緑竜と幻の谷 10
10
泉ははっと目を覚まし、すぐ目の前に紙のようなものが置いてあることに気づいて慌てた。
それはどうやら額に張り付いていて、ぴっと引っ張ると、魔術陣のようなものが描かれている。
どうやらそれがすべての原因らしい。
「おう、おはよう」
大輔がのっそりと片手を上げた。
泉はなんとなく会釈しながらまわりを見回し、燿と紫がぐったりと横たわっていることに気づく。
「わっ――ふ、ふたりは?」
「あいつの魔法にかかってるんだ」
「あいつ……」
防御用の罠として作った魔術陣の外側で、例の男が大の字になって眠っていた。
まさか自分の魔法にかかったのかと思ったが、男の額には魔術陣も張られていなかったから、おそらくただ眠っているだけなのだろう。
「あの、ふたりは大丈夫なんですか? 早くこれを取ってあげないと」
「いや、そいつは自分で目覚めて取らなきゃいけないんだ。第三者が勝手に取ると、魔力が逆流して心的世界に閉じ込められるようになってる」
「そうなんですか」
「ま、このふたりは大丈夫だよ。大方、心的世界だってことに気づいて好き放題に改変して遊んでるんだろ。とくに神小路はそうだと思う。まったく、気楽なもんだよなあ。ぼくなんか速攻で起きたのに」
ぶつぶつ言う大輔を無視し、泉はあたりを見回したが、その周囲にドラゴンの姿は見えなかった。
いや、見えている山々はすべてドラゴンなのだから、いるといえばいるのだが、すくなくともドラゴンの姿としては現れていない。
泉は心的世界で聞いた声を思い出し、ごくりと唾を飲み込んで、大輔の背中に言った。
「あ、あの、先生」
「んー?」
「あの、その……わ、わたしのこと、好きですか?」
「……はい?」
大輔は思わず振り返る。
泉は慌てて首を振り、
「あ、あの、そういう意味じゃないんです! 先生のことが好きとか、そういうことはぜんぜんなくって」
「……いやそれはそれでそれなりのショックなわけだけど」
「ああごめんなさい、でもちがうんです。あの、その」
泉はたどたどしく、心的世界で起こったことを説明した。
大輔はふむふむとうなずきながら聞き、最後は真剣な顔で、
「たしかに、それはむずかしい心の問題だよ。思春期だからとか、そういうわけじゃなくて、生きていく上で何回もそういう場面に出会ったりするもんだからな。でも、そういう意味じゃ岡久保は幸運だな」
「幸運?」
「若いころに仲間と出会えてさ」
ぽんと泉の頭に手を置いて、大輔は微笑む。
「ふたりが起きたら、同じ話をしてみるといい。きっと岡久保がほしい言葉をふたりは言ってくれるよ。もちろん、先生も岡久保のことは好きだよ」
「先生……」
背景を見れば、まあ、悪くないシーンではある。
しかし、タイミングが悪かった。
大輔が泉の頭に手を置き、そんなことを言う一瞬前に、散々心的風景を楽しんだ紫がむくりと起きて、自分の額に張りついた魔術陣を外していた。
ほかの仲間たちはもう起きているか、とあたりを見回したとき、紫はそれを目撃したのである。
紫は背景を見ていない。
どういう過程があってその場面に行き着いたのかを知らない。
だから、それはもう、教師が生徒に手を出した場面にしか見えなかった。
「この腐れ教師め!」
「な、なんだ!?」
「泉から手を離せこの外道!」
「あ、ゆ、紫ちゃん、ちがうのこれは――」
「泉、大丈夫よ。わたしが守ってあげるから。ええいそこに立てこの人外めっ」
「いや話を聞けよ神小路!」
「問答無用っ」
「ぎゃああっ」
断末魔の声に寝ていたブラックもびくりと身体を動かし、目をこすりながら起き上がった。
そして魔術陣の内側ですったもんだの末にぐったりと横たわる大輔を見て、
「むう、おれの天才もどうやら留まることを知らないらしいな。まさか寝ているあいだに無意識で敵をひとりやっつけるとは」
