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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
緑竜と幻の谷
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緑竜と幻の谷 9

  9


「――こいつは困った」


 マイク・ブラックは腕を組み、言葉とは裏腹に楽しげな顔をしている。

 無防備に倒れている大輔たち四人から、四、五メートル離れた場所だった。


 意識を失わせているうちに縛り上げ、自由を奪うつもりだったが、その位置まで近づいたとき、ブラックは彼らの周囲すべてに張り巡らせてある魔術陣に気づいたのだ。

 それがなんの魔術陣なのかまでは、ブラックにはわからない。

 しかし状況から考えて罠であることは間違いないだろう。


 ブラックと大輔たちは、お互いに初対面である。

 向こうがブラックの得意とする精神攻撃を知っていたとは思えないが、こんなこともあろうかというように、予め自分たちのまわりに罠を用意しておいたのだ。

 その周到さと、罠のせいで近づくことができないという状況に、ブラックはけらけらと笑う。


「なるほど、天才を名乗るだけのことはある。こいつはなかなかの策士だ」

「その言葉、そのままお返しするよ」


 倒れていた大輔はむくりと起き上がり、自分の額に張りついた紙を剥がして、その魔術陣をしげしげと眺める。


「ううむ、見たことない魔術陣だな。ソロモンにも載ってないやつだ。なるほどな、ここで所有者じゃなくて対象者から魔力の供給を受けるわけだ。ふむふむ」

「おいおい、ひとの商売道具を分析しねえでくれよ」

「いや、悪いね、ついくせで。しかしこういう魔法ははじめて食らったよ。おもしろいもんだな、精神攻撃って」

「いい夢が見られたろ?」

「最悪の夢だったよ」


 大輔はまだ倒れている三人を見下ろす。

 それぞれ、額には同じ魔術陣が張りついていた。

 大輔はいちばん近くに倒れていた燿の紙に手をかけたが、そのままふと、ブラックを振り返る。


 ブラックは魔術陣の外でにやりと笑った。


「よく気づいたな」

「用心深さはお互いさまだ。そっちこそ、よくこのまわりに魔術陣があるってわかったな」

「おれは仲間がいないんでね。勝って気を引き締めるのも自分の仕事だ」


 大輔は燿の額に貼りつけられた紙から手を離し、その場に腰を下ろす。

 自分の分の魔術陣をしげしげと眺めて、仮説に対する裏付けを得て、うんとうなずいた。


「やっぱり、そうだ。強制的に剥がせば魔力が逆流するようになってる」

「ほう、よくわかるな」

「ぼくは魔法使いじゃなくて魔術師なんでね。これが専門だ。ってことは、こいつらも自分で目を覚まして取るしかないのか」

「そういうこと。ま、お互い動けねえんだ。ゆっくりやろうや」


 ブラックもどかりと腰を下ろして、あぐらを組んだ。

 大輔はくせでポケットを漁り、空の煙草を取り出して、ため息をつく。

 するとブラックはそれを真似るようにポケットを探り、


「一本吸うかい?」

「ま、マジか? あんたいいやつだなあ」


 魔術陣の上を、煙草とライターが飛ぶ。

 大輔はそれを受け取り、久しぶりの煙を肺いっぱいに吸い込んだ。


「きみ、出身は?」


 ブラックも煙草に火をつけながら言う。


「日本だ。全員ね」

「へえ。知ってるぜ、おれの弟が日本の大ファンなんだ。アニメにゲームってな」

「ありがたいような、そうでもないような気分だね。あんたはアメリカか?」

「そういうこと」

「個人はともかく、社会レベルでは世話になってる」

「気にすんな。無理やり世話してるだけさ」


 ブラックは煙を細く吐き出し、天に突き刺さるような山々を見上げた。


「なあ、きみはなんのために戦ってる? だれかから金をもらってるのか?」

「いや、ちょっとした恩義があるもんでね」

「この土地にか?」

「この土地に住むものに、だよ。知らないだろうけど、ここは大陸ドラゴンの巣なんだ」

「大陸ドラゴン? へえ、そうなのか。聞いたことあるぜ、大陸くらいでかいんだろ? 実在はしないと思ってたが」

「ぼくもそう思ってたけど、新世界は未知に溢れてるらしい」

「いいね、それでこそ新世界だ。そういや、大陸ドラゴンには伝説があったな。たしか、そうだ、大陸ドラゴンの舌ってやつだ。大陸ドラゴンの舌を食うと、不老不死になるとか」

