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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
天空の魔法都市
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天空の魔法都市 7

  7


 まるで地獄のような登攀だった。


「空に向かって上ってるのに、地獄ってどうよ。まったく、嫌になるわ」


 ちょっとした出っ張りに豊満な尻を乗せ、エリザベス・ベスティ、通称ベスはちいさく息をついた。

 見下ろせば、まさに地獄である。


 巨木のような垂直の山を登りはじめてずいぶん経つ。

 一日、二日という段階ではなく、すでに何日この山にいるかわからないほどだった。


 雲の上に出てからさえ、すでに数日経つ。

 見下ろした先にあるのは大雲海であり、地上はまったく見えなかった。

 いっそ、その雲に向かって飛び降りたら心地よい弾力で跳ね返してくれるのではないかと思うくらいだったが、さすがに豪胆で知られるアレグロ盗賊団の頭でも、試してみるほどの度胸はない。


「ほんとの話、そろそろ死にそうだわ。っていうかこの山、どこまで続いてんのよ」


 ベスは眩しい太陽に目を細め、自分が腰を下ろしている崖の上を見上げた。

 山は無限に伸びているような気がする。

 何日も登り続けているのに、その頂上はまだ見えてきそうにない。


 幸いなのは、でこぼことした表面が多く、比較的登りやすいことと、定期的に身体を休められる場所があることだった。

 山にはときおり木がぬっと真横に生えていて、その幹で休むこともできたし、近ごろはちょっとした出っ張りに乗って手足を休める術も発見した。


「もはや山登りのプロね。別にそんなつもりもなかったけど」

「ベス姉、無事ですかー」


 ずいぶん下のほうから声が響いてくる。

 ベスは下を見下ろすのも面倒で、軽く足を振った。


「あんた、遅いわよ、ジッロ!」

「だ、だって、もう手も足も感覚がないっていうか――わあっ」


 悲鳴と共に、がらがらと石が崩れるような音が響いた。

 落ちたかな、と覗き込んでみるが、痩せた鳥のように手足が長いジッロは、器用に岩肌にしがみついていた。

 どうやらまだまだ大丈夫そうである。


「べ、ベス姉、もうやめましょうよ! 黄金の瓶はたしかに惜しいですけど、このままじゃ確実に死んじゃいますって!」

「でもいまさら下りるわけにもいかないでしょうが。それともあんたひとりで下りる?」

「い、いえ、登るだけでこんなに大変なのに、下が見えない状態で下りるなんて」

「でしょ。それにあのくそ鳥を焼き鳥にして食うまでは絶対に諦めないわ」


 そのくそ鳥の巣は、まだ見えてこない。

 別の種類の鳥の巣はたまに見かけて、卵を拝借して貴重な栄養源にしたりしているのだが、問題はあの怪鳥の巣である。


 あの鳥さえいなければ、いまごろふかふかのベッドで眠れたものを。

 ベスは改めて黄金の瓶を奪い去った鳥を憎んだ。

 そこに上から、


「ベス姉、こっちにも休めそうなところがありますよ」

「そうかい。シモン、あんたは疲れてないのか?」

「そりゃあ疲れてますけど、ま、サーカスでやってたときほどじゃありませんね」


 岩肌をするすると下りてきたシモンは、そう言ってにっと笑った。

 ベスは、シモンやジッロとの出会いを思い出す。

 それは数年前のことで、シモンはあるサーカス団の一員であり、ジッロはそのサーカス団で飼っていたサーベルタイガーの世話係だった。


 シモンは生まれつき身体がちいさく、その身軽さを生かしてサーカス団の人気ピエロだったが、それは体のいい見世物のようなものだ。

 無論、本人は望んでその仕事をしていたわけではなかった。

 力が弱く、そんな役割でも拾ってもらう以外になかったのである。


 ジッロはジッロで、動物の世話係だったが、サーカス団員のほぼだれにもなついていないサーベルタイガーを押しつけられていて、周囲からは、


「餌になるなら、まあ、それはそれで」


 という程度の扱いだった。

 それでもふたりがそれまでに辿った道筋を思えば、ずいぶんとありがたい生活ではあった。

 ふたりはその生活に満足してはいなかったが、自分の能力を考えればここが最善だと諦めていた。


 ベスは、そんなふたりをけしかけ、興行が終わった日の夜、サーカス団の有り金をすべて盗んで「アレグロ盗賊団」を旗揚げしたのだ。