「いや、やっつけられてないし! 生徒による暴行の結果だから、これ。うう、これが学校内だったら絶対校内暴力で訴えてやるのに」
「教師が生徒をか? 逆じゃねえのか、それ」
「いまどきは生徒のほうが偉いんだ。教育現場は大変さ」
そうこうしているうちに、最後まで寝ていた燿もようやく目を覚まし、眠たげに目をこすりながら額に張りついた邪魔な紙を剥がした。
「あれ、みんな無事だったの? なんだー、みんな大変だと思ってがんばって起きたのに」
「おまえが最後だよ、七五三。ちなみにいちばんはぼくだったけどな」
「っていうかまだ先生の泉を口説いてた疑惑は解けてませんけど?」
「え、なにそれ、寝てるあいだにそんな楽しそうなことが?」
「ち、ちがうの、そうじゃないんだって! あのね、わたしが――」
泉は一瞬口ごもったが、そのまま黙り込むと二度と言う機会はなくなると感じて、口を開いた。
「あのね、わたしが不安だったの」
「その不安につけこんであの外道教師が?」
「ご、誤解だよ、紫ちゃん。あの、わたし、ほんとはみんなに嫌われてるんじゃないかって不安で」
「はあ?」
紫と燿は、いかにも意外そうに目を丸くする。
「なに、それ。どういうこと?」
「あの……く、暗くてごめんね。でも、ずっと、ほんとは嫌われてるんじゃないかって思って――きゃんっ」
額に衝撃を感じ、泉はひたと手を当てる。
紫は強烈なデコピンを繰り出したあとでため息をつき、それから、泉の身体をぎゅっと抱いた。
すかさず大輔が、
「あ、セクハラだ! セクハラしてるぞ!」
「女同士だからいいんです。むしろ見てる先生がセクハラです」
「ぼくの存在自体が!?」
「ね、これでわかったでしょ?」
紫はぽんぽんと泉の背中を叩く。
「だれがあなたのことを嫌ってるの。嫌ってる相手と手をつないで魔法を使ったりすると思う?」
「ううん……ごめん」
「そういう無駄な心配はやめなさい」
「そうそう、あたしたち、泉ちゃんのこと大好きだよ」
燿は泉の手を取り、心を伝えようとするように、その身体の奥にあるものまでしっかり感じさせようとするように、ぎゅうと握りしめた。
紫と燿の温かさに、泣くつもりもないのに、自然と涙があふれてくる。
それは凍りついていた心が溶けていく証だった。
大輔はいかにも教師らしい顔でうんうんとうなずく。
その後ろでブラックは頭を掻いて、
「なんかいい感じのところ悪いんだが、全員起きたみたいだし、そろそろ戦いを再開しねえか?」
「まあ、もうちょっと待ってやってくれよ。いまこの子たちにとっては重要なときなんだから」
「それはわかるが、なんだろうな、一応おれはその魔法できみたちのひとりでも始末するつもりだったんだが」
「世の中って不思議なもんさ。悪いことをしてやろうと思えば、却っていい結果になったりする。まあ、どうしてもっていうなら――」
大輔はくるりと振り返り、にやりと笑った。
「この超・大天才、大湊大輔が相手になってあげてもいいよ」
「ほう。きみは魔術師なんだろ? いまどきそんな人間がいるってのも知らなかったが、魔術師ってことは、魔法は半人前ってことだ」
「そうかな? 魔法に対する理解はだれよりも深いと思うけどね。ま、試してみりゃわかるさ」
「そりゃそうだ」
ブラックもほくそ笑んで身構えた。
「しかし、あんたもなかなかやるね」
大輔は作戦を立てるまでの時間稼ぎとして、口を動かす。
喋りながら、頭ではまったく別の、いくつもの作戦検討を並列で行なっていた。
「やっぱり新世界で生きていこうって魔法使いはちがうよ。普通はふたり以上で行う魔法を、あんたはひとりで悠々とやってのける」
「こっちにゃ仲間がないんでね、仕方なくさ。その分、威力は落ちるが、なんとか魔法発動までは持っていける。とくにこのへんは、空気中の魔力濃度が高い。ひとり分の魔力でも連鎖作用を引き出せる」
「ふむ、たしかに。ちなみにひとり用の魔術陣はどうやって?」