「それは初耳だな」

「不老不死は好きかい?」

「いや」

「おれもだ。死なない人生に楽しみはない。まあ、なかには不老不死を望む人間もいるがな。そういう人間からしてみりゃ、大陸ドラゴンはどんな犠牲を払ってでも手に入れたいもんだろう」

「だからそっとしておきたいんだよ。人間がこの場所を知ると、必ずここは荒らされる。ぼくたちは大陸ドラゴンにちょっとした恩義があるから、大陸ドラゴンの味方をしてるってわけさ。あんたは、ほんとに金のためだけに革命軍と動いてるのか?」

「まあな。軽くこっちで稼いでアメリカに帰るはずだったんだが、扉が壊れちまってよ。帰れなくなったもんだから、生活できるくらいは稼がねえとな。きみもそのくちか?」

「こっちはまあちょっといろいろあってね。扉が壊れて帰れなくなったのは同じだ。世界中にいるんだろうな、そんな地球人が」

「だろうな。ま、生きられるやつは生きていくだろうさ。ここには金もあって飯もある。女もいるしな。不自由することはない。そもそも地球の生活が恋しいようなやつは、新世界にゃやってこねえさ」


 煙草をもみ消し、ブラックはそのままごろんと寝そべった。


「ちょっと寝るわ。雨が降ったら教えてくれや」

「そのあいだにぼくがあんたを縛り上げるけど」

「そのときはそのときだ。おれは、そのときやりたいことを最優先することにしてるんでね」


 そう言うと、ブラックは本当に寝息を立てはじめた。

 大輔は呆れたような、すこし感心したような顔でブラックを見ていたが、その視線を後ろの三人に移し、ふと呟く。


「こいつらは大丈夫かな。ま、神小路は魔法だってことに気づけるだろうけど、七五三と岡久保はどうなるか……まあ、七五三はアホだからいいとして、岡久保はちょっと心配だな」



  *



 なるほど、と神小路紫はうなずき、にやりと笑った。


「なんでも思い通りになる世界ってことね。悪くないわ」


 紫の目の前には、無数の男たちがいる。

 その男たちはみな、紫の前にひれ伏していた。


 紫が椅子に座ると、すかさず執事のような身なりの男が椅子の位置を整える。

 目の前にはテーブルが現れ、白いクロスがかけられたそこに、香ばしい匂いを立てる大きな肉が運ばれてくる。

 運ぶのも眉目秀麗な男なら、それを切り分け、紫の口へそっと運ぶ男もまた絶世の美男子である。


 紫はもぐもぐと肉を喰らい、運ばれてきた血のように赤いワインを飲み干し、ふうと息をつく。

 口元を拭うのも美男子の仕事である。


「あー、極楽極楽。あの男、なかなかいい魔法使うじゃない」


 もちろん紫は、この世界が自分の心的世界であることに気づいていた。

 気づいた上で、心的世界なら、と自分の好きなように書き換え、楽しんでいるのだ。


 もちろん、そのあいだ現実の自分は無防備に意識を失ったままだということにも気づいている。

 しかし、その点に関しては心配していなかった。

 予め敵が近づけないように罠も張ってあるし、大輔のことだから、早々に目を覚ましてあたりを見張っているだろう。


 つまり紫は、この世界を充分堪能する時間的余裕があるのだ。

 紫は高笑いしながら、自分が女王となった世界を心の底から堪能するのだった。



  *



 一方、燿はといえば。


「うーん、眠たい……」


 ここ数日、移動ばかりで疲れが溜まっているのか、あるいは寝不足なのか、心的世界のなかでふわふわとしたベッドに寝そべり、枕を抱いていた。

 すでに一度眠ったあとである。

 しかし目を覚ましてもまだ眠気は覚めず、心地よいまどろみに浸りながら、ベッドの上をごろごろと転がっている。


 そのベッドは、文字どおり無限大の広さを持っていた。

 どこまで転がっても落ちるということはなく、シーツは常に洗濯したてのいい匂いがするし、布団はふわふわとやわらかく、まるで絵本に出てくる雲の上で眠っているような感覚だった。