 そこからの付き合いで、いまで五、六年の仲である。

 たった三人の盗賊団ではあるし、よく笑われもするが、シモンやジッロは、奴隷のようなサーカス団から連れ出してくれたベスを尊敬していた。

 そしてベスはそんなふたりを子分として世話してやっているのだ。


「ま、下りるわけにゃいかないんだから、登るしかないさ」


 ベスはちょっとした出っ張りから腰を浮かせ、また岩肌にしがみついた。

 そして猿のように、とまではいかないが、それなりに身軽な様子でするすると上っていく。


「シモン、ちょっと先まで行って、いったいどこまでこの変な山が続いてるのか見てきてくれないか」

「へい、承知を」


 小柄なシモンは、まるで平坦な道を行くのと変わらない気楽さでほんのわずかなおうとつに指を引っ掛け、あっという間に見えない位置まで上っていった。

 ベスはシモンが示した休憩できる場所、またもやちょっとした出っ張りに腰を乗せて、息をつく。


 風が吹く。

 下は南風だったが、上空は西風だった。

 単日三日目の昼である。

 明日にはまた双日となり、暑くなるだろう。


 ベスは長い金髪を掻き上げ、この先どうしようかと考えた。

 鳥から黄金の瓶を取り返すために山を上ったはいいが、ここまでくると黄金の瓶を諦めてもそう簡単には降りられない。

 やはり上ったのは失敗だったかな、と思う。

 しかしこれほど高い山だとは思わなかったし、そう気づいたときには後戻りできないところまできていたから、ある意味では仕方ないことだった。


 仕方ないことを考えても、それこそ仕方ない。

 考えても無駄なことは考えないほうがいいのだ。

 ベスはあっさりと後悔と反省を頭から追い出し、黄金の瓶を取り返して無事に地上へ下りることだけを考えた。

 経験上、そうやって成功する図を考えていれば、七割くらいの確率で想像したとおりに行くのだ。


「ベス姉、ベス姉!」


 上からシモンが降りてくる。

 なにか、焦ったような声だった。


「どうしたんだい、シモン」

「頂上を見てきましたぜ! こいつはえらいことだ」

「なにがえらいことなんだい。頂上に鳥の巣がなかったのか? それともあのくそ鳥が黄金の瓶を食っちまったあとだったのか?」

「そ、そんなことはどうでもいいんですよ、それよりももっと大変なことが! ああとにかく、ベス姉も早くここまで上ってきてくださいよ」

「そんなこと言ったって、おまえみたいにするする登れるわけないでしょうが」


 ベスはその位置から頭上を見上げたが、やはり頂上付近は薄いもやのようなものに隠れていて、全容は見えてこなかった。


「なにが見えるんだい。さっさと言いなさい」

「信じてもらえねえでしょうけど、町ですよ!」


 シモンは言った。


「この上に、町があるんですよ!」



  *



「ねえ、これ、明らかに狭くない?」


 紫が眉をひそめ、ごそごそと身じろぎする。

 すると密着して座っている泉が悲鳴を上げて、


「ゆ、紫ちゃん、そ、そんなとこ触らないでよっ」

「どこよ? これ?」

「ひゃああっ」

「ゆかりんが岡久保にセクハラしてるー。だめなんだー」

「その口に銃口突っ込んで黙らせますよ先生。あとほんとその呼び方やめてください。寒気がしてだれかを殴りたくなります」

「んー、先生、もっとそっち寄ってよ」

「無茶言うな、七五三。ぼくはもう精いっぱいだっての」

「えーい、じゃあ無理やり!」

「いたたたっ! 潰れる、壁とのあいだで押しつぶされる! あといろんなもんが当たってるからおまえはもうちょっとそういうところに気を遣え!」

「なんとか入った!」


 船、とは名ばかりの、帆もなければ櫂もない、強いていえばヨットの土台だけを独立させたような物体の内部である。

 大輔たちはさっそく「空を渡る船」に乗り込み、ミラという不思議な存在の故郷へ向けて旅立とうとしていた。


 白銀の外殻が傷ひとつなく残っていたように、内部もまた、ほとんど損傷なく維持されている。

 基本的に、銀色が目立つ内装だった。

 内部の壁は一面つるりとしていて、継ぎ目もなく白に塗られている。

 そこに縦一列に座席が並んでいて、座席もまた銀色で、先頭の座席の前にはコンソールのようにいくつかのスイッチ類が並んでいた。

 その先頭座席には、ミラとルネが乗り込んでいる。


 座席は全部で四つあり、すべてがひとり用、つまり四人乗りらしいが、いちばん後部の座席がなにかの衝撃で破損していて、残りふたつの座席を四人で分け合うことになり、その結果が、