「ある女に教えてもらったんだ。変な女でな、見たこともない魔術陣を山ほど知ってる。その女に出会うまでは仕方なく相棒と組んでたんだが、ひとりで魔法ができるってわかってからは一匹狼だよ」
「女、か――興味深いな」
「女は好きか?」
「そこじゃねえよっ。見たこともない魔術陣云々ってところだ。その女は、どこにいる?」
「さあ。会ったのはもう何年か前のことだ。こっちにいるのか、地球に戻ってるのかも知らねえよ。ああそうだ、ひとつ聞いときたかったんだが、地球へ戻る扉は、全滅したのか?」
「らしいよ。破壊した本人がそう言ってた」
「そうか、まいったな。やっぱりだれかが壊したのか。迷惑なことしてくれたもんだ」
「まったく同感だよ――さて、そういうわけで、そろそろはじめようか」
「いい作戦は浮かんだか?」
ブラックの言葉に、大輔は自信たっぷりにうなずいた。
「きみを瞬殺できるいい方法が思いついた」
「楽しみだ」
ブラックが後ろに飛ぶ。
すかさず、そのポケットから数枚の紙を取り出し、そこに手のひらを押しつけることで魔法を発動していく。
血のように赤黒い液体が、ブラックの魔術陣からどろりとあふれ出してきた。
それは野原に溜まり、うねうねと流体と固体のあいだを行き来するように揺れ、すこしずつ大輔の前にある魔術陣の罠に近づく。
「う、なにあれ、気持ち悪い」
紫がぞくりとしたように自分の身体を抱きしめたとき、その奇妙な物体はぬっと縦に細く伸び、中央あたりでぷつんとちぎれた。
体積を半分に、ふたつの個体となって、ひとつはそのまま野原に溜まり、もうひとつはその上にぽんと落ちる。
すると、バネで弾かれたようにひとつの個体が飛び上がり、地面に描かれた魔術陣を軽々と飛び越えて大輔たちの頭上に降ってきた。
「きゃああっ、さ、触りたくない!」
珍しく紫が悲鳴を上げて逃げ出し、大輔も、
「そいつに触るなよ、毒があるかもしれないぞ」
「毒とかなくても触りませんけど! こ、こっちくんな、踏み潰すぞ!」
「おお怖ぇ。人間、窮地になると本性が出るよなあ」
「のんきに言ってる場合ですか!」
「落ち着け。ぼくの必殺魔法を見せてやろう」
大輔は靴の先で地面にちいさな魔術陣を描きはじめる。
そのあいだも赤黒い物体はうねうねと動いて生徒たちを追い回していたが、周囲に罠が張ってあるため、大輔たちもその狭い空間から逃げることができなくなっていた。
大輔は魔術陣を描きながら、ちらとブラックを見る。
「ぼくを狙うならいまだと思うけど、いいのか」
「必殺魔法ってやつが気になるんでね」
「余裕ってことだ」
「変わり者なだけさ」
「じゃ、お望み通りその変わり者に見せてやるよ」
魔術陣が完成する。
大輔はにやりとして、その中央に手をついた。
ちいさく呪文を唱える。
魔法陣に弱い光が灯ったかと思うと、それはまたたく間に目も眩むような閃光となり、広場の隅々まで照らし出した。
魔法を発動させた大輔はもちろん、生徒たちも、ブラックもあまりの眩しさに目を閉じる。
純白の光はそれほど鋭くあたりを駆け抜け、あらゆるものを貫いて、四散していった。
紫は光がなくなったことを確認してゆっくりと目を開け、すぐ後ろまで迫っていたはずの生理的に受け付けない赤黒い物体を振り返り、あれ、と呟く。
「どこに消えたのかしら」
迫っていたはずの赤黒い物体は、跡形もなく消え去っている。
それだけではない。
気づいた泉があっと声を上げる。
三人の周囲にすき間なく作ってあった罠まで、すべてがなくなっているのである。
ブラックはポケットを漁り、何枚かの紙を取り出して確認し、それを野原に投げ出して笑った。
「やるなあ、天才」
「だろう。あと、ぼくは超・宇宙的天才だ。間違えるなよ」
その光は、すべての魔術陣を魔力で上書きして消してしまう、という魔法だった。
敵味方問わず、周囲にあるすべての魔術陣を無効化できるが、その分魔力の消費が大きい。