「あー、気持ちいいなあ。このまま一生寝ていたい気分。でも、そしたら先生に怒られそうだなあ」


 自分で呟いた先生、という単語に、意識の片隅がぴんと反応する。

 燿は白く大きな枕をぎゅっと抱いたまま、ぱちりと目を開けた。


「そういえば、みんなどうなったんだろ?」


 覚えているのは、大輔に妙な紙が貼りつき、そのせいかどうかもわからないが、大輔が倒れたところまでだった。

 そのあと、自分も同じような攻撃を受けたこともうっすらと記憶にある。

 そこからぷつりと意識が途切れていることを思うと、その攻撃で自分の意識を失ったらしい。


「ゆかりんとか泉ちゃんもおんなじなのかな」


 だとしたら、いま全員が意識を失った状態にある、ということだ。

 その状況はまずいのでは、と燿の理性が言う。

 しかしそれよりも何倍も巨大な欲求が、それはともかくとしてもう一回寝よう、と提案する。

 燿は欲求に従い、枕に頬を押しつけた。


「ま、先生もいるし、ゆかりんもいるし、大丈夫だよね。うん、大丈夫大丈夫。あたしももうひと眠りしたら起きるし」


 ふぁあ、とあくびをして、燿は瞼を閉じる。

 一切の悩みを頭から追い出し、そのまま穏やかな眠りに落ちたのは、ほんの数秒後のことだった。



  *



 あたりには暗闇があった。

 あるものといえば、暗闇と、岡久保泉という存在だけだった。


 その暗闇はほとんど質量を持たない。

 淀んだ暗闇が立ち込めているのではなく、光が欠如した結果として、暗闇がそこにあるのだ。


 泉は暗闇を見回し、困ったように息をついた。


「みんな、どこにいるんだろう。みんなこの場所にきたんじゃないのかな」


 泉は不安げな足取りで前へと進んだ。

 地面はないが、歩くことに不自由は感じられない。

 光はどこにもなく、延々と暗闇が続いて、そのまま歩き続けてもなにも見つかりそうにはなかったが、立ち止まることも不安で、自然と足が前へ進む。


 泉も、これが敵の魔法であることには気づいていた。

 これが一種の幻であることにも気づいていたが、ここが自分の心的世界だとは考えなかった。

 四人が共通で見せられている幻か、あるいはどこかに意識だけが飛ばされてしまったような感覚で、探せば必ずほかの三人も見つかるはずだと思ったのだ。


 その三人を探す心が、三人の幻を作り出す。

 泉の前に、一本の道ができる。

 それは光の道で、ホタルのようにやわらかく点滅しながら、泉をどこかへ導いていた。


 泉はその道を行けば三人と再会できると信じ、まっすぐ光の道を進む。

 道は曲がりくねり、そのとおりに進んでいくと、扉が現れた。

 その扉にはちいさな窓があり、なかが覗けるようになっている。

 泉はふとそのなかを覗いてみる気になり、背伸びをして窓の向こうを見た。


 どうやら、家のなからしい。

 ログハウスのような木製の家で、ちいさな丸い机を囲み、燿や紫、大輔が楽しそうに笑っているのが見える。

 泉はその仲間に入ろうとして、扉を薄く開けた。

 すると、部屋のなかの声が漏れ聞こえてきて、泉は手を止める。


「――泉はやっぱり嫌な子だよね」


 紫の声だった。


「暗いし、役に立たないし。いっつもひとの後ろに隠れてて、自分のことも喋れないしさ」

「そうそう、戦いになっても足手まといだしね」


 燿の、いつものように明るい声が響く。


「なんか、いるだけ邪魔って感じ。先生だって泉ちゃんのこと、嫌いでしょ?」

「そりゃそうさ、あんなやつ、好きなわけないよ」


 泉はその声を呆然と聞いていた。

 なにも考えられないし、まるで身体中が凍りついたように動かない。

 それなのに汗が吹き出して全身がじっとりと濡れ、それが自分の醜さに拍車をかけているような気がした。


 ひとりでに扉がぎいと開き、室内にいた三人がぐるりと振り返る。

 三人は、にっこりと笑った。


「どこに行ってたの、泉。心配したのよ」

「泉ちゃん、どうしたの。入ってきなよ」

「岡久保、大丈夫か?」


 いつものような三人の笑顔が引きつった道化師の笑みに見える。