「やっぱり、狭いんだけど」


 ということだった。

 ミラとルネの後ろには、紫と泉が肩を寄せ合い、半ば手足を絡ませるようにして一人用の座席に収まっている。

 そのさらに後ろに大輔と燿が乗り込んでいるが、大輔は壁に全身を押しつけ、燿は半分ほど余った座席にちょこんと座る。


「みんな、大丈夫?」


 内部にスピーカーを通したミラの声が響く。


「大丈夫じゃないけど、大丈夫!」


 大輔が言うと、ミラがなにか操作したらしく、上部の出入り口がゆっくりと閉まった。


「おお、すごい! SF映画みたい!」

「それじゃあ、飛行をはじめるわ。衝撃があるかもしれないから、みんなしっかり掴まってて」

「先生、なんて?」

「衝撃に注意だってさ」

「わっ、大変」


 燿は慌てたように大輔の身体にしがみついた。

 大輔は壁に向かっているから、実際は背中にしがみつかれた感触を覚えるだけだが、


「こいつ、なんか将来男絡みの波乱を呼びそうだよなあ」

「先生、なんか言った?」

「いや別に――おおっ」


 五人が乗り込む「船」が、がたんと大きく揺れた。

 同時に、いままで一面白かった壁がすっと透明になり、外の様子が見えるようになる。

 上部以外は、まだほとんど土に埋まっているような状態だった。

 船はがたがたと揺れ、軋んで、その土から出ようともがいている。


「ミラ、無理しなくていいぞ! なんならもうちょっと掘り出してからでもいいんだから」

「大丈夫よ、いけるわ」


 強気に言った瞬間、また船が揺れて、嘘のようになめらかに船が浮き上がった。

 燿が声を上げ、大輔は内心しまったと焦る。


「ちょ、ちょっと待ってくれ、ミラ! 一回降ろしてくれ!」

「え、降ろすの?」

「空を飛ぶんだってことを忘れてた! ぼ、ぼくは地上に残る!」


 それは新世界の言葉で交わされた会話だったが、勘のいい紫は内容に気づき、前の席に座るルネの肩をぽんと叩いた。

 そして振り返ったルネに、親指をぐいと空へ向けて、微笑む。

 そのまま行け、ということらしかった。


「ミラ、このまま行っていいみたいだよ」


 とルネが言うと、後ろから大輔のしどろもどろな反論が聞こえたが、ミラはそれを無視してさらに船を上昇させた。


 船はまっすぐ垂直に、エンジン音も響かせず、ただかすかにうなるような音を立て、二十メートルほどの穴を抜け出した。

 白銀に輝く長細い飛行機は、そのまま地上を飛び去る。


 あっという間に高度は数十メートルを超えた。

 見下ろせば、青く風に揺れる畑が一望できる。

 その広大な敷地の隅にルネの家があり、さらに鉱山が見える。


 ルネはぐんぐんとちいさくなっていく家を見下ろし、複雑な気分になった。

 なにかに囚われた気になって家から逃げ出し、鉱山のあたりをうろついていたルネだが、こうして見下ろしてみれば、それは一度で見渡せる程度の範囲でしかなかった。


 世界はもっと、ずっと広い。

 広大無辺な世界の、ほんのちいさな範囲しか人間は知ることができない。

 ルネは不意に自分という存在がちいさくなってしまったような気がして、膝の上に抱いたミラの箱をきゅっと握った。


 船はぐんぐんと垂直に上昇していく。

 いったいどこまで行くつもりなのかは、だれにもわからなかった。


 後ろからは大輔の悲鳴が聞こえてくる。

 自分たちの言葉で叫んでいるらしく、ルネには内容までは理解できなかったが、よほど高い場所が怖いのだと苦笑いする。

 その後ろの座席、紫と泉が座っている座席からは、いかにも楽しそうな、子どもがはしゃぐような笑い声が聞こえていた。

 どうも紫が、大輔の悲鳴を笑っているらしい。


 こいつらは本当に仲がいいんだろうか、とルネは不思議に思ったが、ともかく、船は行く。


「ミラ、きみの生まれた町はどこにあるんだ?」

「ここがどのあたりなのかはわからないけど、もしいまももとの場所にあるなら、もっと高い場所だと思うわ」

「きみは空に住んでいたの?」

「そうかもしれないわね」


 そう言って、ミラはいたずらっぽく笑った。


 船は白い雲を突き抜ける。

 一面、ガラスのように透き通って外が見える状態での雲への突入はちょっとしたアトラクションで、燿はジェットコースターにでも乗っている気分で歓声を上げた。