大輔はわずかな魔力を使い切り、体力の何割かまで吸い取られて、貧血のような目眩を覚えた。
しかしなんとか倒れはせず、ブラックを見て勝ち誇ったように笑う。
「さあ、準備してきた魔術陣はこれで全部台なしだろ。それでも戦えるか?」
「もちろん。ここからはその都度魔術陣を描きながらやるしかないな。魔術陣を描くのは苦手なんだが、仕方ない」
ブラックはすぐさま後ろへ飛び、魔術陣を描きはじめた。
それは、相手に数で負けているという状況を打破する唯一の方法だった。
大輔たちは四人いる。
そのうちふたりが魔法を発動しているあいだに、残ったふたりで魔術陣を描くこともできるのだ。
そうなればブラックに勝ち目はなく、対抗できるとすれば、魔術陣がひとつもないこの状況で先を取ることしかなかった。
大輔ももちろんそのことには気づいていた。
しかし大輔は魔術陣の作成には自信があり、ブラックより出遅れても、確実に早く魔術陣を描ききれると確信していた。
ブラックが動き出したのを見て、大輔も魔術陣の作成にとりかかる。
しかし、先ほどの魔法に使った体力を使ったせいで、全身に重りをつけたように身体が動かなかった。
なんとかそれをがまんして半分ほど魔術陣を作ったところで、膝から力が抜ける。
「先生!」
倒れた大輔を、燿が抱き起こした。
その向こうでブラックが勝利を確信し、にやりと笑う。
まだ半人前の燿たちでは、いまからブラックより先に魔術陣を完成させるなど不可能だった。
ブラックに攻撃をされれば、それを防ぐ手立てもない。
ほとんど反射的に、紫と燿が泉を守るように一歩前に出た。
泉は自分が守られているのだと気づき、やはり足を引っ張っているのだと感じたが、すぐ首を振る。
そうやって自己嫌悪に逃げることは、もうやめるのだ。
泉は、紫と燿とかき分けて前に立った。
なにか策があるというわけではない。
しかしだれかの後ろにいるだけはもうたくさんだった。
「泉――」
「ふたりは、いまのうちに魔術陣を作って。わたしがなんとか時間を稼ぐから」
「時間を稼ぐって、なにか方法はあるの?」
「な、ないけど、でも、がんばる」
「あのね、がんばってなんとかなる問題じゃ――」
言い争っているあいだに、ブラックは魔術陣を完成させる。
同時にブラックは、前に駆け出した。
魔法による遠距離攻撃ではなく、魔法を使わない肉弾戦を仕掛けてきたのだ。
そもそも、ひとりで魔法を使うには、特別な魔術陣が必要になる。
大輔の魔法ですべての魔術陣が無効化されたいま、ブラックに魔法を使う術はなく、魔術陣はあくまで接近戦はないと油断させるための囮にすぎなかった。
先頭に立っている泉に、ブラックがすぐ近くまで近づく。
殴り合いのけんかなどもちろんしたことがない泉は反射的に目を閉じた。
そこに、
『大丈夫、ボクたちがきみを守るよ』
やわらかな声が響いた。
ブラックはびくりとして立ち止まる。
「おいおい――なにが起こるっていうんだ?」
荒々しい風が吹く。
周囲の山々が波打ち、風景がまた変わっていく。
ブラックは山の表面が乱れ、その下から硬い鱗が覗くのを見た。
曇り空を突き抜け、長い首がぬっと伸び、それが動いて、ブラックをじっと見下ろす。
それも一頭ではない。
周囲の山すべてがそうなのだと気づくまで、時間はかからなかった。
「――これが大陸ドラゴンか」
文字どおり、大陸のような巨大さを誇る無数のドラゴンが、じっとブラックを見下ろしていた。
彼らにとって人間はノミほどの生物に過ぎず、身じろぎもせずそこにいるだけで圧倒的な圧力を感じる。
ブラックは一瞬で様々な可能性を考えたが、結局、大きな声で笑い、その場にばたんと倒れ込んだ。
「こいつは勝てねえや。おれの負けだ」
魔法も使えないひとりの人間が、山のような大陸ドラゴンの群れに敵うはずはなかった。