 泉は首を振り、その場から逃げ出した。


 暗闇のなかを走り、どこまで逃げたかわからないままに立ち止まって、うずくまる。

 全身が痛かった。

 心臓に刺さった針が血管を伝い、身体中の至るところを引っ掻いているような気がした。

 ほとんど吐き気に近いような痛みで、目の前がじんと霞む。


「――でも、そうだよね」


 三人が言っていたことは、泉自身が思っていることだった。

 それを笑みで隠しているのも。

 三人はそれに気づいているのかもしれない。

 だから、あんなふうに笑っていたのかもしれないと考えて、泉はぞっとした。


 泉は子どものころから、どうしても自分が好きになれなかった。

 自分のなにもかもが嫌いで、できればすべて他人のものと交換してしまいたかった。

 容姿も、性格も、環境も、すべてが嫌なのだ。


 世界でたったひとり、自分だけがなにか瘴気めいたものを放つ暗闇を背負っていて、世界でいちばん醜い人間なのではないかと思うこともよくある。

 たとえば、テレビのニュースで見かける様々な犯罪者さえ、自分よりもずっとまともで優れた人間のように思えて仕方ない。


 しかし、そんなふうに自分が自分を嫌っていると他人に見られると、うじうじと思い悩んでいることを知られると、余計に嫌われてしまう気がして、だれにも相談したことはない。

 自分の内側にぐっと閉じ込めていた、信じられないくらいに醜い自己嫌悪を、外側へ向けて表現したことは一度もないのだ。


 そもそもそれは、自分自身さえ見ないようにしているものだった。

 なんとかして心の隅に閉じ込め、普段はまるでそんなものは存在していないかのように振る舞っているが、ふとした拍子に、たとえば町中でショーウィンドウに反射する自分を見たときや、他人の何気ない言葉に腹を立てた瞬間に閉じ込めていたものが爆発し、あっという間に意識を覆い尽くしてしまう。


 自分でも見たくないほど醜いものなのだから、他人が見たがるはずもないし、見せたくもない。

 だから、泉はそれを笑顔で隠してきた。

 みんなそうなのだと信じてきた。

 だれの心のなかにも自己嫌悪があって、だれも表には出さないだけで、みんな自己嫌悪と戦いながら生きているのだと思い込んできたが、どうやらちがうらしいとわかったのは三折坂高校に入ってからだ。

 紫や燿と出会って、自分とはまったく関わりがないようなふたりと仲よくなって、泉ははじめて、自分だけがそんなに汚いものなのだと気づいたのだ。


 燿は見たとおり、悩みごともなさそうで、自己嫌悪とはまったく無縁に生きていた。

 紫は文字どおり泉とは正反対で、常に自信を持ち、絶対に自分を疑わない。

 そんなふたりといっしょにいると、泉は自分がほんのすこし前向きになれる反面、すこしずつ自己嫌悪が肥大していくことも感じていた。


 泉のまわりに、燿、紫、大輔が現れる。

 三人は泉を取り囲み、口々に言う。


「おまえは醜い人間だ」

「おまえが醜いことをみんな知っている」

「だれも本心で笑ったりはしない」

「笑顔の裏でおまえのことを嫌い、遠ざけ、関わり合わないようにしている」

「おまえはそんなことにも気づかず、友だちだと思い込んでいる」

「まったく、よくまわりを見てみれば気づくだろうに」


 泉は顔を上げ、三人を見た。

 三人は笑っていなかった。

 眉をひそめ、ありったけの嫌悪を込めて、泉を見下ろしていた。


 そうだったんだ、と泉はどこか納得したようにうなずく。

 心が、音を立てて崩れていく。


『だめだ』


 光のような声が聞こえた。


『それは本物の人間じゃない。きみが作り出した幻にすぎない』


 泉は顔も上げず、うなずいた。


「わかってる、そんなの――わたしが、わたしを苦しめてるだけだって。でも、しょうがないよ。だってわたし、わたしのことが大っ嫌いなんだもん」

『きみは相手の魔法にかかっている。これはきみの心のなかだ。きみの心は、きみの意志に従う。この世界が暗いのは、きみの意志がそれを望んでいるせいなんだ。ここにいては危険だ』