 雲の上に出ると、一面の雲海である。


「うわあ、すごい――」


 白くもくもくとした雲が海のように波打ち、青い空の下をどこまでも覆い尽くしている。

 泉も思わず呟き、その景色に見とれた。


 船は、雲を抜けたところで上昇をやめた。

 そこからゆっくりと船体を回し、西のほうへ頭を向ける。


 前方を見ていたルネは、雲の上に、なにか黒く細いものがひょろひょろと伸びているのを見た。

 なんだろうと目を凝らし、その位置を頭のなかで思い浮かべると、どうやらその細いものは杖山らしかった。

 杖山は雲を貫いてまっすぐと伸び、その先端はまだ先にあって、まったく見えない。


「すごいな、あんなに高いとは思ってなかったや」


 船は、また低くうなって動きはじめた。

 ゆったり上昇しながら西へ、杖山のほうへ向かっている。

 そのままぐんぐんと近づいていくから、衝突するのではないかと不安に思ったが、船は杖山のすぐ横を抜けていった。


 そこからゆるやかに旋回をはじめる。

 どうやら杖山を軸に、ゆっくりと回りながら高度を高めているらしい。


 ミラは、どうやら本当の空の彼方からやってきた存在のようだった。

 しかし、まさか空の上に町が浮いているわけがない。

 おそらくどこか地上には下りるのだろうが、それは相当遠い場所かもしれない。


 ルネはふと、もう家には帰れないかもしれないと考えた。

 いっしょにミラの故郷へ行こう、と大輔が誘ったとき、ルネは思ったよりも自分の心が高鳴らないのを不思議に感じていた。


 たしかにミラの故郷は見てみたかったし、日常に倦んで家からすこし離れたかったのも事実だ。

 しかし、根本的にルネは、自分の家が嫌いではなかった。

 またあの場所に帰らなければならない、と思う。

 大輔は用が済んだらこの船を使ってまたルネを家まで送ってくれると言っていたが、それもどこまであてになるか。

 そう言った本人がいま、高いところを怖がってがたがたと震えているほどだから、信じろというほうが難しい。


「……ま、なるようにしかならない、か」


 いまさら船を引き返させるわけにもいかないのだ。

 ため息をつくルネを、ミラがなにか言いたげに見上げる。


「ルネ、後悔しているの?」

「え?」

「いっしょにきたことを」

「いや、後悔はしてないよ。ミラが生まれた町っていうのも気になるし。それにこんな不思議な乗り物、乗ったことなかったしね。これ、古いものなんだろ? どうしていまの時代にはこういうものが残ってないんだろう」

「昔とは環境がちがうのよ」


 大人びた冷静な口調でミラは言った。


「昔は、もっと魔力が多くあったの。いまはそれがあまりないでしょう? あなたが住んでいた場所とか、あのあたりは比較的魔力が多い場所だけど、それでも昔に比べると比較にならないくらい希薄になってる。こういうものは魔力で動いてるから、魔力がないと使えないのよ」

「でも、いまはこうやって動いてるだろ?」

「それはたぶん、魔法を使って掘り出したせいじゃないかしら。それで魔力を充填できたのかも。それか、長いあいだ土のなかでじっと魔力を貯めてたおかげか――」


 ルネは、魔力を具体的に理解することはできない。

 そういうものがあるらしい、と知っているくらいだ。

 実際、その濃度を肌で感じることはできるが、それもせいぜい空気の質感がすこしちがうかと思うくらいで、魔力がたくさんある場所だからといってどうなるわけでもない。


 ミラは、まるで異世界人のようだった。

 異世界人は魔力を使う。

 それを不思議だと思っているあいだにも、船はぐんぐんと上昇を続ける。


「――見えてきたわ」


 船そのものと接続され感覚を共有しているミラがぽつりと言った。

 ルネはぐっと頭上を覗き込む。


 細く、ひょろひょろと伸びる枯れ木のような杖山の上である。

 そこになにか、台座のようなものがあった。


 それはさながら細い棒の上に皿を乗っけているような形で、恐ろしく不安定に見えたが、白いもやの向こうに静かに存在している。


「もしかして、杖山の上に町があるのか?」


 まさか、と思うが、たしかにそうなのだ。

 杖山の頂上が、町になっているのである。


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