「空から落ちてきたのか? そんな話が昔あったけど――しかも男女とな。よくわからんけど、とにかくきみたち、大丈夫か? 死んだか?」

「う、う――」


 まずは、男のほうがむくりと身体を起こす。


「下にいた人間とぶつかったのか――ひ、姫さま! 大丈夫ですか、お怪我は?」

「ん――怪我は、たぶんしてないと思うけど」


 女のほうも起き上がり、自分の身体を見下ろして、砂まみれになった衣装に眉をひそめた。


「イオリ、服が汚れたわ。着替えを」

「はっ――し、しかし、それはひとまずあとでにしてください。早くこの場を離れなければ――む」


 男はあたりを見回し、ようやく大輔や燿たちに気づいたらしい、慌てて身構え、女を守るような位置に立つ。

 大輔も当然、これはまた厄介事の匂いがするな、とうんざりしつつ、このまま立ち去るわけにもいかないから、仕方なく両手を上げた。


「あー、こっちに敵意はない。きみたちがだれなのかもしれないし、どういう状況なのかも興味ないから、お互いこのまま立ち去るのがいいと思う」

「む、たしかにいまは時間がない――姫さま、町の外へ出ましょう。兄上が追いついていないうちにできるだけ距離を離さなければ――」

「甘いな、イオリよ!」


 野太い声である。

 イオリ、と呼ばれた男はぎくりと背筋を伸ばし、あたりを見回した。

 同じように大輔たちも声の主を探し、しかし見つからないまま、首をかしげる。


「なんだ、いまの声はどこから聞こえた? そんなに遠くはなさそうだけど」

「む、貴様、この国の人間ではないな! さてはイオリ、異国の人間と結託して姫さまを誘拐しようと――ゆ、許せん、そこになおれ、わしが切り捨ててくれるわ!」

「むう、声はたしかに近くから聞こえるぞ。でもだれの姿も見えないんだよな」

「おい異国人よ、わしはここにおる」

「どこだ?」

「貴様の目の前である!」

「……ん?」


 犬である。


 大輔にはそう見えた。


 灰色の毛をした、体長二メートル以上ありそうな巨大な犬だ。


 しかしいくら巨大でも犬は犬であり、犬が人間の言葉をしゃべるはずがない。

 その犬自体は先ほど駆け寄ってきて、大輔もそれを見ていたが、まさかその犬が人間の言葉をしゃべるなど思いもしないから、まだあたりを見回す。


「……まさか、犬を使った腹話術か?」

「失礼であるぞ、貴様!」


 犬がぐるぐると喉を鳴らした。大輔はいよいよその犬をじっと見つめ、


「ほんとにおまえがしゃべったのか? 犬が?」

「い、いい、犬だと! 貴様、わしを見て犬と申したか! ええい、貴様だけは許せん、わしを犬などと侮辱するとは!」

「いや、犬じゃん」

「また言うか!」

「犬にしか見えないっていうか、犬そのものじゃん」

「まだ言うか!」

「新世界の犬はひとの言葉をしゃべるのか?」


 まあ、なにが起こるかわからない新世界のことである、犬がひとの言葉をしゃべってもおかしくはないかもしれない。

 しかし珍しいことには変わりなく、大輔がしげしげと眺めていると、犬のほうは歯をむき出しにしていまにも飛びかからんばかりに身体を震わせた。


「この誇り高き狼を犬呼ばわりするとは、しかも姫さまの誘拐をもくろむとは、貴様、ここで切り捨ててくれる!」

「いや、兄上」


 とイオリはすこし遠慮気味に、


「この者どもはまったく無関係――」

「やかましい! イオリ、貴様もだ。姫さまを誘拐するとは、貴様、すでにわが一族ではないぞ! すぐに姫さまを離してそこにおとなしくしていろ!」


 犬は激しく叫び、イオリに向かっても牙を剥いた。

 イオリは仕方なく、懐に手を突っ込む。


「そこのお方、どなたか存ぜぬが、少々お付き合いくだされ」


 イオリははっきり聞こえる声で言って、そのあと唇をほとんど震わせずにささやく。


「煙が上がったら一目散に町の外へ。詳しい話はそこで申し上げる」


 大輔はうなずかなかった。

 返事もせず、ただ心のなかで了解する。


「いくぞ、イオリ!」


 犬は跳躍に備え、前足をぐっとかがめて体勢を低くする。

 それがバネ仕掛けのように飛び出した瞬間、イオリは懐から取り出した鉛玉のようなものを地面に向かって投げた。


「むっ――」


 ぽん、と軽い破裂音が響く。

 音は軽かったが、黒い煙はまたたく間に立ち上り、あたりは火薬の匂いと煙に包まれた。


「逃げるか、イオリ!」


 犬は叫んだが、効かない視界以上に、火薬の匂いが邪魔をしてそれ以上前へは進めなかった――そして煙が晴れたとき、当然のように、そこにはだれもいなくなっているのである。

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