「じゃあどこへ行くの? わたしはわたしにしかなれないのに、どうやって、どこへ行けばいいの?」

『みんなところへ。きみを愛してくれるみんなのところへ』

「いないよ、そんなひと」


 本当に、そう思う。

 自分自身をいちばんよく知っている自分自身が愛せないのだ。

 なのに、ほかにだれが愛してくれるだろう。


 泉の手足に、鎖が絡みついている。

 錆びが浮かんだ硬い鎖が皮膚を引っかき、じりじりと地中へ引きずり込もうとしていた。


 そのまま消えてしまってもいいと泉は思った。

 どうせ現実へ戻っても足手まといになるだけだ、それならここで死んでしまったほうがいいと思うと、鎖はさらに強い力で泉を地中へ引き込んだ。


「ごめんね、みんな。わたし、だめ――」

『ボクがきみを愛する』


 さっと、暗闇に光が差した。

 スポットライトのように一条の光だけが暗闇を穿つが、その下にはだれも立っていない。

 しかし声と、温かな意志ははっきりと感じる。


『ボクがきみを愛するよ。ボクはきみを救いたいと思う。これは、不思議なことだ。きみが死んでも、ボクにはなんの影響もない。だけど、きみを救いたいと思うんだ』


 光がサーチライトのように暗闇を走る。

 それが泉の姿を明るく照らし出した。

 温かい、ひとの体温のような光だった。


『ボクがきみを救い出すことはできない。きみは自分でこの場所から出たいと思わないと、ここから永遠に出られない』

「でも――だって、みんな心の底ではわたしのことを嫌ってるかもしれない。笑ってても、本当はそうじゃないかもしれない。燿ちゃんだって、紫ちゃんだって、先生だって――」

『それはだれにもわからないことだ。本人以外のだれにも。でも、きみたちなら感じられるはずだ。ボクに魔法をかけてくれたとき、きみたちは魔力でつながっていた。魔力のつながりは心のつながりと同じくらい強固なものなんだ。魔力を通して、ほかの人間たちの心がわかるはずだよ』

「わかんないよ、そんなの」

『わかろうとしていないんだ』

「だって、怖いもん。ほんとにみんながわたしのことを嫌ってたら……わたし、ひとりになっちゃう」


 たったひとりきり、暗闇に、この新世界というなにもわからない世界に取り残されてしまう。

 それは絶対的な恐怖だった。

 たったひとりきりでは、自分の存在を支えることもできない。

 死ぬのではなく、消えてしまう。

 自分がいなくなる、というのはなによりも大きな不安なのだ。


『確かめなくちゃいけない』


 暗闇に差し込む光は言った。


『きみは確かめる必要がある。もしその結果が、きみの望むようなものでなかったなら、ここでボクたちといっしょに暮らせばいい。ここにはなにもない。人間もいないし、不安もない。ボクたちはきみを嫌わない。きみは満足いくまでここにいればいいんだ』

「でも」

『一度外へ出よう。そうしないと、二度と出られなくなってしまう。あとでここへ戻ってくることはできる。でも深い場所に飲み込まれてしまったら、二度と外には出られない』


 泉ははじめて、自分が飲み込まれようとしている心の深みを見下ろした。

 そこは油の浮いた汚い池の底の、たんまりと溜まったヘドロのなかのようだった。


 どろどろとして、底がなく、生ぬるく泉の半身を包み込んでいる。

 錆びた鎖はじりじりと泉をヘドロのなかに引きずり込んでいる。


 心のなかへ沈み込むのは、逃避ではない。

 ここは息が苦しいから、と息ができない水のなかへ潜るようなものだ。

 傷口を押し開き、無理やり悪化させることでちくちくした痛みに一種の被虐的な、あるいは加虐的な快感をもたらそうとする自殺的な行為なのだ。


 泉は光を見上げた。

 ヘドロに手をつき、鎖の力に逆らって、外へ出ようとする。


『そう、そのままこの場所まで出てくるんだ。そうすればボクが外へ連れ出せる』


 泉が逃げようとすればするだけ、鎖はきつく泉の肌に食い込む。

 それでも泉はすこしずつヘドロを抜け出し、光に向かって進んだ。


 そこには、みんなが待っているはずだった。

 泉は温かい光のもとにたどり着き、その温かさに身をゆだねながら、重要なことに気づく。


 だれかに嫌われたくないという気持ちは、翻って、そのだれかを嫌いになりたくないという気持ちにほかならない。

 泉は、燿や紫が好きなのだ。

 自分が好かれているかどうかとは関係なく、前提として、ふたりのことを大切な友だちだと思っている。

 だから、このふたりには嫌われたくないと思う。

 嫌われようと嫌われまいと、燿や紫が好きだという気持ちにはなんら変わりないのだ。


 泉は、光に導かれて心的世界の外へ向かいながら、自分の気持ちを話してみようと決める。

 嫌われたくないという気持ちも話してみれば、不安ではなくなるかもしれない。

 そうすればいままで以上に素直に笑うこともできるはずだから。


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